【福音宣教】 ヤコブの手紙1:1 主イエスの弟ヤコブ


「神と主イエスキリストのしもべ、ヤコブが、国外に散っている12の部族に挨拶を送ります」(1:1)

20240218 


今日から ヤコブの手紙の学びが始まります。 私も新鮮な思いで皆さんとご一緒に御言葉に聞くことができることを楽しみにしています。 3年間のルカの福音書を学んでのち、 私はヤコブ書が導かれました。正直少し心配がありました。というのは、 教会の歴史の中で、宗教改革者のマルチン・ルターが、「このヤコブ書には十字架も復活も全く記されていない。それどころか224節で「人が救われるのは行いによる」 と記し、むしろ行いが大事だと繰り返し強調しているからだ。これは聖書の福音的な教えに逆行する書物であり、新約聖書の正典の中に入れる価値もない「藁の書」だ」との趣旨で、激しく非難したからです。ヤコブ書の学びの中で、「行いによる救い(行為義認)」に心が揺さぶられるのではないかという思いがあったからです。でも年間にわたる礼拝でのルカの福音書の学びを通して、キリストの愛、十字架の贖いによる救い、復活の希望に生かされる「信仰による救い」(信仰義認)という福音が、みなさんの中にしっかり根付いていると信じ、講解説教をすることにしました。

確かに、わずか5章、108節からなるこの手紙の中に、命令形がなんと44回、 命令形を含む節は54節、全体の50%にも達しているという大きな特徴があります。ですからそのまま読めば「行いを求める」命令形の文書に圧倒されてしまって、あれもできないこれもできない、私はだめなクリスチャンだとたじろぎ、気落ちしてしまうかもしれません。「やっぱり行いによって天国に行けるんだ」と、思い違いをしたり、 「キリスト教の信仰生活って、できないことを求められて厳しいよね」と、後ずさりしてしまうリスクも予想されます。でも私は、宇治バプテスト教会のメンバーはもうそんなことではぐらつかない、 キリストを信じるならば救われる という福音信仰に立つことができていると信じています。

トゥルナイゼンというスイス改革派の牧師が、1940年から2年にわたって教会で説教した「ヤコブの手紙」の説教集(信教出版)をベースに、私も学んでいます。 彼がこのように語っていますので、 最初に彼の言葉を届けたいと思います。

 「命令に次ぐ命令、 指示に次ぐ指示、 戒めに次ぐ戒めが次々とハンマーで打つように打ち込まれる。 しかし、全ての上に、全ての前に「喜び」 という言葉が置かれている。ヤコブの命令、指示 、戒めを聞くとき、彼が私たちを打ちのめそうとしているのだと一瞬だに考えることは許されていない。 ヤコブは私たちを、神の民として呼び集め、 しっかり立たせようと、キリストのもとに召集しようと望んでいるのである」と。 「行いによって救われる」ということ、その結果、打ちのめされるようなことを「一瞬だに考えない」。むしろ、「すべての人はキリストを信じる信仰によって救われる」(ガラテヤ216)、この福音理解を揺るがない土台として、私たちは歩みたいものです。

今日からみ言葉にご一緒に聴き続けてまいりましょう。

1. 「神と主イエスキリストのしもべヤコブから」

この手紙の著者は、イエス様の兄弟、ヤコブと言われています。ご存知のようにイエス様には4人の兄弟(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)と、少なくとも2人以上の妹がいました(マタイ1355)。 最初は母マリアと共にヤコブもイエス様が宣教活動に立ち上がった時、大反対し、無理やり、家に連れ戻そうとさえしました(ルカ819-20)。 ヨハネ75節では「イエスの兄弟たちも信じていなかった」とはっきりと記されています。ところが復活されたイエス様は、「ヤコブに現れ」(第1コリント157)ました。復活されたイエス様に会い、弟ヤコブは劇的に回心し、信者になり、教会に加わり(使徒114)、 後にエルサレム教会を代表する長老として、ヘブル語を話すユダヤ人クリスチャンを導きました。 そして大祭司アンナスによって、63年頃、石打ちの処刑で殉教したと言われています。彼はイエスの弟ではなく、主イエスキリストの僕としての生涯を歩み通したのでした。 母マリアがイエスを信じ、 そしてイエス様の弟が救われて、エルサレム教会の指導者となりました。

