主に感謝して 一口メモ 

【牧師の一口メモ】
 宮之浦キリスト教会の日高牧師が、今までの50年に及ぶ牧会生活を、主に感謝しつつ振り返ります。
no.1

 イザヤ書44章2節
 あなたを造り、あなたを母の胎にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。

 救いを頂く前の、私の家族を紹介していきたいと思います。
 父は1914年(大正3年)に生まれ、母は1916年(大正5年)に生まれています。1938年頃に父25歳、母23歳で結婚し、私と妹と弟が生まれ、この世的には幸せな家族でした。家には祖父と祖母もいて、父は長男でしたので戦争に行きませんでした。父は郵便局に勤めていました。
 安房郵便局と小杉谷郵便局に勤めました。ですから私も郵便局員になることを夢見ていました。このような時に敗戦を迎えました。
 私は安房小学校の一年生になりました。家族みんなにお祝いをして頂いたと思うのですが、あまりよく覚えていません。覚えているのは母親の薬をもらいに行ったことだけです。

no.2

 伝道者の書7章1−2節
 良い名声は良い香油にまさり、死の日は生まれる日にまさる。
 祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。
 そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。

 私の家族には大変なことが起こり始めました。終戦後、肺結核が日本中で流行しました。そして母がそれにかかってしまいました。そしてしばらくして看病もむなしく1947年9月に31歳で亡くなりました。私が小学校一年生の時でした。葬式は尾之間の実家で執り行い、そのまま実家で暮らしました。さらにそれから4年後の1951年12月に、父が37歳で亡くなりました。私が小学校4年生の時でした。今でも祖母の悔やみの言葉を覚えています。「郵便局ではなく役場の職員にお願いしとけば良かった。」と。なぜなら、当時父が勤めていた小杉谷という集落は、冬は雪がつもり屋久島で一番寒い所だったからです。

no.3

 私は生まれた時から小児麻痺にかかっていました。祖母に何度か鹿児島の病院に連れて行ってもらいました。
 神山小学校でのつらい思い出を書きたいと思います。
 前にも書いたように、父と同じように郵便局員になりたくて学校に通っていました。
 ある日、国語の時間に字を書く練習をしていました。私は小児麻痺のため右手で書く事ができないので左手で書いていると、叩かれました。勉強が嫌いになりました。習字も図画もきれいに書くことが出来ず、将来の望みもなくなりました。
 唯一の救いは、家に帰ったあとに祖父の手伝いをする事でした。祖父は稲作とポンカン栽培を大きく行っていました。終戦後でしたが田畑がたくさんあり、米は一年分以上の収穫がありました。私が手伝うと喜んでくれたので、学校が終わると急いで家に帰って手伝った事を今でもよく覚えています。

no.4

 せっかく祖父に可愛がってもらっていたのに、祖父も私が小学6年生の時に亡くなりました。虚しさがいっぱいこみ上げてきました。
 墓地のことについて少し書いてみます。当時は土葬でした。誰かが亡くなると、家の天井板で桶や寝棺を作り、土葬した上に小さな家を作ります。日高家の墓地には次々にその小さな家(霊屋)が並びました。現在では火葬になり、霊屋ではなく墓石になっていますが、遠い昔の思い出です。墓石には今でもくっきりと亡くなった家族の名前が刻まれています。
 学校生活は、愛する人たちの死に直面する生活でした。このような中で、なんとか中学校を卒業する時期を迎えました。もし私が元気な体だったら、田畑もあり長男でしたのでそれをすることも出来ましたが、かないませんでした。とにかくどこかに就職しなければなりません。担任の先生が、種子島の靴屋さんに住み込みで働く職人の仕事を世話して下さいました。

no.5

 種子島に出発する前日、弟が別れをとても悲しんでいたので一つの約束をしました。「向こうに行ったら、必ず雑誌を送るからね。」と約束し、喜んで送り出してもらいました。弟は11歳でした。脊椎カリエスという病気にかかっていました。
 このようにして種子島に出発し、住み込みの丁稚奉公が始まりました。
 親方とおかみさんが、快く迎えて下さいました。
 毎日、朝から夕方まで珍しさもあって楽しく喜んで働きました。そして、月々頂いた小遣いの中から弟に約束した雑誌「冒険王」を送りました。
 しかし、残念なことに昭和32年10月、弟は13歳で亡くなりました。葬式には帰りませんでした。後に私が家に帰ったとき、弟の友達から聞いた話では、雑誌が送られてくるのを楽しみにしていたそうです。その当時、雑誌「冒険王」などは屋久島では手に入らず、大変貴重なものでした。弟の友達の方は、「弟さんは僕たちにも喜んで雑誌を見せてくれました。ありがとうございました。」とおっしゃって下さいました。

no.6

 仙田製靴店での丁稚奉公の最初の頃の様子を書きたいと思います。
 ちょうど私が来る前に、店内を改装したばかりでした。
 運動靴やカバンを陳列する仕事から始まりました。職場は、親方と職人さんと私の三人でした。
 お客様の要望に沿った手縫いの靴を作っていました。牛皮・馬皮・羊皮などを親方が型どり、裁断し、皮製品用のミシンで仕上げ、その仕上げた上皮と底皮を、職人さんが手縫いで仕上げます。つまり、ひとりひとりのお客様の足の形に合わせた靴なのです。
 木型は、男性用が24cmから28cmまであり、女性用が20cmから24cmまでありました。
 職人は、一日一足仕上げるのが仕事でした。
 私の最初の仕事は、店での靴の販売と靴磨きと後片付けでした。
 靴磨きは、よくお客様が来られて喜んで頂きました。
 いろいろと覚える事があり、大変でした。

no.7

 いろいろと覚えることがあり、大変でした。
 しかし、様々な事を教えて頂きながら頑張っているうちに、徐々にステップアップしていきました。
 通常では3年ほどで一人前の靴職人になるのですが、私は障害者ですので少し長くかかりました。
 靴磨きからはじめて、靴の修繕、カバンの修繕、そしてお店での靴の販売、在庫調べや仕入れた商品の陳列など、朝から晩まで働きました。そして職人の仕事の要である新しい靴を作ることにも挑戦させてもらえるようになりました。
 まず、親方が裁断した型を独特の靴包丁で薄く削り、折り曲げて糊で貼り付けていきます。一足に10枚ほどの上皮を使います。それを親方がミシンで縫って仕上げていきます。
 (こうして出来上がった上皮を、今度は木型にしっかりと収めていく手順になります。ここが腕の見せ所です。)
 親方や女将さんに励ましを頂きながら、4年目になっていました。ちょうど20歳を迎えていました。

no.8

 丁稚奉公生活も四年目に入り、「今年こそは一人前の職人を目指して頑張ろう。」と心に誓いながら日々励んでいました。
 そのような時、少し体調が悪くなってきました。
 小さい頃から小児麻痺と喘息を患っていましたが、吐血もして、だんだんひどくなってきました。一番心配していた事が、起こってしまいました。
 両親が肺結核で亡くなっていたので、とうとう自分にも来たのでは、とすぐに思いました。
 今では良い薬も出来ていますが、当時、肺結核は、不治の病と言われていました。

 すぐに良くなる見込みもなく、親方や女将さんに迷惑をかけたくなかったので、お暇をいただいて帰ることにしました。
 悔しさと情けなさと失意の中、劣等感が再び襲ってきました。
 親方から、「病気が治ったらいつでも戻ってきていいですから。」と声をかけられ、自分の故郷・屋久島の尾之間に帰りました。

no.9

 家に帰ってみると、私の実家は伝道師の方に貸していて、私は裏の母屋に祖母と住むことになりました。
 櫛原利之は、私の一番親しい友でした。中学校を卒業する時には、彼の父親と3人で宮之浦岳登山に行き、とても良い思い出になっていました。
 彼は、私が帰ってきた事を知って、早速お見舞いに来てくれました。そして、「教会に行こう。」と誘われました。
 最初は、「肺結核にかかってもう長くはないし、あれはアメリカの宗教だから自分には関係ない。」と言って、丁寧に断りました。
 しかし、彼は毎週私を誘いに来ました。すると祖母から、「あなたは一日何もせずに休んでいるんだから、行ってきなさい。」と勧められて行く事にしました。

 それからは、毎週行きました。神様の事やイエス・キリストについて少し理解出来ました。
 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。
 それからしばらく、友達と一緒に集会に出席していましたが、病気が悪化し、夜も眠ることが出来なくなりました。
 そこで私は伝道師を訪ね、自分の思いを話しました。

no.10

 「溺れる者は藁をも掴む。」ということわざがありますが、そのような切羽詰った状態でした。
 そこで、伝道師の方に、「まだ教会に行き始めたばかりですが、イエス・キリストを信じますので、祈って頂けないでしょうか?」とお願いしました。
 すると、「喜んでお祈りして差し上げます。聖書を開いて一緒に読みましょう。」と言って下さいました。
        
      マルコの福音書 16章17−18節
 信じる人々には次のようなしるしが伴います。
 すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。

