礼拝メッセージ

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「賛美とは1」       詩篇341‐22

今年は、礼拝で賛美についてメッセージしたいと総会でお話しいたしました。それは教会の礼拝や
信仰生活において賛美が豊かになって欲しその後押しが出来たらと思ったからでした。
しかし、昨年末から宗教法人と牧師館取得に追われと
11月末までメッセージをする事ができませんでした。
しかし神様は
4回のコンサートを与え、デイサービスでも賛美をさせて下さり、神様の方から賛美をする
機会を与えて下さいました。

しかも、来年の4月からは、辰口キリスト教会として、ゴスペルの教室を持とうとしています。
神様はそうやって辰口キリスト教会に賛美を与えようとされているのではないでしょうか?
神様は私たちの思いをはるかに超えて導かれる方である事を今一度思いました。


 ところで、皆様はどんな時に賛美したくなるでしょうか?いやどんな時に賛美しているでしょうか?
今日はどんな時に賛美するべきかを詩篇
34篇から共に学びたいと思います。

この詩篇
34篇の背景をまず考えてみましょう。
サウル王の将軍ダビデがペリシテに大勝利し凱旋した時に、民は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」
と歌いました。

王様のサウルよりも、ダビデの方が強いと群衆は歌っていたのです。それ以降、ダビデに対してサウル王は
恐れと嫉妬に駆られダビデを殺そうとするのです。その結果ダビデはサウル王から逃げ回ることになります。
ある時、国境を越えて敵国ペリシテの土地に逃れるのです。しかし、ダビデは見つかりアビメレクの前に
連れてこられるのです。

ダビデはペリシテからすれば、英雄を打ち殺しその上何度もペリシテ軍を破った憎き敵でした。
つまり、ダビデが置かれている状況は絶体絶命でありました。恐らくダビデはアビメレクの前に立たされた時に
こう思ったのではないでしょうか?異邦人で敵のアビメレクに殺されるならば、むしろサウルに殺され方がましで
あったと。その思いと同時に、主は私をこんなところで死ぬはずが無い、
神を信頼しようと。

彼の頭には狂ったふりをしようと浮かんできたのでしょう。その狂った振りをしたダビデをアビメレクは
本当に狂っていると思い開放するのです。
ダビデはその時、次の様な賛美するのです。



34:1私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。



ところで、皆様の口にはどんなときにも賛美があるでしょうか?

ここで大事な事は、ダビデがあらゆる時に、いつも主をほめたたえると二回繰り返し強調している事です。
皆様はその様に賛美をしているでしょうか?例えば、皆様は辛い時に歌えるでしょうか?歌えないと言う方が
おられるかもしれません。
 でも、賛美は歌えるのです。いやむしろ、その時程賛美するべきです。賛美は神様に捧げるものですから、
普通の歌ではないのです。

 神をほめたたえる中で、私たちは本当の信仰を取り戻せるでしょう。
この賛美があったからダビデは恐らく、信じられない程の試練の連続を乗り越えて来たのでしょう。言い換える
ならば素晴らしいダビデの信仰の秘密は賛美だったのではないでしょうか?いついかなる時も神に賛美を捧げていた、
だからダビデは信仰を強くし問題を乗り越えられたのではないでしょうか。

 

 アメリカのテキサス州にあるMDアンダーソン・ガンセンターに31年間勤めて来たキム・イシン博士は
「信仰がガン治療に効果があると言っています。アメリカのある教会の一般信徒と聖歌隊の免疫細胞を調べてみると、
聖歌隊の方々は一般信徒よりおよそ、
1000倍の免疫細胞があったそうです。

聖歌隊は、日曜日の礼拝で讃美歌を歌うために、毎日神を賛美して生活しています。その中で神に近付けられ
ストレスが緩和され、免疫が強化され、体全体のエネルギーが高められると、イシン博士は語っています。
それと同じように、ダビデの信仰を強め、神の時まで耐え忍ことができたのは賛美があったからでしょう。
だからダビデは
3節でダビデと一緒に苦しんでいる者に主をほめたたえようと言ったのではないでしょうか。

 

そして神はダビデと同じようにダビデの共のものが主を呼ばわった時次のようになるのです。


34:6 この悩む者が呼ばわったとき、【主】は聞かれた。こうして、主はすべての苦しみから彼を救われた。



ダビデは、自分だけでなく、友人やその周りの信仰者に、この主に賛美する事が何と素晴らしい事かと教えるのです。

そして、それはこの賛美を聞いている私たちにも教えてくれているのです。
私たちの悩みは、私たちの手に負えない事であるでしょう。でも、その時こそ、ダビデの様に主を仰ぎ見て、
神を賛美して救いを得るべき時なのです。決して、しょうが無いとか、どうにかそれを乗り切るではもったいない
のです。その悩む時こそ、主がどうされるか、どう神を仰ぎ見るかを考えるべきなのです。

これは、大事な事です。しかし、そうしない、そうしたくない事があります。
何らかの逃げ道であったり、心の中の偶像やプライドであったり、楽な方向や楽しい方向に進もうとする思いが
神に向き合うのを邪魔するのです。その思いをそのままにしておくと、私たちはどこか真剣に祈れないのです。
これは神の前に不信仰と言う罪があり、私たちと主の前に大きな壁となっているからです。

これら一つ一つの罪を取り去り、捨て去り、心の王座に主に居て頂く事が何よりも大事なのです。試練の時こそ、
自分の心の王座がどこにあるかが明らかにされる時です。それ以外の時でも良いでのすが、それ以外の時には
自分に甘くなり、これ位は良いだろうと見過ごすことが多いのです。ダビデはその様に心の王座に主を置いている者
に対して何と言っているでしょうか?

