【福音宣教】 ヤコブの手紙1:5-8 疑わず信じて願うならば
「ただし、少しも疑わずに、信じて祈りなさい」(1:6)

20240303 

イエス様の弟であり 主イエスキリストのしもべとして生涯を歩んだ ヤコブの手紙から、この朝も学びましょう。

かつてダビデ王の子ソロモンが王に即位するにあたり、神はソロモンに何を与えようかと問われました。ソロモンは「知恵と知識を私に授けてください」と願いました。神は「あなたが富、財、名誉、敵を討ち滅ぼすこと、長寿さえ願わず、知恵と知識を願ったゆえに、それを与えよう」と約束されました(2歴代110-12)。知恵は知識に勝り、知識を実際に用いることができる能力を指します。 知識は本を読み 学問を深めることで人間は身につけることができますが、知恵は神が与えてくださるものとされ「英知」ソフィアとも呼ばれています。事実、王となったソロモンのもとに早速、難しい問題が持ち込まれました。1人の子供をめぐって2人の母親が名乗り出て争ったからです。ソロモンは「それでは子供を真っ二つにしてそれぞれ半分ずつ公平に与えよ」と命じました。偽りの母はそうしてくれと同意し、実の母はそれでは我が子が死んでしまうと、自らが身を引くので彼女に子を渡して欲しいと懇願したのです。どちらが本当の母であるか、誰の目にも明らかとなりました。

私が尊敬するある牧師は、会堂のために大きな倉庫を購入し中を改装することにしましたが、工事を始めようとした途端に地域の反対運動が起こり、難渋し、心砕いて何日も祈り続けたそうです。そして「分かりました。そこまで反対されるならひきましょう。でも、費用も掛かっていますので、それでは代わりにこの土地建物をオウム真理教に売ります」と言った途端、反対派が黙ってしまったそうです。もちろん本気じゃありませんが。。献堂式には地域の代表者がわざわざお祝いの花束まで届けてくれたそうです。ちょっと乱暴だったかもしれませんが、、。知識で解決できることも多くありますが、知識だけでは解決できないことを、知恵が解決する可能性が大いにあります。私たちも「知恵」を願い求め、神様からいただきたいものですね。

1.「知恵に不足しているものがいれば神の前に求めなさい」(5)。 ま

ず第一に、私たちは「惜しみなく与えてくださる神がおられる」ことを心にはっきりと覚えましょう。私たちが父と仰ぎ、キリストにあって私たちを子とを呼んでくださる神は、惜しみなく与えてくださる神です。 神のご本質は「愛である」と使徒ヨハネは語りました(1ヨハネ 410)。主のしもべヤコブは「神のご本質は惜しみなく与える神」(5)であると記しています。「与える」という言葉を「贈って」くださる。GIVEではなく、GIFTと置き換えてみると、一層、神の恵みの豊かさが伝わってきます。スイスの改革派教会の牧師であったトゥルナイゼンは「神は ひたすら 贈ることがその本質である」と語っています。ですから5節では「 全ての人」に分け隔てなく誰にでも、「惜しみなく」ケチケチせずに、「咎めることもなく」と、3重に強調されています。世の中では自分の気に入った人や自分に役立つと思う人に限定して気前よく与える人も少なくありません。「何でもいいから好きな物を持って行って」と言いながら、「それはちょっと待ってね」とストップをかけてしまうこともあります。世の中の親は、色々と条件をつけて「これが最後だからね!次はしっかり勉強してよ」と、咎めたり、注文をつけてから子どもにご褒美を与えることがしばしばです。

しかし、父なる神様はご自分の子供たちに対して、無条件で惜しみなく、喜んで求める者に、贈ろうとしてくださるお方です。 何よりも、父なる神はそのひとり子イエス様を救い主としてこの世にギフトしてくださり、十字架の贖いの死をもって全ての罪人の罪を赦してくださいました。御子イエス様も、自ら進んで十字架にかかり、ご自分の血潮を持って罪を赦し、私たちを地獄行きと激しく訴える告発の証文をすべて廃棄し、帳消しにしてくださいました。
「私たちに不利な、いや私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取り除け、十字架に釘付けにされました」(コロサイ214)。