 伝道師の方が、「あなたはこの言葉を信じますか?」と言われたので、私は「信じます。」と答えました。そして、共に私の救いと癒しのために祈りました。
 それからは、毎週熱心に礼拝に出席しました。
 この年には、私を教会に誘ってくれた櫛原兄弟の洗礼式にも立ち会うことが出来、感動しました。彼はその後、家族みんなでブラジルに移住しました。
 彼との出会いは、私にとって、神様によってなされた事だと、今でも感謝しています。
 そして、最初のクリスマスを迎える事になりました。

no.11

 その頃の屋久島では、家庭でクリスマスを祝うことはなく、初めてのクリスマスは楽しいものでした。
 当時は、仕事もしていなかったので、宣教師に「トラクト配布をしてもらえませんか?」と頼まれ、毎月一回近辺の村々に配布していました。3ヶ月ほど経った頃、ある方から「あなたは最近だいぶ元気になりましたね。」と言われ、自分の病気の癒しを実感しました。
 祈って下さった伝道師(通訳)の方は横浜に戻られ、その後、神学校を卒業されたばかりの朴夫妻が来られ、半年後に帰られました。
 広い方の家が空きましたので、そちらに住むことになりました。
 この頃から、私は仕事を少しずつ始める事にしました。
 まず、靴屋の親方に元気になった事を報告すると、大変喜んで下さいました。そして、屋久島で靴の修繕の仕事を始める事に関してお許しをお願いした所、鹿児島の卸問屋を紹介して下さり、感謝をもって始める事になりました。
 当時の屋久島では、靴の修繕と靴磨きの仕事は珍しくもあり、少しずつ仕事をしていきました。
 このように、宣教師や伝道師との出会いは、神様が用意して下さった、今でも忘れることができない最高の出来事です。

no.12

 病がいやされて、順調に仕事が出来るようになり、本当に健康になっていきました。
 もちろん礼拝には喜んで参加し、洗礼の話も出来るようになりました。通っていた教会はペンテコステ派(聖霊の働きを重んじる)でしたが、毎年春と夏には、九州全域の合同聖会がありました。
 私も教会の方に誘って頂き、参加しました。当時、屋久島から鹿児島まで、船で種子島を経由して8時間もかかりました。
 熊本の水俣教会主催の合同聖会でした。
 講師の先生の説教の内容は、「みなさん、聖霊体験に預かりましょう。」というものでした。
 私も、初めてのことでしたが、皆さんと一緒に祈り求めました。
 明日は屋久島に帰るという夜、必死の思いで祈り続けていると、聖霊様のあふれる恵みに預かることが出来ました。
 この素晴らしい体験によって、神様に対する信仰を確信させて頂きました。
 屋久島に帰った後、尾之間の二又川の上流で洗礼を受けました。
 皆さんに大変喜んで頂きました。

no.13

 1961年4月、22歳で洗礼を受けてクリスチャン生活に入りました。
 靴の修繕の仕事も、尾之間を拠点に栗生集落や安房集落にも出かけて行き、皆さんに知られるようになっていきました。
 その頃、尾之間教会ではクリスチャン幼稚園も運営していました。
 教会の姉妹たちが、園児に聖書の話をするために、週一回、御言葉の学びをしていて、私も参加していました。英語の勉強の時間もありましたが、苦手ですぐにやめてしまいました。あの時もっとよく学んでいれば、と悔やんでいます。
 しかし、御言葉に対する思いは、徐々に深められていきました。
 毎年、春と夏に開かれる合同聖会に出席した時、献身についての御言葉が与えられました。
 
 ヨハネ15:16
 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。

 Tコリント1:26−28
 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

no.14

 「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
  また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」  Tコリント1:27−28

 当時、この御言葉が強く迫って来ていましたが、まさか自分には関係のない事だと思っていました。
 クリスチャンになって3年目の頃、宣教師から「京都での聖書の学びに行きませんか?」と言われました。
 私は、大変迷いました。祖母からは、「行ってもいいよ。」と許して頂きましたが、叔父は絶対反対でした。「ここでの集会だけで充分。何もわざわざ京都まで行く必要はない。」と強く言われました。
 考えに考えましたが、神様によって病が癒され健康になった事を思うとき、聖書の学びをさらに深めたい、という思いが強く、行く決心をしました。
 学びの期間は、9月から翌年の3月まで。4月から8月までは、自分の教会での奉仕。これを2年間行う内容でした。
 この事が私の人生を大きく左右する事になるとは、夢にも思いませんでした。

no.15

 聖書の学びをする決心をして、いよいよ京都に出発しました。
 当時、鹿児島まで船で種子島を経由して8時間位かかりました。
 鹿児島から京都までも相当長旅でしたが、どれくらい時間がかかったのか忘れてしまいました。しかし、汽車に乗ることもあまりなかったので、道中は楽しい気分で過ごしました。
 そして無事到着し、他の皆さんと会い自己紹介をし、親交を深めました。
 九州からは、私と、熊本の水俣教会の姉妹と、福岡の久留米ベテル教会の姉妹の三人でした。
 他にフィンランド・ミッション系の教会から、山梨・大阪・滋賀・京都から来られていて、合わせて10人だったと思います。
 みな高卒や大卒の方だったので、私はびっくりし少し不安にもなりましたが、とにかく皆さんからとても暖かく迎えて頂き、感謝でした。
 この二年間の学びでは、いろいろな事を教えて頂き、私の人生において忘れることのできない、素晴らしい経験でした。

no.16

 9月から3月までの京都キリスト教会での学びは、寮生活でした。
 そして、学びの成績のトップは、いつも、久留米から参加されていた中村純子さんでした。
 「すごい方だな〜。」と思っていましたが、まさかその方と結婚する事になるなんて・・・思ってもいませんでした。
 神様のなさる事は、奇跡です。

 旧姓中村純子さんは、1933年4月に福岡県久留米市に生まれました。久留米明善高校を卒業後、大学も卒業し、弁護士を目指して法律事務所で秘書として働いていたようです。
 彼女が召されているため、詳しいことは分かりません。
 1960年頃からクリスチャン生活に入っています。
 1963年に、久留米ベテル教会のフレージャー宣教師に出会い、多くの方を教会に導いて、初期伝道に大きく貢献されていました。
 神様の召命で、献身されました。

no.17

    学びの思い出
 旧約聖書から新約聖書まで全体を学んだり、路傍伝道・子供伝道・公園での伝道・福音書店での伝道・説教学の学び、そして日曜日には各地の教会に出かけて行って、証などを行いました。
 皆さんについていくのがやっとの思いでした。
 当時、鉄道唱歌がよく歌われていましたが、そのメロディで聖書の目次を教えて頂きました。
  聖書目次
1 創、出、レビ、民、申命記
  ヨシュア、士師、ルツ、サム、列王
  歴代、エズ、ネヘ、エステル書
2 イザヤ、エレ、哀、エゼ、ダ二ル
  ホセア、ヨエ、アモ、オバ、ヨナ、ミ
  ナオム、ハバクク、ゼパ、ハガイ
  ゼカリヤ、マラキ、39
3 マタイ、マコ、ルカ、ヨハネ伝
  使徒、ロマ、コリント、ガラテヤ書
  エペソ、ピリ、コロ、テサロニケ
  テモ、テト、ピレモン、ヘーブル書
4 ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダ
  ヨハネのもくし、27
  旧、新、りょうやく、合わせれば
  聖書の数は、66

no.18

 2年間の学びも無事に終わり、記念のお別れ遠足をして先生や皆さんと一緒に過ごしました。
 卒業式では、先生から主の恵みの年についての話があり、私たちの今後の活躍を期待する、というメッセージがありました。
 そして、それぞれが遣わされた教会に帰りました。
 私も、尾之間ペンテコステ教会に帰りました。
 帰ってからの、私の教会での奉仕の生活の様子を、少し書いてみたいと思います。
 毎週日曜日は、子供たちの日曜学校や礼拝の奉仕をしました。
 となりの小島地区でも子供集会をし、紙芝居やフランネルボードを使って聖書の話をしましたが、子供たちが熱心に聞いてくれた事などが、懐かしい思い出になっています。
 このような毎日を送っていた頃、たしか9月頃だったと思いますが、久留米ベテル教会のフレージャー宣教師からお手紙を頂きました。
 私にとって、大変ビックリするような内容の手紙でした。

no.19

 フレージャー宣教師の手紙の中身は、結婚についてでした。
 「中村純子さんとの結婚を、神様に祈り、神様の御心を求めてみてくれませんか。」との事でした。
 純子さんは、結婚はしないで教会奉仕に専念したいという思いがあったようですが、彼女のお母さんが結婚を強く望まれていたようです。
 当時、私はちゃんとした仕事もしていませんでしたので、びっくりしてしまいました。
 ですから、今の状態を詳しく書いて送りました。
 このような中で、文通が始まりました。
 とにかくお互いに祈ることにしました。
 彼女は私より7歳も年上でしたので、結婚について真剣に考え始めていたようです。
 そしてこの事を通して、お互いの信仰を確かめ合う機会にもなりました。
 文通を重ねていくうちに、神様の導きを確信しましたので、すべて彼女に委ねてこの年は終わりました。

no.20

 新しい年(1967年)に入り、純子さんから返事がありました。
 彼女も、私たちの結婚に神様の導きを確信し、その事をフレージャー宣教師に伝えて話し合った、とのことでした。
 「勝手に日取りまで決めてしまってごめんなさい。2月28日に式をお願いしましたが、よろしいでしょうか?」という内容でした。
 私は、久留米ベテル教会での結婚式に異存はなく、純子さんは一人で決めなければならないことも多く、大変だったと思いますが、私はただお願いし出席するのみでした。
 この年は、私たちにとって、神様のなさる事の素晴らしさをいろいろと体験する年でした。
 祖母は大変喜んでくれました。

 良い妻を見つける者はしあわせを見つけ、主からの恵みをいただく。
              箴言18:22
 しっかりした妻をだれが見つけることができよう。彼女の値打ちは真珠よりもはるかに尊い。     箴言31:10

 彼女は口を開いて知恵を深く語り、その舌には恵みのおしえがある。
              箴言31:26

no.21

 尾之間ペンテコステ教会の皆さんに、久留米ベテル教会の中村純子さんと結婚します、と報告をしました。
 急なことでしたので、皆さん驚かれましたが、とても喜んで祝福して下さいました。
 久留米での結婚式には、私の叔父と教会の長老の日高武志さんに遠路出席して頂きました。
 また、3歳下の妹は結婚して大阪に住んでいましたが、主人と姪っ子と一緒に来てくれました。
 式の前日には、純子が選んでくれていた結婚指輪のサイズ合わせをしたり、いろいろな打ち合わせをしたりしました。
 今思い出しても、素晴らしいひと時でした。
 結婚式は、知り合いの牧師たちも大勢出席して下さり、緊張の連続でしたが、素晴らしく、感謝の中、執り行われました。
 最高の思い出となっています。