 34:7 【主】の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。



主イエスキリストが、あるいは天使が来られて私たちの周りに陣を張り私たちを助け出されると言うのです。
これほど確かな助けが頂けるのであります。クリスチャン生活の醍醐味はやはりそれら一つ一つを味わって行く事
でしょう。これら一つ一つを味わってきたダビデは次のように言うのです。

 

34:8 【主】のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。



ダビデは、主の素晴らしさ、言い換えるならば私たちの人生の中で行われる素晴らしさを味わいそして見つめろ
と言っているのです。私たちはその主の素晴らしさを見ているでしょうか?味わっているでしょうか?
神は私たちにそう問うているのではないでしょうか?

では、私たちはどうすれば、この様に味わい、見る事が出来るのでしょうか?

罪を自覚し、神を中心にし、罪を私たちの中から捨てていけるのでしょうか?でも、その前に重要なのは、
次の節なのではないでしょか?


34:9 【主】を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。

 

因みにこの恐れとは一体どういった恐れでしょうか?

それはきよい恐れで、創造者に対して人間が被造物として当然持つべき畏敬の念としての恐れです。
神は新生した人間にこのきよい恐れを与えておられるのです。
主を恐れる聖徒に主が羊飼いとなって下さるから、乏しい事が無くなるのです。

更に、主を恐れたずね求めるものは、神の守りと祝福を得ると言われるのです。
その事を理解しているからダビデは次のように言うのです。


34:11 来なさい。子たちよ。私に聞きなさい。【主】を恐れることを教えよう。


主を畏敬の念を持って恐れる事を教えると言っているのです。ところで、実際主を恐れるとはどういう事なの
でしょうか?もう少し突っ込んでみましょう。


34:14 悪を離れ、善を行え。平和を求め、それを追い求めよ。

因みに、この悪を離れとは、聖書の言っている意味でしょう。自分が思っている独りよがりの悪ではありません。
聖書が言っている悪から離れる事です。毎日の生活の中で、悪に染まっている人間が神様の元に行っても、
神様の御心はやはり分からないでしょう。また、善を行いも、自分の正義や、自分の義から考えられる善ではありません。

この部分は大変大事です。どれ位神の正義や義から私たちは離れているでしょうか?
この聖書が言っている義を勘違いして善を行っていたのが、イエス様が多くの場面で迫害したパリサイ人達でした。
そして、そのパリサイ人が中心となってなんと神の子であるイエス様を十字架につけたのです。だからこそ、私たちが
求める善とはこの世の善ではなく聖書と照らしだして神にある善を求めて行くべきなのです。

また、平和とは何でしょうか?私はこの平和も問題だと思います。

聖書が言っている平和とは見た目の平和ではありません。人を愛し赦して行く平和です。そして、
それは心の深い部分での平和であるのです。私たち人間が求める、戦争をしないとか、喧嘩をしないとかいう
低いレベルの平和ではない。それはエペソ人への手紙で何度も書かれていますが、神との平和から広がっていく平和なのです。

神は、キリストの十字架を通して私たちに和解を与え、それが故に赦された者として人々を愛する事が
出来る様に私たちを導かれます。上からあなたを赦すと言うのではなく、キリストの様に私たちは平和を持つ事、
これらを神を恐れながら追及してく事が必要なのです。つまり、神が与える知恵を持ち、義を持ち、愛を持ち
一つ一つを追及していくのです。

しかし、誰が14節で言われている様に悪を離れ善や平和を追及して行けるでしょう。

私たちは自分の事を省みれば見るほど、それには遠い事に気がつくでしょう。真剣に聖書に従おうとすれば
するほどダビデは自分の弱さが見えて来たでしょう。ダビデも私たちと同じなのです。彼はこう言います。


34:18 【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。

 つまり、自分は大丈夫だと言う思いではなく心と霊が打ち砕かれた者が、主の前に恵を頂き救われるのです。
更に次のように言います。



34:22
【主】はそのしもべのたましいを贖い出される。主に身を避ける者は、だれも罪に定められない。



神の前に心砕かれ、主の前に行くものは罪に定められないのです。ダビデは心砕かれ主に身を避ける様に
教えてくれているのです。その人生は罪に定められない人生なのです。

それは、神がその示された罪を悔い改めた罪を赦して下さるからです。放置しないで神の前に持って行き
悔い改める時、イエスキリストが天の法廷で私はこの罪のためにも、十字架にかかり血を流したと言って
下さるのです。だから私たちは罪に定められないのです。

私たちは何故神に賛美するのでしょうか?

もちろん、神がその賛美を受け取り、私たちが幸いな神との交わりにいられるからです。

でももっと大事なのは、神が既に多くのそむきの罪を犯している私たちに悔い改め、そして主に身を
避けるならば、罪に定められないと教えてくれているからです。つまり、自分が犯した罪から解放される。
それ程の赦しを与えられるからであります。その事をしったからダビデは
1節の様に賛美したのです。

34:1 私はあらゆる時に【主】をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。

神の大いなる愛に感謝し、賛美を私たちの内で燃え立たせて行きたいと思います。
お祈りを捧げます。