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キリスト教会は大きく2つに分けられます。カトリックとプロテスタントです。
双方とも父なる神(天地創造の神)、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神の、三位一体の神を信じることに変わりはありません。
現在では使徒伝承によって原始教会に連なる教会をカトリックと総称しています。ローマ・カトリックの総本山がヴァチカン市国の教皇庁であり、ローマ教皇がその頂点に君臨することは知られています。
中世(16世紀)になって教会は絶大な権力に溺れ、次第に腐敗堕落して行きました。免罪符の発行はそのことを象徴するものと言えましょう。
あなたがどんなに悪いことをしていても、免罪符さえ買えば金貨が箱にチャリンと落ちると同時にあなたの罪は消えると言って、一般大衆に免罪符を売りつけたのです。献金集めの手段として用いられ多くの弊害をもたらしましたが、1517年聖ピエトロ大聖堂建立の時にルターが反対し、宗教改革の導火線となったことは有名です。
1517年10月31日、ドイツの宗教家マルチン・ルターは、95箇条の提題をウィッテンベルクの城教会の扉に貼付し、神学者たちに討論を呼びかけました。
この行動が発端となり宗教改革へと大きなうねりとなって進んで行ったのです。アウグスブルク信仰告白の執筆者であるフィリップ・メランヒトンも、宗教改革でルターと共に大きな働きをした1人です。
これがルーテル教会の発祥であり、宗教改革の流れを汲むキリスト教をプロテスタントと総称しています。
ルーテル教会は全世界に約7千万の会員を有し全プロテスタントの約32%を占める最大の教派です(キリスト教大事典1991年改訂新版資料による)。
ルーテル教会は現在ドイツの国教会になっているほか、北欧諸国(スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなど)は大体ルター派を国教会としていますし、アメリカでも大きな教派になっています。
日本には1893年以来、アメリカ、次いでフィンランドの教会から伝道がなされ、第2次大戦後はアメリカのミズーリ派やノルウェーなどから伝道が開始されました。それらの国々から大勢の宣教師が日本に派遣され、日本の各地にそれぞれ拠点を設け伝道活動を展開して行ったのです。
それにより日本福音ルーテル教会、日本ルーテル教団その他のルーテル派教会が形成されました。それぞれのルーツの違いからルーテル派にもいろいろな教会がありますが、決して仲違いしているわけではなく同じ三位一体の神を信仰していて共通点も多いのです。
ルーテル教会は、神との関係において信仰者はすべて神の前に祭司であり霊的階級性はないとする万人祭司の立場を取り(カトリック教会とは対極の立場)、説教と聖餐を礼拝の中心に置くと共に、次のことが信仰と生き方の指針として大切にされています。即ち「信仰のみ」「恵みのみ」「聖書のみ」の3つです。
■「信仰のみ」
信仰とは神に対する全人格的な信頼です。もう少し詳しく説明すると、
1. 信仰は、自分の無力を知り、主(神)に助けを求めることです。
(マルコ9章24節)
2. 信仰は、神が私たちに求めていることですが、それは神の賜物であって、
私たちの力や行いによるものではありません。
(ヘブライ11章2、6節、1コリント12章3節、エフェソ2章8、9節)
3. 救われるための信仰は、「何かをすること」(行為)ではなく、「ただ信じて受け入れること」
(受身)です。
(ヨハネ1章12節、ローマ3章28節、ガラテヤ2章16節)
4. 救われるための信仰は、私たちのために成し遂げられた十字架上でのイエス・キリストの
身代わりの贖罪を、そのまま受け入れることです。
(ローマ3章24〜26節)
5. 救われるための信仰は、生きた信仰で、悔い改めを伴うものです。
(マルコ1章15節、使徒20章21節)
6. 生きた信仰は、当然、愛(アガペー・自己犠牲の愛)の行為となって実践されるものです。
これは聖霊の実です。
(ルカ7章47、50節、ガラテヤ5章6節、ヤコブ2章17〜26節、ガラテヤ5章22、23節)
7. 一度神から与えられた信仰は、途中でなくなることはなく、必ず永遠の救いにまで至る
ものです。だから信仰は、世に勝つ力であるのです。
(フィリピ1章6節、1ペトロ5章10節、1ヨハネ5章4節)
8. 信仰とは、希望と確信をもって、見えない事柄や未知の世界を見通し、確認することです。
(ヘブライ11章1、2節、ローマ4章18節、1ペトロ1章5節)
ですから信仰は、神の祝福を受け入れる器であって(ローマ5章2〜5節)、それ自身に力がある
のではありません。信仰は神に連なっている時にのみ力をもたらす媒体なのです。
■「恵みのみ」
1. 私達は、自分の良い行いによって救われるのではなく、神様の一方的な恵みの賜物によって
信仰を与えられ、救われるのです。
(ローマ3章28節、ガラテヤ2章16節)
2. しかし、良い行いをしなくてもよいと言うのではなく、生きた信仰は当然愛の実践を伴う
ものです。
(ルカ7章47、50節、ガラテヤ5章6節)
■「聖書のみ」
私達は聖書を神の言葉として信じ、日々信仰と生き方の規範とします。聖書がそのまま神の言葉であるのは、それは確かに人間の著作ですが、また神の霊感によって書かれたものであり、聖書の真の著者は神brであるからです。
それゆえ私達の信仰と生活の誤りなき基準なのです。聖書は全体として矛盾なく真理の体系を持っていて、罪ある人間の理性をもって聖書を批判することは聖書的でなく明らかに間違っています。
たとえば自分に理解できないからといって、主イエスが行なった数々の奇蹟につまずいたり批判したりすることは間違いで、その人の信仰にとって何の益もありません。
聖書を解釈するものは聖書そのものであり、意味不明と思われる個所は、更に明らかに語られている聖書の個所をもって解釈するべきなのです。
聖書こそキリスト者(クリスチャン)の信仰生活のテキストであり、案内書なのです。
【参考文献】
・聖書辞典 (いのちのことば社)
・キリスト教大事典 (教文館)
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