【福音宣教】 ヤコブの手紙1:12 試練と忍耐
「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるのです」(1:12)

20240324 

. 先ほど木田姉妹からイスラム教の少数民族という理由から迫害を受けているバングラディシュの難民キャンプで暮らす人々の様子を聞かせていただきました。またインド国境付近ではクリスチャンの難民キャンプがあり、そこでも宣教師たちが支援活動をしているとのことで募金をさせていただきました。ウクライナ難民のこともガザの一般住民のことも、国内の能登半島地震の被災者のことも、私たちはいつも自分のことをばかり(FOR ME)ではなく、他の人々のために(For YOU) という生き方へ、心の視野を広げさせていただくことを覚えたいと思います。すぐに忘れ果て次の関心に移ってしまうことは、忘れられた人々には耐えがたい悲しみではないでしょうか。愛は忘れないこと、いつも共にいること never forget always with you、この言葉を心に覚えたいものですね。

1. 試練と忍耐

12節から12節までが1つの区切りとなっています。 3節の呼びかけに対して12節が結びの言葉となっています。そしてこの最初の一区切りのテーマは「試練と忍耐」です。

「試練に耐え忍ぶ人は幸いです。耐え忍んだならば、神を愛する人々に約束された命の冠が授けられる」(12)と宣言されています。多くの試練に耐え忍んだ者たちには、終末の時あるいは個人的な終末の時であれ、天の御国に入る時、「いのちの冠」を受けるとはっきりと約束されています。古代ギリシャのアテネやコリントでは年に一度大きな競技会が開かれ、これがオリンピックの始まりといわれていますが、競技会の勝利者にはオリーブの枝で作られた冠が頭にかぶせられ、王や市民たちからの賞賛と栄誉が与えられました。こうした歴史的背景があることも聖書な学びの楽しさの一つです。そして信仰者に授けられる「いのちの冠」とは まさに「永遠の生命」を表しています。これは神のお約束ですから必ず成就します。人間の約束は破られたり、変更になったり、最悪の場合「そんな約束をした覚えがない」と完全否認されてしまうことがあります。ひどい話ですね・・。人間の約束事と神の約束とは異なります。神のお約束ですから100% どころか 200%信じても間違いがありません。 聖書は「キリストを信じる者は永遠の命を得る」(ヨハネ316)と、揺るがない最も大事な約束を記しています。

・もちろん、この約束を信じて生きる一人一人の人生にも、多くの苦難や困難があります。 神を信じれば極楽とんぼのように、何の苦労も辛さも悲しみも病も貧しさも痛みもないという人生が備えられるというわけでは決してありません。神の子たちといえども多くの苦難を避けて通るわけにはいきません。クリスチャンであっても、クリスチャンでくても、誰もが人生の困難に直面し頭を抱え、打ち砕かれ涙にくれ、眠れない夜を過ごすことがあります。しかしながら感謝なことに、苦しみは避けられませんがその苦しみに対する希望と忍耐力を神が備えてくださることをクリスチャンたちは知っています。ですから無力ではありません。孤独の中で一人で戦っているのでもありません。

「神は試練とともに必ず逃れる道も用意してくださっている」(1コリン1013 )と信じることができるからです。「逃れる道」はクリアーな解決策や打開策だけではなく、「忍耐する力」そのものを神が与えてくださることも含まれることを覚えましょう。

・ある兄弟は昨年から次から次へと体の不調や痛みにひどく悩まされています 最初は神様に祈って癒していただくという恵みの経験にも多く預かりました。しかし、これほど次々とあちこちで痛みが続くと、「神様に祈れば祈るほど期待が外れるばかりだから、ちょっと一休みします」と正直に話されました。私たちも通った道ですから、その気持ちはわかりますね。兄弟は、これは病気だから仕方がないと割り切るようになったそうです。私はその言葉を聞いて「すごい信仰ですね」と言いました。「しゃあない。病気なんだから」。ジタバタしてもあがいても年を取れば引き受けざるを得ない。老いてゆくことに伴う痛みも苦労も避けられないもの。 そんなこと元気な時にはわからなかったですが年を取ればしみじみと実感してきます。その時は「しゃあない」と、神に委ねる、静かにわが身を預けること、これもまたすごい信仰と言えますね。並みの信仰ではなかなかできないことです。なんとか癒して欲しい、元気になりたい、 痛みも取り除いて欲しいと、こだわりとらわれすぎて、期待が外れては失望し、いつしか信仰の道からはずれてしまうこともなきにしもあらずです。試練の中で、神に助けられながら、すべてをあるがまま静かに受け入れていく。その中に永遠の命の冠がそっと置かれているのではないかと私は思います。その意味で試練は信仰を深めていく、「こんにちは試練君」と迎えていくもの。そこには隠れた大いなる価値があり、いつか輝きを放っていくに違いないことを改めて私たちは信じます。