 『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。』それを、あなたがたは読んだことがないのですか。
 それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」  マタイ19:5−6

no.22

   新婚旅行の思い出
 結婚式の後、皆さんに祝福される中、フレージャー宣教師の車に乗って出発しました。
 宣教師が予約して下さっていた宿で、ゆっくり休みました。ところが夜10時すぎに妻の純子が、「私が知っている宿に移りましょう。」と言いました。私は驚きましたが、従うしかありませんでした。宣教師は、次の日の朝、宿に迎えに行ったらいないので、びっくりされたそうです。
 どうも純子は、宣教師が「さあ、どうぞ。」ときっちり敷いてくれたレールの上を歩くのは嫌だったようです。茶目っ気もあったようです。
 その後、私たちは純子の実家に行き、別れの挨拶をしました。目的地は、もちろん屋久島の私の家ですが、その途中で水俣教会の神園牧師の家に泊めて頂きました。
 神園牧師は、私が一番親しくさせて頂いた牧師で、誘って頂いたので一泊し、感謝の時を過ごしました。
 そして、屋久島までの長い船旅です。今と違って、当時鹿児島から屋久島まで8時間ほどかかり、船内に入っただけで船酔いにかかってしまいます。
 今思えば、純子はそんな離島に嫁に来ることに不安はなかったのでしょうか。
 屋久島に来て頂いて、本当に感謝しています。

no.23

 いろいろな思い出を心に刻みながら我が家に帰りました。
 私を育てて下さった祖母は、私たちが帰るのを首を長くして待っていました。
 純子を紹介しますと、大変喜んでくれました。
 しばらくして、ブッシュ宣教師や尾之間ペンテコステ教会の方々が、私たちのために結婚披露宴をして下さいました。皆さんからお祝いの言葉を頂き、感謝の時を過ごしました。
 楽しい交わりも終わりに近づいた頃、ブッシュ宣教師から祝福の言葉とともに重大な報告がなされました。それは、「宮之浦の牧師館に住んでおられる通訳の伝道師が結婚に導かれ、横浜の教会に帰られるので、4月から私達夫婦に後を引き継いで欲しい。」というものでした。
 ブッシュ宣教師も3年間アメリカに帰られ、こちらに戻って来た時には、宮之浦にも教会を建てますので、3年間お留守番をお願いします、と言われました。
 皆さんが驚かれる中、祝福の祈りと按手の祈りで披露宴が終わりました。

  (按手の祈りとは、牧師に就任するための祈りのことです。)

no.24

 昭和42年(1967年)、妻の純子と私にとってすべてが初めての体験でした。
 3月いっぱいは尾之間の実家で、4月からの仕事に心の準備をしながら、祖母と三人の短い時を過ごしました。
 そして、尾之間の皆さんに見送られて、宮之浦に到着しました。
 前任の伝道師から引き継いだ仕事は、二つありました。
 一つ目は、もちろん開拓伝道です。
 二つ目は、幼稚園の仕事でした。当時、宮之浦に屋久島電工(ヤクデン)が出来、島外からたくさんの方々が働きに来られていました。その会社の社長さんとブッシュ宣教師が親しくされていた関係で、会社の敷地内で園舎と庭を無償で提供して頂き、幼稚園をしていたのです。
 宮之浦の姉妹たちが、60人ほどの子供たちを預かっていました。私たちにとっては初めての事でしたが、姉妹たちと一緒に幼稚園の仕事を引き継ぐことになりました。
 小さな牧師館での最初の礼拝には、たくさんの方々が部屋いっぱいに集まって下さり、感謝のひと時を過ごさせて頂いた事は、今も私の心の奥に暖かい、深い喜びの思い出として残っているのです。

no.25

 昭和42年(1967年)の4月からの、私たちの生活について、少し書きたいと思います。
 もちろん、私たちの根底には、「神様がすべてのことを成して下さる。」という信仰が強くありました。
 開拓伝道の当初は、アメリカの教会から経済的なサポートを頂いていました。
 当時1ドル360円の固定相場だったと思いますが、会計はすべて妻の純子に任せていたので、毎月どれくらいの金額をサポートして頂いていたのか、私は知りませんでした。
 毎日幼稚園の仕事もしながら、私にとっての一番の仕事は、毎週の礼拝のメッセージの準備をする事でした。これは、私にとっては大変なプレッシャーでした。私よりはるかに早く信仰の道に入った純子の方が上手なはずなので、時には彼女にメッセージをして欲しいと思ったのですが、彼女は動いてくれませんでした。
 礼拝の日の夜には、必ずディスカッションをしました。
 あの話は良かったとか、あれはもう少しだったとか、随分絞られたものです。
 まあそんなこんなで、4月からの新婚生活は楽しく、感謝でした。
 暮れには、最初の子供が与えられました。勇久(いさく)と名付けました。

no.26

 昭和43年(1968年)の正月は、妻の純子の母も来て下さり、感謝の中で迎えることが出来ました。
 4月から幼稚園も開拓伝道も2年目に入り、順調に進んでいました。
 そのような時、ブッシュ宣教師からお便りがありました。「家族の事情で日本に帰ることが出来なくなりましたので、引き続き宮之浦での働きをよろしくお願いします。」という内容でした。
 私は、あまりの責任の重さに押しつぶされそうな心境になりました。しかし、純子と二人で励まし合いながら、今後のことを祈りました。
 信徒の数も増えてきて、牧師館では手狭になっていました。
 ちょうど、すぐそばで建設中だった宮之浦大橋が完成し、飯場として使われていたプレハブを譲って頂くことになりました。
 プレハブ会堂がスタートしましたが、それと同時に、いろいろな問題が起こってきました。

no.27

 昭和44年当時、教会の土地は、ブッシュ宣教師が買い入れていたのですが、名義は変更されていませんでした。
 いろいろと祈り考えた結果、私たちが教会を続けていくためには、宗教法人にする事が最良であるとの結論に至りました。
 妻の純子の出身教会の久留米ベテル教会は、すでに宗教法人になっていましたので、必要書類のコピーを送って頂き、早速準備にとりかかりました。
 そして、幼稚園の方は3月いっぱいで辞めさせて頂きました。
 そのことで尾之間ペンテコステ教会の長老からお叱りを受けましたが、とても両立することは出来ない事を話し、了承して頂きました。
 しかし何人かのお母さん方から、「どうしてもやって頂きたい。」との希望があり、一年間だけプレハブ会堂で10人ほどの子供たちをお預かりしました。
 宗教法人にするためには信徒の皆さんの協力も必要でしたが、皆さん賛成して下さり、積極的に応援して頂きました。
 私生活では、2月に次男(岩雄)が与えられ、4月からは私の祖母も一緒に暮らすことになり、祝福されました。

no.28

 宗教法人化のため、アメリカのブッシュ宣教師に手紙を出して、「宮之浦キリスト教会に土地を寄贈します。」というサイン入りの返事を頂きました。
 牧師館は、尾之間や安房での働きの後、宮之浦で最初の開拓伝道をされたヴォーグマン宣教師の名義になっていました。ヴォーグマン宣教師は、当時、鹿児島市の谷山福音キリスト教会を建てられ伝道されていましたが、法人化したい事を連絡すると、「喜んで寄贈します。」と、お便りを頂きました。
 昭和44年の秋、法人申請の書類がほぼ揃いましたが、少し前から病にかかっていた私の祖母が天国に召されてしまいました。私にとっては幼い頃から育てて下さった最愛の方でした。
 私が肺結核になり種子島から帰って来た時、祖母は「もう長くは生きられないだろう。」と思っていたそうです。
 しかし、神様の恵みにより私が救われ、癒され、結婚までした事を一番喜んでくれました。
 祖母自身も、イエス様を信じて救われました。
 二人のひ孫とも一緒に過ごす事ができ、どんなにか幸せだった事でしょう。
 神様に感謝です。

no.29

 宗教法人の申請の準備がすべて整いました。
 信徒の皆さんにも報告し、「これからの全てのことがうまくいきますように。」と皆でお祈りしました。
 そして昭和45年2月に、私は一人で鹿児島県庁に向かいました。
 県庁の総務部学事法制課という所に行ったのですが、行ってみると、なんと学事法制課の課長さんが、私の郷里の尾之間出身の方で、私の実家近くの先輩でした。
 神様のなさることは、なんと素晴らしい恵みと憐れみにあふれている事でしょう。
 様々なことを質問されましたが、こころよく応対して頂きました。
 私の救いの体験や伝道活動をしている事などを話しますと、励まして頂き、感謝でした。
 3月には、次長の方が現地調査に来られ、手書きの申請書類を何箇所か訂正してくださいました。
 正式な認可は6月6日にありました。
 ハレルヤ。

no.30

 この年、宮之浦に自動車教習所が出来ました。
 車の免許を取ることは必要なことでしたが、私は障害者のため自信がなく、ためらいを抱えたままでしたが、入校手続きをしました。
 全教程28時間で、費用は2万8千円でした。
 教官は知人でした。最初の頃は危ぶまれていましたが、10時間くらい乗った時、大丈夫だと励ましを頂き、最後まで乗り切る事が出来ました。
 当時、試験を受けるには鹿児島の帖佐か宮崎まで行かなければなりませんでした。
 私は宮崎に行く事にし、旅館に泊まり込んで、学科と実地の試験を受けました。
 1回目は、学科は何とか受かりましたが、実地の方はコースを間違い不合格。
 2回目で合格しました。
 ちょうど一週間でした。
 ハレルヤ。感謝。
 妻の純子が大変喜んでくれました。

no.31

 昭和45年。
 いろいろな事があり、沢山の恵みを頂いた年でした。
 宗教法人の認可。車の免許取得。そして10月には、長女・真理枝も与えられました。
 プレハブ会堂で行っていた幼稚園は、力不足でもあり、とても残念でしたが3月で終園としました。
 前年の春から、ケイラー宣教師が安房に家族で住まれていましたので、楠川公民館で伝道集会をして頂きました。
 ケイラー宣教師夫妻は、それぞれが日本での宣教を神様に示されて、終戦から数年後に来日されました。主に九州で大きな働きをされ、現在も熊本県荒尾市の有明バイブルチャーチで、宣教師・講演者として活躍されています。
 楠川公民館の伝道集会には、高校生や大勢の方々が集まって下さり、魂の救いに預かりました。
 その方々が今も日本各地で主の恵みを伝えているのです。
 ハレルヤ。

no.32

 話は前後しますが、特別集会のことを書いてみます。
 私は新米牧師でしたので、妻の純子と相談して、当時親しくさせて頂いていた先生方を招いて、特別集会を行いました。
 昭和42年7月には、大牟田教会から武藤 健牧師に来て頂きました。
 昭和44年春には、九州各地で開かれた天幕大伝道集会が、尾之間・安房・宮之浦で開催されました。
 オランダ人の伝道者・フッケンダイク御夫妻、大牟田教会から応援に来られたケイラー師と兄弟姉妹が来て下さいました。
 屋外で大きな天幕を組み立てての集会でしたが、いつも大勢の方々が出席されました。
 この集会がきっかけとなり、ケイラー先生家族は屋久島に来られる事になりました。
 特別集会は、その後も一年に何度か行い、最高の思い出として心に残っています。
 ハレルヤ。感謝。

no.33

 今も変わらない事ですが、屋久島には高校までしかありません。
 そのため、高校を卒業したほとんどの人々は、本土の専門学校や大学に出ていきます。
 これは離島の宿命です。
 宮之浦教会でも、礼拝に熱心に出席していた高校生や、受洗した高校生や学校の先生方が、毎年2・3人は島を離れていきます。
 私たちは年度替わりの春の季節、多くの方々との出会いと別れを経験し、嬉しさと寂しさを味わってきました。
 ですから私と妻の純子は、宮之浦教会を「福音の種を蒔き送り出す教会」と考え、島を出て行かれた方々が、本土に行かれても主につながって実を結ぶことをいつも祈りながら伝道してきました。

