礼拝メッセージ
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2010年7月18日 加藤真喜男伝道師
マタイの福音書 7章15節「偽預言者@」
私の神学生時代の先輩に、既に牧師として働いておりましたが、再度神学校で学び直された方がおられました。後輩から尊敬されており、とても良い説教をされる先輩でした。彼は祈りで病気を癒す力が与えられ、多くの人々を癒した方でした。
しかし、彼は自分自身が病気になった時、自分に関しては、癒しが出来ない事に気付きました。何かがおかしいと考えたようです。その後一つの重大なことに気づくのでした。それは、自分達が信じている信仰が、聖書で言われている信仰と違っている事でした。
そのため、正しい教理を学び直すために神学校に夫婦で入学されたのでした。教理とは信じている根幹であり、骨組みと言える重要なものです。もしこの教理が違っていたら、如何に感動する話を語っていようが、それは、神の言葉を取り次いでいないで自分が思っている事を語っていることになります。そして聖書から離れてしまうならそれは偽預言者となってしまうのです。
その先輩が神学をしっかりと学び、卒業式の時に恩師である先生の所に来て、「先生卒業する前に一言頂けませんか」と言ったそうです。すると、その先生は一言、「偽預言者になるなよ。」とおっしゃったというのです。
その先生に私たちは後日、一連の話しをしながら、先生に「すごい一言ですね」と言いました。するとその先生は、「彼だからその一言が言えたのだ」、と言っていました。その学生には、預言者として、牧師としての見込みがあるからそう言ったのだと言われたのでした。
見込みがある優秀な人に偽預言者になるなと忠告しなければならない、それは偽預言者がそれだけ多いということなのでしょうか?私自身御霊に委ねながら、神の御言葉から離れないように祈らされる思いで聞いていました。何よりも、その先輩にとって一番欲しい言葉だったのだと今は思います。
みことばを語る者は、偽預言者にならないようにまっすぐに、そして正しく聖書を語る必要があります。それと共にみことばを聞く者は、聖書が正しく語られているかどうかを見分け、そして自分の信仰生活を守ることを考える必要があります。
講壇から語られている説教がもし根幹の部分において間違っているなら、大問題となります。それは私達一人一人の救いに影響する可能性すら出てくるからです。それは大変恐ろしいことと言えるでしょう。それに警告をするようにイエスは言われます。
7:15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
この気をつけなさいとは、現在形の命令で書かれています。つまり、偽預言者はあの時代だけというのではなく、常にいる。いや、あちらこちらにいるから気をつけなさい、と言う事です。一回、二回ではなく、絶えず気を付けるようにしなさいと言われています。この警告は私たちにも大いに関係する内容です。
更にこの、「彼らは羊のなりをしてやって来るが」とはギリシャ語で直訳すると「彼らは羊のかっこうをしてあなたに向かってやってくる」と訳せます。しかもここで、「あなたに」という言葉が強調されています。
まさに他でもないあなたの所に偽預言者が来ると言われているのです。私たち牧会者にはドキリとする言葉です。自分は大丈夫かとです。現在インターネットが普及し多くの牧師のメッセージを聞けたり、読めたりします。私も実は聞いています。
素晴らしい説教を、離れていても聞く事が出来る恵みと共に、人を喜ばせるための、つまり聖書から語られているとは思えない説教も時折あります。聖書の文脈を無視して話しているのです。
話し方や表現力が上手い事は素晴らしい賜物です。しかし上手い話であっても、神の前では語っている内容が問われます。偽預言者はあなたに向かってやってくるから注意しなさいと言われる主イエスの言葉に、よく耳を傾けたいと思うのです。
このみことばが、聖書の時代から現在までずっとキリスト者に警告されてきたことを考えると、偽預言者は昔から途絶えることなく存在し、神の民を神から引き離そうとしてきたのです。私たちも気を付けなくてはいけません。
偽預言者と言われる人は聖書にも沢山います。旧約聖書では偽預言者と言われ、新約では偽教師と言えるでしょう。本当にたくさん出てきます。そしてその、偽預言者の特質を最も良く現しているのはこの箇所でしょう。
P1148 p1251
エレミヤ6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
エレミヤがこの預言をしたのは、神の民であるユダ王国の滅亡が目前に迫っている緊迫した時代でした。民が主を求めずに偽の神に従っていたため、主はご自分の民にさばきを下された時代だったのでした。
それは苦しみの中で、本当に寄り頼む事が出来るのは、武力でもなく、大国であるエジプトでもなく、真の神だけだということを思い出し、真摯に謙り、悔い改めることが求められていた時代でした。しかし、それに対して偽預言者はどう言ったでしょうか。もう一度読みます。
エレミヤ6:14 彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、
平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。
手軽に癒せるものではない罪の問題を軽く見、そして神の元の帰るための一つ一つの試練を隠し、そして問題がない、平安だ、平安だと、言うのです。これが偽預言者です。
これを私たちの生活に適用するとこうなるでしょう。例えば、主が私の中にある罪を示して下さったとしましょう。そして私は、その罪で苦しんでいるとします。その時にどこかの牧師が、私が言ってほしい慰めや、心が癒される優しい言葉をかけたらどうなるでしょうか?もちろんその時、私は喜ぶでしょう。優しいカウンセリングをしてくれたおかげでほんの少しずつ元気になって行くでしょう。しかし、主の御心からはどうでしょうか?私が主に示されている罪に気付くように与えられた試練が偽の平安によって薄められ、そして、本当に主が導こうとする、悔い改めへと導かれなくなるのではないでしょうか?