反対者がやがて、神のしもべとなり、神に用いられる尊い器となったのでした。「主イエスを信じなさい。 そうすればあなたもあなたの家族も救われる」(使1616)という神の約束が、実を結んでいる実例をここに見ることができます。村上宣道牧師は牧師の子でしたが、「親父は教会で進化論を否定しており、頭が悪い。教会の言うことは信じるな。牧師の息子の俺が言うのだから間違いがない!」と友達に言い聞かせていたそうです。しかし両親の祈りの中で、やがてキリストを信じ、悔い改めて牧師の道を歩むようになり、多くの日本人をキリストに導く日本を代表する伝道者の一人として活躍されています。
 
今はあなたの信仰に反対したりあるいは妨害したり、さらには最大の迫害者になっている家族がいらっしゃるかもしれませんが、 神の尊い器として用いられる日が来る、そう信じて祈りつづけましょう。イエス様の弟ヤコブの救いは、何よりも喜ばしい大きな希望ではないでしょうか。

2. 散らされている 12 の部族

12部族とは、イスラエル12部族を指す言葉ですが、これはユダヤ人クリスチャンだけではなく、異邦人のクリスチャンを含む、世界中に存在している全てのクリスチャンすなわち教会を指していると理解されています。エルサレム教会が大きくなるにつれて、ユダヤ教指導者層からの激しい迫害が起こり、ついに使徒ヨハネの兄弟ヤコブが44年に殺されて、最初の殉教者となりました。

その後、多くの信徒は エルサレムから離れ、各地に散らされ、北のシリアの都アンテオケに移動しましたが、アンテオケ教会の指導者バルナバ とパウロによって、ギリシャ人ローマ人を中心とする異邦人世界に福音が宣教され、ローマ帝国内に次々とキリスト教会が建てられました。この世的に「散らされた」「追放された」と言いますが、神の目からは「派遣された」「送りだされた」と言えます。 私たちもまた、礼拝を終えて祝祷を受けて「この世に派遣される」のです。

3. 挨拶を送る

ギリシャ語の原文では「挨拶」英語ではグリーティングという名詞のみです。 この言葉は「喜ぶ」(カイロー)という動詞を語源としています。確かに44回も命令形が出てくる手紙ですが、この手紙全体が何よりも「喜び」に包まれています。 全ての行いは喜びから溢れてくる、喜びを土台にしているのです。それはパウロがテサロニケの教会に宛てて「いつも喜びなさい」(第1テサロニケ5-16)と書き送ったのと同じであり、 ピリピの教会に対して「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(44 と語ったこととも相通じます。ヤコブが強調する「行い」は、キリストの十字架の愛と復活の希望に生かされている「喜び」から溢れ出る「隣人愛」 をテーマにしています。

私たちは キリストを信じて天国に行くことだけを目的にしているのでしょうか? もうそれは100% 約束されていますから、心配無用、安心しましょう。では、この地上でクリスチャンとして生かされている、あるいはこの地上に置かれている目的は何でしょうか。 それは、十字架の神の愛を知り、よみがえらえたキリストに 捉えられ、今ここに生かされているものとして、「隣人を愛する」 良き働きに生きるためです。遣わされるためです。

最初に紹介したトゥルナイゼンが、 ヤコブの手紙を説教した1940年前後は、実はドイツではナチス政権がユダヤ人迫害を始め、 9万人のユダヤ人難民がスイスに押し寄せた時代でした。 しかしスイスは難民を受け入れることに対して「小さな救命ボートは全く満員になってしまった」 と受け入れを拒み、正式な手続きを経ない者は強制送還する政策を取ろうとしていました。その時、彼は「行いのない信仰は死んだもの」(217 と記されている このヤコブ書を2年にわたり語り続け、反対運動に尽力したのでした。 「わらの書」と呼ばれたヤコブ書ですが、私たちは、クリスチャンとして「隣人愛・兄弟愛」に生きる喜びを、学びつつ、分かち合っていきましょう。

それは貧しい者、悲しむ者、病める者、抑圧された者の友となって、共に歩んだイエス様に従う道であり、悲しむ者と共に悲しみなさいと語ったパウロの信仰を分かちあうことでもあります。
 
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりもまさっていると思いなさい。・・・喜ぶ者とともに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」(ロマ121015

さあ、わずか5 しかないヤコブ書です、 1日に1回は、通読しましょう。 この書が私たちの信仰にとって、「藁の書」で終わるのか、豊かな「宝の書」となるか、実証したいものですね。

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