 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、はじめに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。      マルコ4:26−28

no.34

 昭和42年4月からスタートしたお留守番伝道でしたが、昭和46年の4月にはアメリカからのサポートをお断りしました。
 どこからの援助も受けることなく、単立・独立採算の宮之浦キリスト教会がスタートしました。
 そしてその頃、信徒の方々が10人ほどおられましたが、プレハブの会堂は夏は暑く冬は寒かったため、新会堂建設のため皆で祈り献金を始めました。
 それから現在まで、神様の恵みと憐れみによって支えられて来ました。

 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。  ピリピ4章19節

no.35

 昭和48年は、信徒の皆さんと共に献金を捧げ、祈り願ってきた新会堂建設の年でした。
 私の祖母が宮之浦に移ってきた昭和44年から空家になっていた私の実家は、尾之間の中心地にありました。そのためか、近所の方々から譲って欲しいと言われていました。
 (私としては郷里の土地がなくなる寂しさもあったのですが、)妻の純子とよく話し合い祈った結果、思い切ってその土地を売り、教会堂のために捧げる事にしました。
 信頼の置ける大工の親方に見積もりを出して頂き、6月に建設を始め、10月に完成しました。
 大牟田教会から溝口先生に来て頂き、献堂式を執り行いました。
 主の恵みを皆さんと分かち合いました。
 ハレルヤ。

 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。  Uコリント9章8節

no.36

 宮之浦キリスト教会において、一番の願いは献身者が出る事でした。
 感謝な事に、女性3名、男性2名の献身者がありました。
 全員の方が、奈良の生駒聖書学院で3年間の学びをされました。
 当教会から直接入学された方。違った体験をされた後、入学された方など様々でした。
 3人の女性は牧師夫人となって今も伝道に励んでおられます。
 1人の男性は、牧師をされた後、実業家として活躍されながら福音を伝えておられます。
 宮之浦キリスト教会の出身者が、日本各地でキリストの福音を語っておられるという事は、何という主の恵みでしょう。

 そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」
                        マタイ9章37−38節

no.37

 もう少し、働き手の話をします。
 最初に献身されたのは、宮崎出身で小学校の教員として屋久島に赴任されていた姉妹でした。宮之浦教会で受洗され、教員を退職し献身。生駒聖書学院を卒業した後、郷里で結婚され、牧師夫人として現在も励んでおられます。
 その他に二人の姉妹も献身されて、愛知と奈良で牧師夫人として伝道の働きをなさっています。
 献身された後、現在は長野県の松本市で実業家として活躍されている兄弟は、今でも毎年知り合いを連れて屋久島観光にやってきます。彼は冒険家でもあり、本も出版され、キリストの愛を伝えておられます。
 もう一人の兄弟は広島の方で、病のため生きる希望をなくして屋久島に来られていました。しかし、主の素晴らしい導きによって、宮之浦教会に通われ救われました。そして献身され学ばれた後、当教会で1年間奉仕された後、帰郷され広島の教会で結婚まで導かれました。御両親が大変喜んでおられました。
 これらの出来事は昭和50年代頃に起こった神様の御業です。

no.38  稲葉 公子 姉妹 に関するお知らせ

 稲葉公子姉妹が、3月30日に召されました。
 あまりにも突然の事なので、皆びっくりし驚いています。
 私が一番信じられませんでした。鹿児島に用事で行っていて、4月1日の12時の高速船に乗りました。そして屋久島に着いとたんに、白子山の佐藤さんから連絡があり、早速行きました。
 警察の方が現場検証をしていました。
 家の中で倒れていたそうです。
 私は召天式の準備をしました。有明バイブルチャーチのレオ&フィリス・ケイラー宣教師夫妻にも出席をお願いしたところ、他の用事をキャンセルして4月2日の4時の飛行機で来て下さいました。
 前夜式から召天式まで教会の会堂で行いました。どちらにも大勢の方々が来て下さいました。主イエス・キリストを信じておられた稲葉姉妹にとっては、最高の証しの場になりました。
 稲葉姉妹の息子さん夫婦や姉妹や親戚の方々も遠方から来て下さいました。
 宮之浦キリスト教会に出席されていた稲葉姉妹から手紙を頂いていた姉妹から話を伺いました。大変喜んでおられる内容だったそうです。
 私としてはもう少し生きておられて、共に主の恵みを証して頂きたかったです。

no.39

 私たちの人生には思わぬ出来事が起こります。
 しかし、それらを乗り越えていかなければなりません。
 今回の出来事(稲葉 公子姉妹の召天)は大変な事でしたが、前進あるのみです。
 さて、昭和50年から55年にかけて、主の恵みにより、三男 恵と次女 愛子が与えられました。大家族の仲間入りとなりました。
 妻の純子は高齢出産でしたが、神様が与えて下さいましたからと喜んでいました。
 この頃、牧師館の建て替えも行われました。
 しかし、このような喜びの中、思わぬ出来事が起こりました。

no.40

 昭和54年8月に次女を出産してから、妻の純子はなかなか体調が回復しませんでした。
 信徒の皆さんも心配して下さいましたので、医者に診て頂きました。しかし、はっきりしたことは分からず、年末を迎えました。
 話し合った結果、年が明けたら、鹿児島の大学病院に行って、検査を受けた方がいいのではないか、ということになりました。
 大学病院に行って、検査を受けました。その結果、脳腫瘍であることが判りました。
 手術をするためにあらゆる検査をしました。
 私も病院に行き、詳しく話を聞かせて頂きました。
 手術をして腫瘍を取り除かなければなりませんでしたが、もう少ししたらアメリカから新しい機械が来るということでしたので、純子と話し合った結果、新しい機械が来るまで、自宅待機ということになりました。
 とりあえず我が家に帰って来ました。

no.41

 自宅待機の間には、様々なことをしました。
 大きな聖会に出席して祈って頂いたり、夏の聖会に出席したり、純子の郷里の久留米に家族全員で行きました。
 今でもよく覚えているのは、本人がほとんど痛みを訴えることなく過ごした事です。
 また子供たちは久留米の祖母と一緒に屋久島に帰ってもらい、私と純子は熊本県宇土市の浜田先生の断食場で10日ほど断食をしました。
 神様との交わりを共に過ごす時となりました。
 このようなことをしながら、この年は終わりました。
 昭和56年1月になり、手術をするため大学病院に再び入院しました。
 様々な検査の結果、2月の初めに行なうことが決まり、私も出かけて一緒にその日を迎える事になりました。

no.42

 一切を主に委ねて祈った後、手術室に入りました。
 大変長い時間かかりましたが、終わりました。
 先生が出てこられて、「一応腫瘍は全て取り除くことが出来ました。全身麻酔をしてますので、あとは回復するのを待つだけです。」と言われました。
 しかし残念ながら目覚めることはなく、安らかな笑顔のまま召されていきました。
 2月11日でした。
 手術をするまで一年間自宅待機をしていましたので、本人の思いを私にも子供たちにも話していましたが、子供たちはまだ幼かったので理解するのは困難ではなかったかと、私は思っていました。

no.43

 皆さんのお陰で召天式も無事終える事が出来ました。
 いよいよ子供たちの育児に専念する事になりました。三月までは純子の母のお世話になりましたが、「私と子供たちとで何とかやっていきます。」と言って、お礼を言って帰って頂きました。
 当時、コスモ商事という会社で働かせて頂いていましたが、社長からアルバイトでもいいから働くよう言われて、集金の仕事でしたが続けていきました。
 朝から晩まで毎日何とかやり続けることが出来ました。
 信徒の皆さんの励ましも大きな力になりました。
 とにかく神様に喜ばれるために礼拝を守りながら日々過ごしていくことができ、感謝でした。

no.44

 中1、小6、小4、5歳、1歳半の子供達と、上三人は食事の後片付けを毎日する事に決めて、何とかやり遂げることが出来ました。
 なかよし保育園がありましたので、末の子は小学校に入るまでお世話になりました。
 私にとって、月日の経つのは早くもあり遅くもありでしたが、長男・次男は屋久島高校を卒業して東京に出ました。
 長女も屋久島高校を卒業しましたが、「幼稚園の先生になりたいので、短大に行かせて欲しい。」と言いましたので、天職だと思い叶えてあげました。妹の世話をよくしてくれていましたので、励まして送り出しました。

no.45

 いよいよ、あと二人になりました。
 三男が、中学3年生になり、進路を決める時期になりました。
 「自分は鹿児島に行きたい。」と言いました。
 上3人は、屋久島高校に行きましたので、私はびっくりしました。
 「どうしたものか。」と思っていると、長女の友人が私に、「鹿児島高専を受けてみたらどうでしょうか?」と助言を頂きました。
 その事を三男に話すと、受験する事に賛成しました。
 勉強に励む事に専念するように言い聞かせました。
 高専は5年間もあり、大変な所でした。
 しかし本人が望みましたので叶えてあげ、二月に私も一緒に受験に臨みました。
 感謝な事に見事合格しました。

no.46

 子育ての期間、約20年間、末っ子の次女も屋久島高校を卒業しました。
 「自分も短大に行かせて下さい。」と頼まれて、純心短大養護科に入学しました。
 長い道のりでしたが、主の助けによって、子供たちの思いも何とか叶えてあげる事が出来、感謝しました。
 また一番大変な、お金の必要も満たされて、負債する事無く済み、感謝しています。
 この間、信徒の皆さんの励ましによって、私は様々な事を教えて頂きました。
 平成10年4月には、やっと一人になり、子供たちは今、それぞれの場所で働いています。