最終的に神の前に悔い改めるよう導かないのなら、それは偽預言者だということなのです。預言者や牧師の仕事の大きな部分は、聖徒をキリストの元に連れて行き、キリストを指し示し、成長したキリスト者へと導く事です。
エペソ4:12〜13節にはこうあります。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
これが導きたい所なのです。そして、この成長の最も妨げとなることが、罪をそのままにする事なのです。そして罪は、恐らく今、私達が認識している以上に私達の目から罪は隠されています。そして、気付き始めた罪も、大した罪ではないかのように考えたくなるのです。そして神との大きな溝が出来てしまうのです。
聖書を読んでいて気づく事は、罪をそのまま放置することは、最終的に、その罪を持っている人を不幸にすることだということです。結局、偽預言者は人々が好む言葉を神の言葉として語り続け、民は悔い改めることなくイスラエル王国も、ユダ王国も滅んでしまいました。
これが罪なのです。そして預言者はそれを正しい方向へと導く、いや御霊に導かれるように援助する事なのです。相手が聞きたい言葉ではなく、相手に神のことばを忠実に語る事は勇気が必要ですし、信仰が必要になります。しかしそのどちらも、主に求めれば与えられると私は信じています。
この様に、旧約にはたくさんの偽預言者が登場しました。そして民を大いに惑わして来ました。そして新約の時代、生まれたばかりの教会にもたくさんの偽教師がいました。
Uペテロ2:1 しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼ら は、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやか な滅びを招いています。
2:2 そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
2:3 また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼 らが滅ぼされないままでいることはありません。
ここでも、偽預言者、偽教師は貪欲であると言われています。また彼らは作り事の言葉や、滅びをもたらす異端を密かに持ち込んでくるとあります。この当時、イエスが肉体を持って人となってこの世に来られたことを否定するグノーシス主義や、神を恐れる必要などなく、自分たちの好きなことをしたら良いとする快楽主義のエピクロス派、神は私たち人間のうちに宿るとするストア派など、様々な異端、哲学が溢れていました。
これらは皆、人間の知識、理性で考える事が出来る範囲のものしか信じない、もしくは、自分たちが信じたい願望を都合よく形にしていたのです。しかし、全知全能である神を、人間の理解の中に押し込めることは出来ないのです。自分が信じられるような形に、また語り易い形に真理を捻じ曲げ、薄めてしまう誘惑は、いつも私たちのすきを狙っているのです。
神の元に導くはずの教師でも、預言者でも、偽物がいることを私たちは覚える必要があるのです。
それでは、どういった預言者が正しく、偽預言者ではないのでしょうか?バークレーという注解者はこの様に言っています。「偽預言者が与える食物では、魂は養われない。教えの真偽を試す物は『それは人を強めて、人生の重荷に耐えさせ、正しい道を歩ませるかどうかである』と言っています。
まさに、真の預言者は、霊的な命の言葉を教え、導き、魂を養うのです。
人を御言葉に従う事で強くさせ、一つ一つに逃げるのではなく、主の試練に耐え、正しい道を歩むようにさせる、これが預言者の、いや教師の務めなのです。この手本はキリストでしょう。
キリストは弟子を強め、更には一人一人がキリストに従う者として生きる元気や勇気を与えていかれました。生きる希望がなかったサマリヤの女性を生まれ変わらせ、マグダラのマリヤの人生を変え、ニコデモを人を恐れず信じる者へと導かれました。他にもどれだけ多くの人々が新しく生まれ、生き生きと生きるように導かれたか分かりません。
もちろん目の前には依然として問題があったでしょう。しかしキリストが共におられる事、そしてキリストが自分の弱さをご存知で、憐れみ、更にはそんな自分をも受け入れ、愛して下さっている事を知った彼らは変えられました。
キリストがしたように、真の教師、預言者は神の御心を求めさせるのです。それに対して偽預言者は、貪欲なオオカミなのです。どういう事かというと、聖徒が救われる道に進むことを拒み、そして自分の意のままに操ろうとするからです。
先日佳水卿で持たれた、異端・カルトの学び会に行ってきました。その中で講師の先生がこう言っていました。普通の教会でも牧師が権威をもちカルト化しているとです。牧師に権威があるのではなく、聖書に権威があるのに、牧師が権威者のように振舞っているというのです。
そしてその行き着くところは、自分の満足のために、自分の将来のために神の教会を作り上げるように導こうとするのです。また、彼らは群れが危ない道にすすむ時、その道から離れる様に導きません。何故なら、それは困難なことだからです。そこにあるのは神の教会ではなく自分の教会なのです。
それに対して真の教師や預言者は、牧者であるキリストに似る者へとされた者です。つまり自分のためではなく、主のために生きる者であります。
ヨハネ10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
キリストこそ、まことの羊の牧者であり、預言者であり、教師なのです。偽預言者が教会を自分の思うように導くのに対して、本物の牧者であり、預言者であり、教師は、キリストにならい、神の元にその群れをいのちがけで導くのです。神の為に、神中心に歩むようにその群れを導くのです。そしてその本物の預言者や教師は、その羊のために命を捨てるのです。これが本物なのです。
毎週講壇から説教させて頂いていますが、皆様にお願いすることは、私たち二人の牧者が御心にそった牧会がそして、奨励が出来る用に祈って頂きたいと思うのです。そしてこの教会に集われる一人一人が更に神との交わりを楽しみ、その中で強められますように。一言お祈りをしたいと思います。