私たちは キリストにあって 父なる神の子とされた、神に愛された一人一人です。 イースターに中学生がバプテスマを受けます。この日は彼女が両親の子であるだけでなく、永遠なる父なる神の子として、神に慈しまれる喜びの日の始まりです。これからの長い彼女の全生涯を、良きもので神様が満たし育んでくださることを心から祈ります。惜しみなくギフトしてくださる神、ここでは「知恵に欠ける者は願い求めなさい」と知恵に限定していますが、これは困難や試練の中にあって、神の助けを仰ぎ、願い求める全てのことがらに対しても、適用できるのではないでしょうか。私はそう信じます。イエス様ご自身も「求めなさい。そうすれば与えられます」(マタイ77)と、後押ししてくださっています。

2 「少しも疑わないで 祈りなさい」(6

神には何一つ疑う余地がありません。問題は私たちの側にあり、私たちの祈りの姿勢にあると言えます。「少しも疑わずに祈り求めなさい」。なかなかこれは実体験としては難しいのではないでしょうか。「祈っても、聞かれないのでは」と、どこかでふっと疑惑がわき起こってしまっているというのが正直なところではないでしょうか。私も正直、この祈りは必ず聞かれると確信を持って強く祈ったという経験は乏しいことを告白せざるをえません。「御心ならば主がそうしてくださるように」と、ついつい付け加えてしまていることを告白せざるをえません。信仰の薄い牧師を赦してください。といいつつも、そんな私ですが、確信をもって祈り続けることができた経験もあります。少ない予算、少ない信徒、限られた地域性の中で、新会堂を探し求めていた10数年前のこと。「私は私の美しい家を輝かす」(イザヤ607)のみ言葉が、祈りの中で与えられ、不思議な平安で包まれて確信が与えられ、皆さんにも公に証しをしました。 開町にこの教会堂が完成した時、献堂式の祝いのしおりの裏側に、その御言葉を印刷させていただきました。こういうことは私の場合、頻繁に起こりませんが、起こった時には、間違いなく実現しました。どれほど「主は生きておられる」と、主をあがめさせていただいたことでしょう。

私の場合、祈った内容が文字通りそのまま実現することだけが、祈りが聞かれたこととは理解していません。全幅の信頼を置いて神に願い求めたことがらを、父なる神様は文字通り、贈り届けてくださることもあれば、違う答えをそれに代えて与えてくださることも決して少なくありません。しかし、届けられたものは、私が求めた以上の、良き贈り物であったことが多くあるということを経験しています。

贈り物ですから、こちらから要求したり、せかせたりはできません。そもそも神に何かを要求すること自体が失礼と言えば失礼ですね。ですから、贈り物として神様から届けられるのに、しばらくの時間がかかります。いつも Amazonで注文すれば宅急便で即日配達されることに慣れている私たちは、どうも待つことが苦手です。 1、2年いや時にはもっとかかることもある。モーセはエジプトに住む同胞が奴隷の苦悩で苦しむ時、彼らを救い出すために遠く離れた荒野で40年の歳月を必要としました。アブラハムも約束の子イサクが与えられるためには、25年を必要としました。本田光慈先生は、父親が救われるために50年の祈りを必要としたそうです。 少しも疑わずに、全幅の信頼をおいて祈ることの中には、贈り物が届くまでの「時」をも、神に信頼して委ねることが、必ず含まれているのではないでしょうか。 もし、祈ったことがそのまますぐに叶えられたとしたら、のちのち「しまった。そんなことを祈らなければよかった」と、後悔してしまうことがあるかもしれません。もし神様に時を委ねなかったとしたら、 即日配達を大いに期待している場合、まだか、まだかと、イライラし、焦って、心の中に疑いの雲が広がってついには「本当に、神はおられるのだろうか」という不信仰の極みまで、崖を駆け下ってしまうかもしれません。 疑い深い者は、目に見える世界に一喜一憂し、「激しい風に揺れ動く波のようだ」(6)とヤコブは指摘しています。

波が高い時は、「祈りが叶えられた。うれしい」と有頂天になるが、波が低くなると「神様がおられるかどうかわからない。 私のような罪深い人間の祈りを神様は 聞いてくださらない。祈る資格も与えられていない」と、失望に落ち込んでしまうかもわかりません。落ち着いて「待てない」から「何ももらえない」のです(7)。

父なる神様は、キリストにあって子とされた私たちが求める前から、知恵だけでなくすべての良き物を知っておられ、GIFTとして届けようと考えてくださる神です。 GIVE以上にGIFT(ギフト)してくださるお方です。 惜しみなく、咎めることなく、全ての愛するご自分の子供たちに、ギフト することを喜びとされる神です。ですから、疑わずに求め続けましょう。特に人生の苦難や困難を切り開いて歩み続けるには知恵が必要です。

そして、知恵は何よりも、神様からの贈り物です。

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