         お知らせ
 3月に鹿児島に行った際、子供の勧めもあって、眼鏡を作るため井後眼科で検査を受けました。
 丁寧に検査し頂いた結果、「白内障になっています。」と言われてしまいました。「とりあえず帰ってよく検討してみます。」と言って帰って来ました。
 突然の事に、びっくりしました。
 信徒の皆さんにもお知らせして、二週間のお暇を頂き、両目とも手術をして、無事帰って来ました。
 遠い所は、本当にはっきりと見えるようになり、最高です。

no.47   すべての必要が満たされた

 「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」 ピリピ4:19

 子供たちの学校での学費と生活の必要は、感謝な事にすべて満たされました。
 高校・短大・高専と、二人の子供たちは奨学金をお願いして乗り切る事が出来ました。
 その間、私は教会の礼拝と並行してコスモ商事という会社で働かせて頂きました。ガソリン代とガス料金の集金の仕事をさせて頂きました。
 定年まで勤めさせて頂き、教会の働きに専念するためしばらく辞めていましたが、さらに請われて3年程働き辞めさせて頂きました。

no.48

 1993年(平成9年)に、屋久島は世界自然遺産の島となりました。
 それ以来、屋久島は一躍有名になりました。
 それまでは屋久島の存在はあまり知られていませんでした。
 しかしこの時から、毎年大勢の観光客の方々が訪れるようになりました。
 感謝な事に、宮之浦キリスト教会の信徒の皆さんも信仰に励まれておられる中で、日本各地や海外から来られるクリスチャンの観光客の方々が礼拝に出席され、共に礼拝を捧げる恵みに預かっています。
 九州地方の牧師先生方も、毎年信徒の皆さんと一緒に来られています。
 今日振り返りますと、何とか主の恵みによって守られ導かれていることを感謝しています。
 この事は最近強く感じています。
 今年もすでに多くの観光に訪れたクリスチャンが礼拝に出席しています。

no.49  天の御国

 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 マタイ3:7

 今年のイースターは3月27日でしたね。
 宮之浦キリスト教会では、毎年イースターには、教会で召された方々の思い出や故人の信仰生活をお話しし、励まし合っています。
 召された日がそれぞれの方で異なるので、このようにしています。
 おかげさまで、宮之浦キリスト教会も、私達が伝道を始めてから今日まで多くの方々が神様の御国の福音を信じ、そして召されています。

 日高 ミヨ 昭和44年10月に召されました。私の祖母です。宮之浦キリスト         教会で召された最初の方です。私が結婚した事を一番喜んでくれ        ました。ですから、私達が尾之間に帰れなくなったので、宮之浦に        来て頂き、二人のひ孫を抱いて喜んで頂き、そして神様を信じて        救われました。

 大石 富江 昭和48年7月に召されました。屋久島の楠川という集落の方          で、鎌田スミエ姉妹と一緒に喜んで集会に出席して下さり、また         この年に始まった新会堂建設を大変喜んでいました。

no.50

 3月から4月にかけては学校の先生方の転勤の時期です。
 屋久島でも小学・中学・高校の先生方の移動が行われます。
 宮之浦キリスト教会でもそのような事があります。
 その中に旦那さんが高校の先生の小島さん家族がおられました。奥さんと子供さん二人が毎週集会に出席されていました。
 離島に来られる先生方はほとんどの方が3年から4年で転勤になります。
 小島さん家族も昭和51年頃に転勤で宮崎の方に行かれました。
 しかし詳しい事は分かりませんが、次男さんが交通事故で亡くなられたのです。
 宮崎の教会で葬式が行われましたので、私も出席させて頂きました。

 小島 秀成 昭和53年1月

 小島 順子 昭和53年4月

 私たちの人生または信仰生活において信仰の大切さを教えられる出来事でした。

no.51
 
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」
            ヨハネの福音書 12章24節

 私にとって、一生の思い出となる出来事があります。
 それは、純子との出会いと別れです。
 神様の導きにより、お互いに京都で二年間、聖書の学びをしました。
 私は救われた当時、聖書に対する強い思いが与えられ、宣教師の勧めによって、屋久島から出かけて行きました。
 学びを終えて帰ってから一年後に結婚しました。仕事も決まっていなかったのですが、二人で信仰によって祈った結果でした。
 2月に結婚式を挙げ、尾之間教会で3月に披露宴を行いました。その後、昭和42年4月に宣教師から宮之浦キリスト教会の留守番伝道を3年間の約束で拝命しました。
 ところが、宣教師が都合により屋久島に帰って来ることが出来なくなり、「あとをよろしくお願いします。」と言われてしまいました。
 私は大変ショックを受けました。
 純子は私を「頑張れ。」と励ましました。
 何度も挫折しそうになりましたが、何とかやってこれたのは純子のお陰でした。
 純子は、高齢出産でしたが5人の子供が与えられ、大変喜んでいました。

no.52
 
 高齢出産でしたが無事終わり、後は回復を待ちました。
 しかし、何故かなかなか元気になりませんでした。
 そこで、年明けに大学病院に行って診て頂く事になりました。
 その結果、原因が分かったのです。思いもよらない病気でした。脳腫瘍と診断されました。
 頭の中心に腫瘍があり、神経を圧迫していました。本人はあまり痛がっていませんでした。
 早速いろいろな検査の結果、手術をして取り除く事になりました。
 日取りも決まり、私も立会いのため出席しました。そこで、もう一つ大事な話が出ました。それは、もう少ししたら新しい機械が来ますが待ちますかという話でした。純子は喜んで自宅待機をお願いしました。
 ですからその年は、いろいろとすべき事をしました。
 そして、昭和56年2月に手術を行いました。
 しかし手術は成功したのですが、目覚めなかったのです。

no.53
 
 昭和56年2月11日、47歳でした。
 子供たちは、長男 中学1年生、次男 小学6年生、長女 小学4年生、三男5歳、次女 1歳半でした。
 自宅待機がありましたので、痛みも無かったので、自分の思っている事・したい事はなんとかやっていたように思います。
 ただ一番つらかった事は、子供たちを残して逝くことではなかったかと思います。
 私に「苦労をかけます。」と、いつもその事を言っていました。「一足先に御国に行くかもしれませんが、よろしくお願いします。」と繰り返していました。
 幼い子供たちに対して大きな心の傷を与えてしまいましたので、私としてはいくら説明しても理解出来ない事を知り、生涯にわたって主の証人として励むことを余儀なくされました。

no.54   出会いの恵み
 
 私自身本当に神様の憐れみと恵みによって、出会いの素晴らしさを体験させて頂いています。
 まず尾之間の私の家での出来事について書きます。
 私が留守の間に、まず宣教師家族が私の家に住まれ、その後横浜から来られた通訳の女性の伝道師、そして東京の聖書学校を卒業された若い夫妻が住んでいたのです。
 私は祖母と裏の隠居に住んでいて、これからどうなるか分からないけれどもイエス・キリストを信じて救われ、クリスチャンになりました。
 半年後若い先生夫妻は転勤となり、屋久島を後にしました。
 それから数年後、私が牧師となり教役者の集会に出席した時に再会してびっくりし、感謝しました。
 それからまた数年後、その方が誕生記念感謝の意味で思い出の屋久島に来られました。
 この時、記念集会の話が出て、「ぜひするように。」と勧められて準備に取り掛かりました。
 会堂の床が大分傷んでいましたので、話し合いの結果、張替えました。
 その後、素晴らしい神様の取り計らいを受ける事になりました。

no.55  35周年記念集会

 いろいろと大変な出来事がありましたが、主の恵みによって守られ祝福され、お留守番伝道の時に救われた方々もまだ健在でしたので、なんとかやり遂げなければと祈っている中で思いの中に浮かび上がったのは、宮之浦キリスト教会出身で愛知県で主の御用をされている上野先生御夫妻にお願いする事でした。
 快く引き受けて頂き、また一緒に信徒の皆さんも来て頂き準備にも加わって頂き、感謝な時を過ごす事が出来ました。
 集会には大勢の参加者があり、本当に感謝の時を持つ事が出来ました。
 大府神の家キリスト教会の信徒の方による賛美ゴスペル・賛美礼拝(踊り)は、当時屋久島では初めてでしたので大変恵まれました。
 この集会を行う事を勧めて下さった先生も大阪から再度来て頂き、素晴らしい交わりの時となりました。

no.56

 記念集会も無事に終わり、感謝な毎日を過ごしていました。
 以前の週報でも書いた事ですが、私達が伝道を始めた当初からおられた、横浜で洗礼を受けられた後屋久島に帰られ、私達と共にクリスチャン生活に励んでおられた鈴木姉妹が、平成14年11月に90歳で天に召されました。
 私をいつも励まし支えて頂いた方でした。
 歳をとっても体の調子が悪くても礼拝に出席され、喜んでおられた方でした。

no.57

 記念集会は、平成15年5月3〜5日の三日間、伝道集会も兼ねてさせて頂きました。
 宮之浦キリスト教会出身の方も来て頂き、トータルで40人程の方が来られました。
 愛知県大府市で牧会されている上野先生夫妻と信徒の方々も来られて、賛美礼拝(踊り)などがあり、大変祝福されました。
 また、この頃、屋久島は世界遺産の島として有名になり、多くの観光客が訪れるようになりました。その中にクリスチャンの方もおられ、教会に来られるようになりました。
 屋久島で唯一の教会として、その存在が重要な事を実感するようになりました。
 当時、毎年十人以上の方がみえています。感謝ですね。

no.58

 思い出を書いてみます。
 ワープロが出回った頃、私は大変喜びました。
 字がうまく書けないため、週報等もしていませんでした。
 ですから、早速買って練習しました。
 その頃からようやく週報を書いたら、鎌田姉が喜んで下さいました。
 しかし、少しするとパソコンになり、時代の流れが早くなっていきました。
 奈良の教会に行った時、その教会の兄弟にパソコンを無料で頂き、帰って来てまた最初から勉強でした。
 インターネットもこの頃から始まりました。
 感謝な事に私の子どもの友達が、宮之浦キリスト教会をインターネットに登録して下さいました。その方は屋久島を離れて行きましたが、教会のホームページをそのままにして頂いていたお陰で、今まで多くの方々がそのページを見て教会を訪れています。
 私は出来ませんでしたが、現在は教会に来られている兄弟が更新しています。良き助け手が与えられて感謝しています。
 インターネットを通して、教会の存在を知って来られる沢山の方々と、交わりが出来ることを感謝しています。

no.59

 教会の存在が大切な事。
 過去を振り返る時に、教会の存在が最も大切である事を思い知らされています。
 
 「二人でも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」マタイ18:20
 
 本当に小さな教会ですが、常に神様は様々な方々を送って下さいました。
 そのような方々が各地におられることを感謝します。
 教会は、神の国を紹介するこの地上で唯一の中継基地だと思います。
 その中で、キリストこそ最高のお方です。

