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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2024年2月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2024年2月25日 
「まことの礼拝」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書4章16−26節



 先週は、イエス・キリストとサマリアの女の出会いが語られました。今朝読んでいただいたところでは、人目を避けて水汲みにきたこの女性が抱えている事情というものが、主イエスの言葉によって明らかにされています。過去に五人の夫がいて、今一緒に暮らしている人は夫ではない。どのような事情でそうなったのか、詳しいことは記されていませんが、イエス様の時代のユダヤに於いて、おそらく陰口や悪口を言われ、軽蔑され、人から声をかけられることもないという、孤立した状況だったのではないかと想像されます。



 主イエスはこの女性に声をかけ「水を飲ませてください」と頼まれました。そのように声をかけられ、また何かを頼まれるということは、久しぶりのことだったのではないでしょうか。主イエスのこの関わり方が、頑なな女性の心を動かしていったのだと思わされます。



 「あなたの夫を呼んできなさい。」主イエスは突然、このように言われました。自分が抱えている問題、内面に目を向けるようにと、彼女を導いておられます。「あなたはありのままを言ったわけだ」と言われていますが、この女性はここで自分のありのままの姿、人生に於いて破れ傷つき罪を重ね、内側が渇いた者であることを自覚するように導かれています。神様はすべての人を、例外なく救いへと招いておられます。そして自分が救いを必要としている、生きた水を必要としている渇いた者であることを自覚することが求められているのです。



 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときがくる。今がその時である。」(23節)

 イエス・キリストの到来によって、まことの礼拝をするときが来たと語られています。それは、神の霊に導かれた礼拝であり、救いの真理へと導かれる礼拝ではないでしょうか。わたしたちも、まことの礼拝者へと招かれています。
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 2024年2月18日 
「イエスが与える水」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書4章1−15節



 「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通らねばならなかった。」(4節)

 ユダヤからガリラヤへ向かう場合、サマリアを通るのが近道でした。しかし当時ユダヤの人々は、サマリアの人々と交際していなかったため、サマリアを避けわざわざ遠回りをする道を通っていました。元々は同じ民族でありながら、大変仲が悪かったのです。しかし主イエスは、あえてサマリアを通られました。



 主イエスはシカルという町で、ヤコブの井戸の側に、疲れを覚えて一人座っておられました。そこへ、一人の女性が水を汲みにやってきました。朝ではなく昼に水を汲みにきたこの女性には、人との交わりを避ける何らかの事情があると想像されます。主イエスは「水を飲ませてください」と頼みます。この女性は、サマリアの女である自分に声をかけられたことに大変驚きます。彼女よりも低い所に身を置いて「水を飲ませてください」と頼んだ主イエスの姿勢は、人との交わりを避け、固く閉ざされた彼女の心を開かせていったのではないでしょうか。



 「わたしはあなたに『生きた水』を与えることができる。」主イエスはここで、のどの渇きをいやす普通の飲み水の話をされたのではありません。しかしこの女性は、主イエスが言われる「生きた水」のことをなかなか理解することはできませんでした。



 「渇いている人は誰でもわたしの所に来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れでるようになる。」イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。(7章37節)

 主イエスを通して与えられる「生きた水」は、わたしたちの内なる渇きをいやし、また泉となってあふれ出して他者をも生かすのです。
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 2024年2月11日 
「神の愛」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書3章16−21節



 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(16節)

 教会学校でよく暗唱され、マルチン・ルターが「小さな聖書」と呼んだ、一言で聖書全体を表しているような聖句です。あまりに有名なのでこの聖句のみに注目されやすいのですが、先週のお話、主イエスとニコデモの対話の流れの中で語られています。



 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(14.15節)

 昔イスラエルの民が荒れ野を旅した時、「なぜ我々をエジプトから導き上ったのか、荒れ野で死なせるためか。」とつぶやきました。神の怒りにより多くの民が蛇に噛まれ、民はモーセに助けを求めました。そして神に命じられた通りに青銅の蛇を旗竿の先に掲げ、民がその蛇を見上げると命が助かったのです。これは、民数記に記されているお話です。主イエスはご自身がこの蛇のように上げられる、即ち十字架に架かられることをここで示されました。イスラエルの民に求められたことはただ一つ、見上げることでした。わたしたちもイエス・キリストの十字架を前にして求められていることはただ一つ、信じて仰ぎ見ることです。そこに付け加えるものは何もありません。



 「神は、世を愛された。」「世」というのは漠然とした世界全体ということではなく、わたしたち一人一人のことです。さらに言えば、主イエスに敵対し逆らう人、裏切る人であり、またしるしを見て信じるといった身勝手な人でもあります。それは、自分とは関係ないとは言えない、わたしたち自身の姿ではないでしょうか。そして一人一人を愛された神の愛は、イエス・キリストの十字架を通してわたしたちに示されました。それは、計り知れないほどの大きな愛なのです。
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 2024年2月4日 
「新たに生まれる」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書3章1−15節



 イエス・キリストとニコデモの対話が記されています。ニコデモは「ファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であった」とあります。ユダヤの社会の中で指導的立場にあり、またそれなりの身分、地位を得ていただろうと思います。ファリサイ派というのは、神に選ばれた民として、誠実に生きることを志していました。そのニコデモが、昼間ではなく夜イエスを訪ねたというのは、立場上あまり目立たないように、人目を避けてのことだと思われます。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。…」という言葉からは、真面目にイエス様の話が聞きたいと思う姿勢が伝わってきます。



 主イエスはニコデモに言われました。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(3節) 「はっきり言っておく」…これは、イエス様が大切なことを告げられる時に使われる言葉で、直訳すると「アーメン、アーメン、あなたに告げる」となります。「人は新たに生まれなければならない」と言われ、ニコデモは、どうやってもう一度母親のお腹に入って生まれてくることができるでしょうか、と戸惑いながら主イエスに尋ねています。



 「新たに」という言葉の意味は「上から」「神から」というものです。真面目に、誠実に神の前に生きようと努力してきたニコデモの生き方というのは、自力で、自分の力に頼って救いを得ようとする生き方です。主イスは、それとは全く異なる道を示されたのです。



 「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(8節)聖霊という神の力、働きにより、わたしたちはイエスを主であると告白する者へと導かれるのです。
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