2. 神を愛する人とは

・では「神を愛する人」とはどんな人を指すのでしょうか。その前に「神に愛されている人」とは誰のことなのでしょうか。さらに「神に愛されていない人」などはたして存在するのでしょうか。そのことを考えなければなりません。結論からいえば、神に愛されていない人などは一人もいません。神はすべての人を愛しておられます。これが福音です。

神に愛される人たちとして、全てのクリスチャンをまず挙げることができます。我田引水ではなく、何しろ 永遠の昔から神に愛されそして神に選ばれ、12000万人の日本人の中から特別に招かれた人々ですから神に愛されていることは間違いありません。けれども驚くことに、聖書は全ての人間は神の形に似せて創造されたかけがえのない尊い存在だと教えます。神様がただお一人のお方であるように、神によって創られた一人一人もまた他の誰とも取り替えようがない、唯一無二の存在、どこにもスペアがない存在でなのです。神に愛され生かされ生きていると教えています。ですから、この世には、神に愛されている存在だと自覚し、感謝している人と、神の愛の真実をまだ知らない人、気づいていない人、まだ目覚めていない人、2種類の人がいることになります。ですから教会やクリスチャンは「あなたは神に愛されている大切な一人なんですよ」と、神の愛を、真理を、人々に伝えていくためにこの世に置かれ、この世に遣わされているのです。パウロは「私たちがまだ罪人であった時、神は私たちを愛してくださった」(ロマ58)と、この神の驚くべき事実を解き明かしています。

・ところで問題は神を愛する クリスチャンとはどのような人を具体的にさすのでしょうか。 クリスチャンの中でもエリート中のエリートのような人を「神を愛する人」と呼ぶのでしょうか。 たくさんの奉仕をし、熱心に祈りまた惜しみなく捧げ物をする人を、 神を愛する人と呼ぶのでしょうか。確かにそのようなクリスチャンによって教会は働きが支えられているという事実があります。間違いなく神を愛する人々に属すると言えます。しかしそれがすべてではありません。 目に見えるところの働きで、全てが判断されるわけではありません

先日もある兄弟を定期的に訪問しました。若い時から精神的な病で入退院を繰り返し、今では アパートで一人で暮らし、行政や福祉の支援を受けながら生活しています。年をとり体も弱くなり外出もほとんどできない状態です。定期的に私が訪問するのを喜んでおられます。 そしてお届けする週報をよく見て、いつもお祈りをされ、定期的に献金も忠実に捧げてくださっています。「僕がもしあなたの立場だったら、病気と一人暮らしだったら、どこまで耐えられるか自信がありません。僕は弱いから。でもあなたはきっと、天の御国に入る日に、生命の冠をいただくでしょう。「僕がイエス様に必ずあなたを推薦するから」と思わず伝えてしまいました。一牧師としては越権発言でしたね。でも私の心からの思いでもあります。

スイスの改革派教会の牧師であるトゥルナイゼンは「人生の苦難の中で倒れ、どこにも助けのない者にキリストにおいて差し伸ばされる御手をつかむことを学ぶこと、憐れみ深い神に身を預けること、ここから神を愛することが始まるのです」と語っています。身を預けていくこと、ここから神を愛することが真の意味で始まるのであると伝えています。

・神に喜ばれる何かをすることではなく、恵み深い神に身を預ける人こそ、神を愛する人であると教えているのです。神に喜ばれる何かをすることはあくまでDOING (行い)の世界ですが、神に身を預けることはBEING(存在)のあり方です。そしてそこから神を愛する人が生まれる。もちろんその人の人生の根底には、「神に愛されている」という揺るがない恵みの真実が存在しています。

今週は受難週です。まさに神の御子が私たちの罪を全て担って、十字架にかかり、身代わりとなって裁きを受け、私たちの罪、咎を帳消しにし、全ての負債を清算しきってくださり、赦しを与えてくださったことを感謝して歩む日々です。御子はみ父を愛し、荒削りの十字架の上でその身を父に預けれました。ここに神への御子の愛を見ることができます。そして十字架の彼方に、復活の希望と永遠の命の輝きを見ることができるイースターが備えられています。

繰り返しますが、神から愛されていない人など神の御前には、1人も存在しません。そんなあたたかいまなざしで、あなたの周囲の人々を見渡してみましょう。「私の主人はもう地獄行きだ」「私の息子はもう神様から突き放されている」「あの人が救われるなんて考えられない」と、そんな冷たい目で見ている自分が、何とも申し訳なく思えてくるのではないでしょうか。

難民キャンプで暮らす人々、災害被災地で生活の再建を願って頑張っておらえる人々にとって、忘れられてしまうことが最大の痛みではないかと最初にお伝えしました。人が忘れようと神は決してお忘れにはなりません。
神はその一人一人を心から愛しておられ、彼らの救いを願っておられます。
私たちの苦難の多い信仰の旅路であったとしても、感謝と喜びは、その倍以上にあふれています。ともに、いのちを冠をいただく日を思い描きつつ歩みましょう。

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