 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
 するとイエスは彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
                        マタイ16:15−18

no.60

 牧師館の横の畑にある、ぶどうの木の由来

 宮崎のクリスチャンが、屋久島に観光に来ました。
 礼拝にも出席され、私も一緒に観光を楽しみました。
 帰る時、一つの約束をしました。
 私はその方にガジュツの種を送り、その方は私にぶどうの苗木を送って頂く、というものでした。
 待望の苗木が送られて来ました。その苗木が現在牧師館の隣の畑にあるぶどうの木です。
 育てる事は、全て一からの事でした。当時屋久島では、あまりぶどうの木は見かけませんでした。
 ぶどうの木は、聖書の御言葉にもよく出てきますので、興味がありました。

 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
                 ヨハネ 15:1−2

 この御言葉のとおりに、剪定が大切な事などいろいろと教えられています。
 ようやくなんとか実を結ぶ巨峰のぶどうです。

no.61  神様の造られた屋久島に吸い寄せられる姉妹

 10年ほど前に、この姉妹に出会いました。
 東京の教会に出席されている姉妹でした。
 それ以前も屋久島に来られていたようですが、私との出会いによって、その次の年から8月頃に来られて、礼拝に出席されています。教会に宿泊し、屋久島の山々や川を訪れ、海ではダイビングなどをして屋久島を満喫されています。
 屋久島に来られる度に逞しくなっています。
 東京では教会の幼稚園に勤めておられ、夏休みを利用して来られます。
 毎年屋久島でリフレッシュして、霊肉共に癒されて帰られる事を願って、交わりを深めています。
 ですから、宮之浦キリスト教会の雰囲気や信徒の方々の事もよく知っておられます。
 教会の歴史を少しは味わっておられるかもしれません。
 これからも毎年来られる事を私達は願っています。
 屋久島は素晴らしい所ですよ。皆さんも是非お出かけ下さい。

no.62  改めて救いと癒しに感謝

 前にも書きましたが、私のキリストとの出会いは、二十歳の頃に肺結核にかかり、夢も希望も無くなり、故郷に帰って来ました。
 そこで友達に誘われて教会に行きました。
 だんだん病状が悪くなっていく中で、「心からイエス・キリストを信じますので、救いと癒しの祈りをして下さい。」とお願いしました。
 その結果、今日の私があるのです。
 肺結核の怖さは、現在でも新聞などでよく目にします。
 あの時から今日まで守られ生かされている事を思い、本当に感謝しています。
 屋久島の宮之浦キリスト教会でずっと牧会させて頂いていますが、これも主の恵みとあわれみによるものです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれました。
                    Tコリント1:26−27

no.63

 東日本大震災の年からもう5年7ヶ月にもなりましたね。
 あの年の2月頃、私の事を少しご存じの方から相談を受けました。
 「自分は今、韓国の教会で小学生の日曜学校を受け持っています。かつて私は屋久島に行ったことがあり、韓国の子供たちにも見せたいと思っているのですが、宮之浦キリスト教会で宿泊させて頂くことは出来ないでしょうか?」というものでした。夏休みを利用して来たいとの事でした。
 私は喜んで、「ぜひ来られて素晴らしい体験なさって下さい。」と快諾しました。
 このような話し合いがあった後、大震災が起こってしまいました。
 その年の5月頃、その兄弟から連絡がありました。
 「せっかくの計画でしたが、父兄の方々と話し合った結果、今回は見合わせる事にしました。本当に申し訳ありません。しかし別のお願いがあります。私の知り合いの教会の青年部のリーダーに、『私たちが行きたいのでお願いして頂けないでしょうか?』と頼まれたのですが、よろしいでしょうか?」とおっしゃいましたので、私は「もちろん喜んでお迎えします。ことらこそよろしくお願いします。」と返事をしました。
 来られたのは、男女合わせて11人の青年たちでした。

no.64

 韓国の教会は、この宮之浦キリスト教会での伝道集会に関して青年たちの交通費・宿泊費などすべてバックアップしていました。
 五日間の滞在でした。
 向こうで全て準備してきていました。案内のチラシから横断幕まで持って来ていました。
 伝道集会の内容は次のようなものでした。
 まず賛美から始まって、韓国の伝統舞踊の扇の踊り、聖書をもとにした創作劇、韓国の民族衣装の試着体験、韓国料理の試食など、様々な事をあらかじめ計画され練習されて来ていました。
 青年たちの中に一人通訳が出来る姉妹がいて、私は大変助かりました。
 来られた当日、早速ビラ配りに出かけて行きました。
 宿泊は、男性陣は4人で会堂に泊まり、女性陣は7人で牧師館に泊まりました。
 朝・昼・夕の食事は、女性の方々が作って下さり、大変楽しいひと時でした。
 二日目の午前中は、会堂と牧師館の大掃除をして下さいました。午後はビラ配りで、三日目にいよいよ韓国の青年達による伝道集会が始まりました。
 近所の方々や大勢の方々が集まって、会堂は満員でした。
 はじまり。はじまり。

no.65

 いよいよ三日目の集会の日を迎えました。
 感謝な事に大勢の方々が参加され、教会は一杯になりました。
 祈り、賛美をして始まりました。
 扇舞踊は、韓国の伝統衣装を着て、見事な踊りが披露されました。
 創作劇は、聖書の内容をもとにしたもので、工夫されていて素晴らしい劇でした。神様を信じていない人が、どのようにして神様に立ち返ることができたか、という内容でした。
 そのあとは、互いに交わりながら、韓国の民族衣装の試着体験や韓国料理が振舞われ、来られた方々は大変喜んでおられました。
 四日目は、小型バスで私も一緒に屋久島観光に出かけました。まず屋久杉ランド線を上り、紀元杉を見学。昼食をとってから千尋の滝と大川の滝を見学し、西部林道を通って、ウミガメが上陸する砂浜を見て、それから宮之浦に帰り着いてから、宮之浦の湯の児温泉に私の車で3回に分けて連れて行き、入りました。
 五日目は台風の影響が出初めていましたので、朝の高速船で帰ることになり、互いにこの伝道旅行を感謝してお別れしました。

no.66

 宮之浦キリスト教会に長い間来られていた方々が召されて、天に帰って行かれましたので、私も少し休養していましたが、韓国の方々が行われた伝道集会によって新しい方々が来られたので、私の中に神様によるチャレンジが与えられました。
 「古いものは過ぎ去り見よ、すべてが新しくなった。新しい魂に、神様の御言葉を語り続けよ。神様は新しい魂を送って下さる。あなたののなすべきことは終わりではなく、もう少し働きなさい。」と神様が語りかけて下さいました。
 ですから教会の礼拝も今までと違って全く新しくなりました。
 礼拝賛美も新しくなりました。オルガン奏者もいませんでしたので、私が知っていて歌いやすいものから覚えて頂くようにしました。
 私は大変でしたが、皆さん喜んで下さり、小さな集まりですが付いて来て下さいました。
 感謝な事に、現在まで私一人だけで礼拝した事は一度もありませんでした。
 神様が今も新しい魂を送って下さっています。

no.67

 出会いは神様によって始まります。
 日頃、私は思いの中で、どのような人にもイエス・キリストの福音を聞いて欲しいと考えています。
 ある時、用事があり自分の郷里に行きました。
 そしてその日、神様の導きによって一人の女性の方を車に乗せてあげました。とても喜んで頂き、車の中で私の証しもさせて頂き、教会の案内もし、彼女の目的の場所で降ろして帰りました。
 ところが次の日、早速訪ねて来られました。
 彼女はマッサージ師で、屋久島のホテルにやって来たのですが、職場が合わなかったという事でした。
 他に良い職場がないか探している様子でしたので、「教会でよかったら。」と言って泊めてあげました。礼拝への出席を条件にしました。様々なことが重なり、結局一ヶ月ほどいました。
 その彼女がいた間に、彼女が私の証しを文章にしてトラクトを作り、それを配ったところ、それを見て教会に来られた方もいました。このトラクトは今でも私の証しとして用いています。
 彼女はそれから五ヶ月ほどホテルで働いて郷里に帰りました。
 良い出会いが与えられて感謝しています。

no.68

 2014年、新しい年を迎えました。
 毎年の事ですが、この年もせっかくこれからという時に、様々な事情で二人の方が宮之浦キリスト教会から出ていきました。喜んで来られていた求道者の方々でした。
 私はここで福音の種まきをしています。そしていつも神様に「新しい魂を送って下さい。」と祈っています。
 そしてこの年も感謝な事が起こりました。
 たしか2月頃だったと思いますが、一人の姉妹が私の所に来られて、「もしよろしかったらカレンダーを教会のどこかに貼って下さい。」とおっしゃいました。
 私は快く引き受け、その後教会の礼拝の話になり、「毎週日曜日十時から行っていますので、よかったら是非お越し下さい。」と誘いました。
 するとなんと次の週から来て下さいました。
 この方が、稲葉 公子 姉でした。
 東京の方で、屋久島の白子山という所に住んでおられる方でした。
 東京でも教会に行かれていて、真理を求めておられる方でした。
 自分が求めていたものがここにある事が分かり、毎週来られるようになりました。
 感謝。

