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なぜコンゴへ?



  プロフィール  


- 宮城県出身
- 保守バプテスト同盟・古川聖書バプテスト教会会員

東北大付属衛生検査技師学校卒業後、帯広の病院で衛生検査技師として働く。 その後、共立聖書学院で学び、コンゴ(当時はザイール)へ向かう準備を進める。
1972年、語学の学びのために渡仏、ベルギー・レオポルド二世熱帯医学学校を卒業後、 1974年、ザイール入国。
それ以来、数年ごとに活動報告と休暇のため、6ヶ月から1年弱の帰国をする以外は、 コンゴ東部のニヤンクンデを中心に、衛生検査技師学校で教え、病院での働きを通して、 イエス・キリストの福音を現地の人々に伝える働きを精力的に行っている。




  証し  



- きっかけ -

古川市は宮城県の小さないなか町です。私は、そこで六人兄妹の五番目、父にとっては十三人の子の九人目として生まれました。 ある事情があって私は父の愛を知らずに育ちました。従えないこの父を恨み、父のことで友達から傷つけられることを非常に恐れました。そこで心を固く問ざし、虚勢でよろい、自分だけは正しいと思う虚栄心で身をかため、ひとり遊びの夢想や読書、裏切らない自然に慰めを求めて過ごしました。

このような私が、初めて教会を訪ねたのは十三歳の時でした。病床で「世の光」の放送を聞き、救いを知った私の大好きな次兄の代理として、説教を聞きに行くことを頼まれたからです。 そこで語られた説教から私は神の愛を父に代わるものとして望みました。そして「神の子キリスト」を十字架を抜きにして信じました。しかし、神から愛されることは望みましたが、自我を放棄することも、神を私の主権者とすることも認めませんでした。 このように、王である神を私の「すばらしい奴隷」とすることと、信仰とを勘遠いし、教会へ通いました。

次第に自分自身の罪ある性質を指摘され、そのうえ、受洗を願って読まされた信仰問答書の、「あなたは教会の言うことに従えますか」の質問に、「教会 − それは絶対者ではないから従えない」と心に拒否したことを境に、高校二年の終わり頃「罪を指摘されない幸福と愛」を求めて教会と神から逃亡しました。




- 心の奇跡 -

その後、人と接触の少ない、衛生検査技師の学校に進み、そろそろ聖書も神も忘れた二十歳の夏、高山植物の写真を撮ろうとして浅間山に登る計画をたてました。

軽井沢から入ろうとして、地図で偶然見つけた聖書学院に泊まろうと考え、宿泊費を安くするため、今まで敬遠し続けた宣教師に、厚かましくも紹介状を書いてもらいました。 夏休みで生徒はいませんでしたが、宣教師たちの聖会が開かれていて、二人の婦人宣教師と同室させられてしまいました。 私が部屋に入るやいなや、一人が、「クリスチャンですか」と質問してきました。そしてすぐに「なぜクリスチャンではないのですか」と問いかけるのです。

そうした中で、今までの自分の歩みが回顧され、罪の足跡の重さに、このまま明日に踏み出す希望を失いました。 神の義に圧倒されるとともに、自己への絶望の中から、「神さま、この罪から私を許してくださるなら、生きていても無意味なこの生命を、あなたの自由にゆだねます」と、神にかける思いでお祈りしました。

その瞬間、心に奇跡が起こり、罪から解放されたことを知り、心は喜びではち切れる思いでした。そして庭にかけ出して行き、多くの宣教師から祝福のことばをいただきました。 次に、聖書を渇く思いで買い求め、以前好きだったヨハネによる福音書を開きました。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ神によって生まれたのである」(ヨハネ 1:12,13 )

私は確かに神の子とされたこと、それが、全く神による、神の責任によることの確かな約束を与えられました。




- 従う道 -

五日目の早朝祈祷会に出席した時、キューバの教会追害のニュースが読まれ、宣教の時が縮められている、という非常な危機感に包まれました。 食事のあと、聖書を読んでいた時、「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。- わたしに従いなさい」(ヨハネ 21:15〜19)と、ペテロに語られたイエスのことばに捉えられ、罪許された感謝から、先を知らないまま、主に従う決心をしました。

しかし、このころはまだ、主がどのように真剣に私を愛してくださっていたかを知りませんでした。 私は、さらにみことばを学ぶため、滞在期間を延期して、もう一つの修養会に出席しました。そこで主の愛を深く示されるとともに、七年間の放蕩生活を悔いました。 そして、主を再び悲しませたくない、こんな私を真実に愛してくださる神に対しては、従うことこそ最良−と知り、すべてをゆだねて主に従う再決心をしました。

やがて、忍耐深く祈り続けてくださった古川の教会に帰り、皆の祝福のなかにバプテスマを受けました。




- 重荷と準備 -

ザイールという地に行くべきさことを明らかに示されたのは、その冬でした。

「ご主人が内乱の最中、他の宣教師や現地人牧師たちといっしょに殺された」という、ザイールで働いていたノエル宣教師夫人の妹さんからの手紙を読んだ時、今後、指導者のいない困難な信仰の歩みに、倒れる者のないようにと祈りました。

その中で、私自身、このザイールに行くべきことを示されたのです。

それから二年間、郷里から離れ、帯広の病院で働くようになり、次に神学校へ進むための学費の貯蓄に励みました。 そこでは、信仰とは神と自分だけ、という一対一の関係であること、神はどこにでも明らかにいらっしゃること、社会生活の中で、クリスチャンであることをはっきり掲げることが、唯一無二の勝利の道であることなどを学ぶ良い機会となりました。

