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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2024年3月31日 
「心は燃えて」加藤豊子牧師
ルカによる福音書24章13−35節



 「エマオの途上」と呼ばれるお話です。イエスが復活されたその日、二人の弟子がエルサレムからエマオの村へと向かって歩いていました。そこにイエスが近づいて共に歩まれたのですが、二人の目は遮られていて、イエスだとわかりませんでした。



 「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」(21節)そのイエスが十字架で死んでしまったと、失意と絶望の中にある二人に、主イエスは聖書全体にわたってご自身について書かれていることを説明されました。主イエスご自身によるみ言葉の説き明かしを聞いて「わたしたちの心は燃えたではないか」と二人の弟子は後で振り返っています。



 なおも先に進もうとされる主イエスに「一緒にお泊りください。」と言って引き止めました。そしてイエスがパンを裂いてお渡しになったときに二人の目が開け、イエスだとわかったのです。



 讃美歌39番には「主よ、ともに宿りませ」という印象的な言葉が繰り返されています。これは、今日の聖句「一緒にお泊りください」(29節)という言葉です。作詞者のヘンリー・ライトは、病の中、これが最後になると思いながら無理を押して礼拝に臨み、説教壇に立ちました。一説ではその日彼は迫りくる夕闇の中で沈む夕陽を見ているとき、このエマオの途上の物語が心に浮かんだといいます。夕闇迫る情景と自らの人生の夕暮れが重なる中、4節では「死よ、お前の勝利はどこにあるのか、死よ、お前のとげはどこにあるのか」とコリントの信徒へ手紙一15章の聖句を引用して、死への勝利と復活の信仰を力強く歌いました。



 「一緒にお泊りください」英語でabide with me abideにはとどまる、住むという意味があります。復活の主はわたしたちにとどまってくださる、わたしたちの心を住処としてくださるのです。
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 2024年3月24日 
「エルサレム入城」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書12章12−19節



 先週の週報で、説教題を一字間違えて記しておりました。「エルサレム入城」が「エルサレム入場」となっており、看板用に説教題を筆で書こうとしたとき、気づきました。「城」と「場」では、全く意味が違ってきます。「入城」は王が戦いに勝利し、凱旋して帰ってくるときに使われる言葉です。この「エルサレム入城」は、イエス・キリストが真の王としてエルサレムに入られたことを示しています。



 「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてある通りである。「シオンの娘よ恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」」(14節)

 王が乗るのに相応しいのは、ろばの子ではなく馬のはずです。王は家来を従え馬に乗り、きらびやかな甲冑を身にまとって凱旋します。群衆が期待していたのも、強く力のある王、ローマと戦って自分たちを解放してくれる政治的、軍事的な王でした。しかし主イエスは、自ら進んでろばの子を見つけて乗られました。「ろばの子に乗って」という言葉は、旧約聖書ゼカリヤ書9章からの引用です。そこには、高ぶることなくろばに乗り、平和を告げる王の姿が示されています。



 主イエスを憎み、その命さえ狙っていたファリサイ派の人々は、群衆がイエスを歓迎する様子を見て、「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行った…」とつぶやきます。しかし、ホサナと叫んで熱烈に歓迎した群衆は、数日後には十字架につけろと激しく叫び続ける群衆へと変わるのです。そこに見られるのは、しるしを見て信じるという身勝手な信仰であり、罪深いわたしたちの姿も重ねられているのではないでしょうか。



 受難週を迎えました。本来あの十字架に架からなければならなかったのはわたしたちです。イエス・キリストが代わりに担ってくださったことを深く心に留め、この週を過ごしたいと思います。
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 2024年3月10日 
「起き上がれ」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書5章1−15節



 エルサレムの北に「ベトザタ」と呼ばれる池があり、その池を取り囲む回廊には、「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」とあります。エルサレムは祭りのために、大変な賑わいだったでしょうが、このベトザタの池は重苦しい空気に支配されていたことと思われます。



 何故病気の人たちが、ベトザタの池に集まっていたのでしょうか。その理由は、主の使いがときどき池に降りてきて、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされると言われていたからでした。



 「さて、そこに38年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。」(5節)

 38年が意味するものは、何でしょうか。最初のうちは良くなりたいと強く願い、また助けようとする家族や友人もいたかもしれません。しかし病が治ることなく、長い間この池で過ごしていたのです。



 「良くなりたいか」とイエスに問われ、この人は「はい、良くなりたいです」と答えることができませんでした。あまりにも長い年月苦しんできた、そのことによって「良くなりたい」という最初の願いは忘れ去られ、すっかりあきらめている姿がそこにあります。そして「水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいない」という言葉からは、この人は病によって健康を失っただけはなく、人との関係を失い孤独の中にあるということを思わされます。



 主イエスはこの人に「起き上がりなさい」と言われました。この言葉は、主イエスの復活を意味する言葉です。イエス・キリストは、わたしたちを捕らわれているものから解放し、新しい命に生きる者とするために来てくださったのです。
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 2024年3月3日 
「イエスの言葉を信じて」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書4章46−54節



 主イエスはサマリアを去って、再びガリラヤへ行かれました。ガリラヤの人たちがイエスを歓迎した、とありますが、それは彼らもエルサレムの過越し祭に行ったので、そのときに主イエスのなさった数々のしるしを見ていたからでありました。



 イエスのもとに、カファルナウムから王の役人がやってきました。彼の息子は病気で死にかかっており、何としても助けて欲しい、癒してほしいと頼みに来たのでした。すると主イエスはこの役人に、大変冷たい突き放したような言葉を言われました。



 「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」(48節)これは、これまでも主イエスが言われてきたことです。しかし死にかかっている息子のために、助けを求めてやってきた父親に対してあまりにも冷たいように思えます。しかし父親は、あきらめることなく「主よ、子供が死なないうちに、おいで下さい」と助けを求めます。するとイエスは「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われ、その人はイエスの言葉を信じて帰って行った、とあります。



 主イエスが来てくれて、目の前でしるしを行い息子の病気を治してくれることを願っていた人が、今やイエスの言葉を信じて、新しく歩み出しています。帰る途中、迎えに来た僕たちに会い、息子が生きていることを知らされます。そして病気が良くなった時刻を尋ねると、それは丁度主イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのとおなじ時刻であったことを知ったのです。



 主イエスはわたしたちを、しるしを見て信じる信仰ではなく、イエスの言葉を信じて生きる者へと招いておられます。
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