no.69

 「二人か三人、私の名によって集まる所には主が共にいてくださる。」ことを実感しています。
 感謝なことに、それから彼女(稲葉公子姉妹)は喜んで遠い白子山から毎週礼拝に集うようになりました。
 誰でもそうですが、真理を求めていたのです。
 自分の求めていたものが、ここにある事を知って、共に恵みを分かち合っていきました。
 礼拝の雰囲気もさらに良くなり、皆さん感謝しながら共に励みました。
 そのような中で、彼女から「洗礼を受けたい。」という話があり、私は大変喜びました。
 私なりにいろいろと考えた結果、有明バイブルチャーチのレオ・ケイラー先生に洗礼式の司式をお願いしたところ、大変喜んで頂き来ていただく事になりました。
 10月に来て頂き、礼拝の御用もして頂いた後、教会の皆さんが見守る中、宮之浦川において執り行われました。最高の洗礼式でした。
 稲葉姉妹の友達も来て下さり、共に喜んでおられました。
 この洗礼を通して彼女の信仰はさらに深まり、洗礼後は聖書の学びも共に励み、この年は最高の年になりました。
 洗礼式にはケイラー先生の奥様も一緒に来られ、私たちをさらに励まして頂きました。

no.70 ワンコインランチ

 洗礼を受けられた稲葉姉妹は大変喜び、主の恵みを友人にも伝道し、時には友人を教会に連れて来られる事もありました。
 彼女のご主人は、牧畜業の社長さんだったそうです。しかし病のため二十年程前に亡くなったそうです。そのような経歴がありましたので、おもてなしの賜物がありました。それを教会において発揮されたので、教会はさらに恵まれました。
 彼女はいろいろと考えて、自分の家で、ひと月に一度、牧師を囲んでワンコインランチを始めました。四五人の方々が集まってくださいました。大好評で、その中で主イエス・キリストの恵みや救いを語りました。皆さん疑問や質問などいろいろな事を話されました。
 また出される料理が美味しくて、皆さん喜んでおられました。

no.71

 小さな教会ながらも、主の恵みによって、平成27年を迎えることになりました。
 振り返ってみますと、この年は本当に多くのクリスチャンの皆さんが宮之浦キリスト教会の礼拝に出席されました。
 2月には宮之浦出身で都会でイエス様を信じておられる金原君江姉妹、4月には薩摩川内市や鹿児島市内で伝道されている松本先生御夫妻。
 5月には口之永良部島の診療所に来られた久保先生御夫妻が、町の歓迎会に出席された後、教会の礼拝に出席されて、共に主の恵みを分かち合いました。そして、このあと口之永良部島に行かれてまもなくして、あの噴火に見舞われたのです。
 しかし、感謝な事にすべての方々が守られて、屋久島の宮之浦に避難して来られました。久保先生御夫妻も半年ほど宮之浦で生活なさいました。
 避難された方々の中に旅行中の青年がいたのですが、教会の稲葉姉妹も少し知っている方でしたので、教会に一ヶ月ほど泊めてあげて、主の恵みを聞かせてあげる事になりました。

no.72

 生駒聖書学校の榮 義之先生から突然電話を頂きました。
 先生は種子島の出身です。「私の教会員の方で熊本を拠点にラーメンを作る活動をされている方々が、口之永良部島の方々のラーメンを無料で振る舞う慰問のために屋久島に行くのでよろしくお願いします。とのことでした。
 六月の初めの事でした。種子島から日曜の朝到着され、ラーメンを作る準備があるため、その日の礼拝は八時と十時の二回に分けて行いました。
 口之永良部島を旅行中に噴火に遭い、教会に寝泊りしていた兄弟は、この二回の礼拝に出席されて、その日の午後の船で職場が与えられた鹿児島に行かれました。大変喜んでおられました。
 またラーメン会食は盛況のうちに終わり、私も恵みに預かりました。
 榮 義之先生の、漫画で描かれている無料の証しの冊子も配られました。
 良い伝道の証しの機会になりました。

no.73

 平成29年、明けましておめでとうございます。
今年も一口メモを通して、主イエス・キリストの恵みを少しでも分かち合えることを感謝します。
 今年は東京の長男の家族の家で新年を迎え、元旦礼拝は、千葉の西舟橋のスティーブン・ケイラー先生の教会にて恵みをいただいて帰りました。
 旅行中にも神様からいろいろな思いを与えられました。
 年齢を重ねてきますと、改めて今日健康が与えられ、生かされている事を感謝を持って過ごすことができる事を知り、また今年の教会目標の御言葉をこの一年毎日体験できることを確認できました。
 さて、ここからは一昨年の後半に思いを馳せて書いていきます。
 宮之浦地区の敬老会は、高齢者の数が増えたため、76歳からの入会となり、私も76歳になったので招待されました。近所の三人のお友達を車に乗せて、私にとって第1回目の敬老会に出席しました。
 感謝のひと時を過ごさせていただきました。
 そして、この年の最後はクリスマス礼拝でした。
 稲葉姉妹やお友達、小野クリスティンさんの家族やお友達など大勢の方々が来られて、すばらしい交わりのひと時を過ごしました。主イエス・キリストはなんとすばらしいお方でしょうか。

no.74

 平成28年がスタートしました。
 しかし、少し気がかりな事が私の心にありました。
 屋久島は離島なので、年をとって病気になった時、どうしても子供の所に行かなければなりません。
 この前の年は、近所の方で教会に来られていた江原さんが、4月に山口の長男の所に行かれました。
 また同じく近所の方で毎週教会に来られていた日高慶志さんも11月に奈良の娘さんの所に行かれました。
 このように、せっかく福音に接して喜んで教会に来られていても、離島ゆえに離れてしまうという悩みを抱えています。
 しかし、主の恵みを受けていますので福音を語り続けていきます。
 さて、この年、稲葉姉妹から相談がありました。
 前の年は、月に一度、牧師を囲んでワンコインランチを計画し、とても楽しい交わりをしました。
 この年は、このことと並行して水曜日に聖書の学びを彼女の家でしてください、という相談でした。
 もちろん喜んで引き受けました。近所のお友達のためでもありました。
 共に主の恵みに預かるための計画でした。

no.75

 毎年の事ですが、卒業・入学のシーズンがやって来ました。
 教会でも、3月に久保先生夫妻が、一年間の仕事を終えて埼玉の郷里に帰って行かれました。
 それから、金原姉妹も広島の方にしばらく帰ることになりました。
 出会いがあれば必ず別れがありますが、この体験は人生の中で繰り広げられていきますね。
 3月27日はイースターでした。毎年教会では今まで召された方々の信仰体験や思い出を語ることにしていて、家族の皆さんにも案内しています。
 金原姉妹はこの日の礼拝に出席されたあと、午後の高速船で帰られました。
 あとで分かった事ですが、私が姉妹を送る予定でしたが、代わりに稲葉姉妹が送って下さっていたのです。
 私たちにとって、まさかこれが稲葉姉妹との最後の別れになるとは思ってもいませんでした。
 稲葉姉妹は金原姉妹を港まで送り届けた後、わざわざ牧師館に寄って、「無事送ってきました。」と言って家に帰られました。

no.76

 私も眼鏡を買い替えるために鹿児島に出かけました。
 今まではずっと光学堂の眼鏡を使っていましたが、子供たちから井後眼科でも出来るということを聞きましたので、目の検査も兼ねて出かけました。
 大きな病院でした。目の検査は初めてでした。
 いよいよ診察を受けました。
 白内障であることが判りました。
 あまりにも予期していない事でしたので、びっくりしました。
 よく考えてからお願いしようと思い、その日はお礼を言って帰りました。
 私にとってはあまりにも突然の事でしたが、家族に話したら、「最近は手術でよく治る。」という話でした。
 私は、「家に帰ってよく吟味してからにしよう。」と思いました。
 このような出来事があり、4月1日に鹿児島から我が家に帰ることにしました。
 高速船に乗ってしばらくすると、携帯に電話がありました。
 稲葉姉妹の知り合いの方からでした。

no.77

 信じられない事が起こってしまいました。
 帰宅後すぐに稲葉姉妹の家に向かいました。
 稲葉姉妹の家の中には、近所の方々が大勢集まっていました。
 稲葉姉妹はインフルエンザに罹ってしまったという事でした。
 警察の方が来られて、近所の方々に事情を尋ねていました。
 夕方には徳洲会病院に運ばれて、検死が行われるという事でした。
 あまりにも突然の事でしたので、私もしばらく稲葉姉妹と親しくされていた友人の方にお話を伺いました。
 インフルエンザに罹っているので、家に入らないように言われていたそうです。
 稲葉姉妹の息子さんも、その日に駆けつけて来られて、大変ショックを受けておられました。なにしろ正月には屋久島に来られて親子水入らずで過ごされたばかりでしたから。
 召天式の準備をしなければならない事になりました。息子さんからも頼まれて、教会で行うことに決まりました。
 稲葉姉妹はかねてから教会の墓地も見て知っていました。

no.78

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
                        ローマ書8章28節