その後、共立女子聖書学院で三年間学んでから、再び病院に勤務し検査の仕事を二年半続けました。それはザイ−ルへの旅費の貯金と、フランス語を学ぶ準備のためで、日仏学院の夜学に通いました。 しかし、効果があがらないので、思いきって日本を離れ、フランスでそれ一本を学ぶ道を主に求めました。

1972年の春になって、フランスに宣教師のための仏語学校のあることを耳にし、その住所と内容を教えてくださるように、米国のCBFMS(保守バプテスト海外宣教団)に問い合わせてもらいました。 五ヶ月ほどたった8月28日の夕方、フランスの学校から、入学許可が届いているが、という電話を、共立女子聖書学院の山口先生からいただいた時、経済的な不安と、入学日まで二週間しか無いことなど、気持ちの整理ができす、不安がうず巻いて、とまどってしまいました。

それから三日間、主のみ旨を求めて祈リつづけました。その結果、すべてを主に託して一歩を踏み出すことにしました。 大急ぎで手続きをとり、二、三のところに連絡をしただけで、あわただしく9月9日にフランスに向かいました。




- フランス語の学び -

学校は、フランスといってもスイスの国境に近く、ジュネーブやアルプスの山々にすぐ行ける谷あいの町、アルベールビルにありました。 そこでは、宣教師のためのフランス語授業と、福音テープの作製と、町の人々への伝道が行われており、私は9月13日の新学期から、豊かな愛と忍耐深い、すばらしい先生方に学びました。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア 1:9)

このみことばは、常に私を励まし、支え続けてくださいました。 離日した時から、神は少しの不安も不足も与えず、霊肉ともにすべての必要を完全に満たしてくださいました。 主は誠に真実であり、常に、一歩踏み出すことを教え、それに従う時に、絶えず限りない祝福をもってさらに進ませてくださいました。

学びの終わりごろ、ザイールには現地の教会からの招待状なしでは、宣教師として入れないことを知りました。 すぐにCBFMSに協力をお願いしたところ、医療伝道への参加という形で招待を受けました。

アフリカでの医療活動のためには、熱帯医学修得の必要を知り、主の大きな助けによって、ベルギーのアントワープにあるレオポルト熱帯医学校で1973年9月から翌年の2月まで学びをして、最終試験にもパスしたので、そこから直接ザイールに向かうことになりました。




- 宣教地ザイール -

春まだ浅いベルギーから、なつかしいアルプスの山々、海岸線の美しい地中海、果てしなく続くサハラ砂漠、そして密林を飛ぴ越えて、アフリカの中央部、赤道直下の首都キンシャサに降りた時は、夜風までが熱く「さすが」と思いました。

一週間して、再び飛行機で二時間、ジャングルを越え、山と湖の国、キブ地方のゴマの町に着きました。 そこで、偶然会ったCBFMSの宣教師の車に乗せられ、さらに前進。やみをついて真夜中のルアングバに着いた時は、雨となり、寒さを感じるほどでした。

そして翌朝、アルプスの山脈にも似た風景を目にして、このルアングバという集落は海抜1800メートルの、アフリカの軽井沢とも言える場所であるとを知りました。 ルアングバは、北キブ州のルチュル地区にあって、保守バプテストの最初の宣教師が、族長からもらったジャングルを切り開き、道をつけたということです。

その後、周囲のワニャクイッシャ族の人々が移り住み、北部からはワナンデ族が移って来たので二つの部族から構成されています。 ですから、彼らは隣りあわせに住んでいても、言語、生活、食習憤から性格まで異にしています。家族制度が非常に強く、当人より両親、両親より部族長老の権威が強く、異部族との結婚は一割もありません。




- 私の祈り -

この地方の保守バプテストの教会は伝道所まで含めると約100、信者の数は3万人ほどと、数の上では多いのですが、自立できていない教会、受けるだけの信仰、字が読めないため、みことばが生きていない生活など、信仰の質的な面では問題が多く、「わたしの羊を牧しなさい」(ヨハネ 21:16)と言われるイエスのことばから、信仰の養育には大きな必要を覚えさせられています。 再びルチュルに帰る時には、部族語しか知らない上に字が読めない婦人たちに福昔を伝えるため、彼女たちのキニャルワンダ語を学ばなければなりません。

また、医療伝道の面では、専従の現地人伝道者の働きが祝されるよう願っています。薬品の横流しや備品の盗難がひんぱんに起こる他の医療機関(自治体や個人経営)を前に、信仰のあかしと徳性を私たちが示すことができるように。

また、検査枝術の指導を通して、信仰に通じる誠実と信頼という二語が、クリスチャンたちの生活に吸収され、実を結びますように。マレンディの教会をはじめ、数は少ないのですが、よいあかしをしている教会、信徒に、さらに主の豊かな恵みが加えられ他の信徒の覚醒への励みとなりえますように。

海外も国内も主の畑はひとつ。この働さのために、日本の教会から多くの働き人を送り出し、主の栄光と業のため、互いに祈り合い、協力し合ってより強力な福音伝道と教会形成がなされますように。



私の愛するザイール。そこに住む人々が、主の祝福から一人ももれることがあリませんように...。





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