 稲葉姉妹の息子さんと会い、話し合いました。
 その結果、本人が望んでおられたように、教会で召天式を行うことになりました。
 さあ、これからが大変です。神様に祈りながら準備にとりかかりました。
 神様の御心を求めながら、一人では大変な事ですので、私のことも稲葉姉妹のこともよく知っておられる熊本の有明バイブルチャーチのレオ・ケイラー先生に電話してみました。感謝な事に、すぐ来ていただく事になりました。
 4月2日の夜、前夜式、3日(日曜日)に召天式と、いずれも神様の恵みの中で執り行うことが出来ました。
 また、稲葉姉妹の住んでおられた白子山の方々が全面的に協力して頂き、椅子なども持って来て頂きました。
 教会は人が入りきらないほどの状態でした。
 また前夜式の時に、稲葉姉妹の知り合いの音楽の先生が来られたので、召天式での奏楽をお願いしたところ、快く引き受けて下さり、最高の恵みを頂きました。
 このように、神様の恵みが随所に働かれて、教会での葬儀を通して地域の方々に対する素晴らしい証しとなりました。
 今年のイースターは4月16日です。
 この日に礼拝と記念会をします。

no.79

 告別式も無事終わり、交わりをしてから火葬場に行きました。
 その中で、稲葉姉妹の親族で東京から来られた方に稲葉姉妹の生前の証しを聞くことができ、主の御名をあがめました。素晴らしい証しをされていました。
 また、沢山のお友達の方々からも感謝の証しを聞くことが出来ました。
 また稲葉姉妹の住んでいた白子山の方々がたくさん来られて、色々な面で助けて頂きました。
 その日の最後は教会の墓地での納骨式でした。
 教会の墓地があることも、主の良い証しになりました。
 早いもので、あと2ヶ月で一年になりますが、稲葉姉妹の知り合いの方々が、墓地の場所を尋ねて、墓参りをされています。
 息子さんも感謝されていました。
 稲葉姉妹は今では天の御国に行き、すべてのことから解き放たれて喜んでいると、私は信じています。
 様々なところで素晴らしい証しをされていたことを知り、主の良き証人として生活されていた事を知ることができ、感謝でした。
 ケイラー先生御夫妻もとても喜んで頂き、感謝されながら帰られました。

no.80

 稲葉姉妹の召天式などのすべての事柄を終え、普段の生活に戻ることになりました。
 さて、今度は自分の事です。
 3月に目の検査をした結果、白内障になっていること判りました。
 色々と検討した結果、教会の皆さんにも報告し、6月に休みを頂き手術を行うことにしました。
 月曜日から金曜日までの5日間の入院でした。
 火曜日に右の目、木曜日に左の目を手術しました。
 手術の時間は、10分から20分ほどで痛みもなく、星空観察をしている感じでした。
 朝昼晩三度の食事が出て、最高な休養の時でした。
 費用も一割負担で、驚くほど安くで済みました。
 経過も良く、以前は遠近両用の眼鏡を使っていましたが、手術後は遠い所   は、 はっきりと見えるようになり、老眼鏡だけでよくなり、車の運転などがしやすくなりました。
 手術してよかったと、神様に感謝しています。

no.81

 夢を通して証された出来事について。
 昨年(2016年)の8月頃の思い出です。
 クリスチャンの姉妹と稲葉姉妹が住んでおられた家に行きました。
 家も周りの様子も以前と変わりなく、近所の方が見守っておられました。
 私はふと稲葉姉妹が一番愛しておられた姉妹の事を思い出し、訪ねてみました。
 感謝なことに家におられて、「会って色々な事を話したいと思っていました。」とおっしゃるので、しばらくお邪魔しました。
 稲葉姉妹の思い出話に花を咲かせている中で、その姉妹が自分が見た夢の話をされました。
 その夢の中に稲葉姉妹が出て来て、「私は素晴らしい所にいるから心配しないで。」と手を振って、すぐいなくなった、ということです。
 私は彼女に言いました。「稲葉姉妹は天国にいるから大丈夫。という夢だったのではないでしょうか?」と。
 彼女は納得されたようでした。

 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。
 もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
 なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。 黙示録21:4

no.82

 集団健康診断。
 どの町でもそうだと思いますが、屋久島町でも毎年、健康診断が行われます。
 私も昨年もその健康診断を受けました。
 八月頃、肺のレントゲン検査に関して、再検査の通知がありました。
 以前お世話になった鹿児島の病院がありましたので、そこに行き再検査を受けました。
 そこで判ったのは、五年前のレントゲン写真と比べて少し肺の影が大きくなっている事でした。しかし原因がよく分からず、鹿児島市立病院という大きな病院に紹介状を書いて頂き、そこでMPIという検査を受けました。
 こんなことは久しぶりの事でしたので、少し不安にもなりましたが、結果を待ちました。
 ところが、この検査でも原因が判りませんでした。
 私は若い時に結核にかかり、神様によって完全に癒されたという体験をしていますから、この年まで守られている事を感謝しながら家路に就きました。

no.83

 2016年を振り返ってみた時に、改めて神様の守りと、恵みと、福音が大切であるという事を思い知らされています。
 まず、いろいろな方との出会いと別れの中で、小さな島での伝道ですが、ひとりひとりの魂に神様の恵みを語ってくることが出来た事を感謝します。
 特に、「あなたの隣人を愛しなさい。」と聖書にありますが、この年は、教会にも何度か来られたお隣の中島さんのおじいさんが、三月に亡くなりました。稲葉姉妹も三月でした。
 近所の日高慶志さんも五月に奈良におられる娘さんの所で亡くなりました。
 また、同じく近所の江原ミドリさんは、山口の子供さんの所で施設に入院されています。
 この年は本当に命と死に関わりました。しかし、この方々にイエス様の救いの福音を語ることが出来、あとは神様に委ねることが出来、感謝しています。
 この年の最後は、新しく来られるようになった方々とクリスマスを迎え、喜びを分かち合いました。
 2017年は、4月16日がイースターです。
 記念会を計画しています。
 覚えてお祈り下さい。

no.84

 今年(2017年)の新年は、いろいろと考えた結果、東京から始める事にしました。
 長男夫婦の家にお世話になり、年末は千葉の木更津温泉にも連れて行ってもらいました。
 ゆっくり、リフレッシュしました。
 元旦礼拝は、千葉のスティーブン・ケイラー先生の教会からスタートしました。
 「神様に従順に従う時に、恵みを頂く。」というメッセージを聴き、感謝のひと時でした。
 実は、今年は私が宮之浦キリスト教会に遣わされてから、五十年になります。
 神様は、今日までこの教会を守り、祝福して下さいました。
 皆さん、一緒にこの事を感謝しましょう。
 昭和42年4月に、尾之間教会から、お留守番伝道に遣わされました。
 最初は3年間の約束でしたが、それが現在まで至っているのです。
 来週からその恵みを分かち合っていきます。

no.85  出会いは神様によって

 50周年記念礼拝をどのようにしたらいいか、神様に祈りつつ準備していました。
 そんな時、電話があり、素晴らしい知らせを頂きました。
 私達夫婦が、尾之間ペンテコステ教会で披露宴をして頂いたダビデ・アール・ブッシュ先生の娘さん夫婦が、屋久島に来られるというのです。
 以前から私が毎年一番会いたい方でした。
 今回それが実現したのです。
 しかも、4月1日(土曜日)に帰られる予定を変更して、この記念礼拝に出席されます。
 感謝ですね。御夫婦に証をお願いしたいと思っています。
 また、宮之浦教会に通訳ができるクリスティンさんがおられた事も本当に感謝です。
 ブッシュ先生から当時の写真を頂き、主によって素晴らしい出会いを与えて頂いたことを知り、さらに感謝しました。
 皆さん、この集会の出会いも神様によるものです。
 感謝をもって、神様の恵みを頂きましょう。

no.86

 五十周年記念礼拝は、神様が用意して下さったようでした。
 五十年ぶりに、ブッシュ宣教師の娘さんのリネット御夫妻を迎えて、感謝の中で礼拝を始めました。
 夫妻の証は、クリスティン姉妹の通訳によって知ることが出来ました。
 リネットさんが、ブッシュ宣教師に「屋久島に行きますよ。」と伝えると、大変喜んでおられたと、私に話して下さいました。また、「この度の訪問で頂いた恵みを持ち帰って、父に伝えます。」と言って下さいました。
 ブッシュ宣教師は、現在89歳になられ、病院に入院されているそうです。
 また、尾之間の竹下先生御夫妻も来られて、本当に感謝でした。

no.87

 本日(2017年4月16日)は、宮之浦キリスト教会で召された方々の信仰生活を皆さんと共に語り合い、故人の信仰を讃えたいと思います。先日は、昨年召された稲葉公子姉妹の息子さんと再会する事が出来、感謝でした。

no.88

 毎年、イースター(復活祭)礼拝は、主の恵みが溢れています。
 早いもので、稲葉公子姉妹が召されてからもう一年になります。
 今年(2017年)のイースター礼拝には、鎌田スミエ姉妹の息子さんの鎌田道隆先生夫妻や、稲葉姉妹の友人の方々も大勢来て下さり、本当に感謝でした。さらに初めて来られた方もいて、神様の恵みの福音を語らせて頂きました。
 屋久島に一つしかない教会として、改めて、この恵みを語っていく重責を担わせて頂いている事に気付かされました。
 礼拝後は、皆さんに自己紹介をして頂き、素晴らしい交わりの時を持つ事が出来ました。

no.89

   出会いの恵み
 過去の様々な出来事を思い出してみる時、私が一番印象に残っているのは、やはり人々との出会いの素晴らしさです。
 小さな教会ですが、神様はいろいろな人々を送って下さいました。
 この教会には、毎年新しく来られる方々がおられます。
 
 「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」 ヘブル13:2
 
 この事をこれからも覚えて、頑張っていきたいと思っています。

no.90

 五十周年記念集会を通して、改めて神様の素晴らしさを教えられました。
 一つ目は、私自身も神様の導きと計画の中に置かれていたという事。
 二つ目は、計り知れない愛の中に導かれた事。
 三つ目は、結婚も大きな出来事であったという事。
 四つ目は、お留守番伝道も神様の導きであったという事。
 五つ目は、神様の守りの中で、今に至ったという事。
 六つ目は、今日まで神様が新しい魂を送って下さっているという事。
 七つ目は、私自身が、まるで縄文杉のように、ここに植えられたという事。
 最後は、これから何をなすべきか、という事です。

no.91

 英語がわからない私にとって、大変幸運な事がありました。
 それは、私の教会にフィリピン出身で宮之浦に住んでおられ、英語が話せる小野姉妹がおられる事です。
 ですから、リネット姉妹にも大変喜んで頂くことが出来ました。
 リネット姉妹は、普段はハワイの教会に出席されていて、今回はご主人と共に屋久島に来られました。
 日本に来られる前に、屋久島を訪れることを父のブッシュ先生に話したら、とても喜んでおられたそうです。ブッシュ先生は高齢になり病院に入院されていますが、今回のことを大変喜ばれていて、先生が屋久島で伝道されていた当時の写真を頂きました。
 神様のなさることは、素晴らしいですね。

no.92

 5月7日の礼拝には、宮之浦キリスト教会出身で、現在は長野県に住んでおられる平田先生が仕事の関係で屋久島に来られていましたので、礼拝のメッセージをお願いしました。
 メッセージの御言葉は、ローマ書8章28節
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」
 彼の幼少から現在までの事を話され、また中国の故事や漢字と聖書とのとの関係について話されました。
 「人間万事塞翁が馬」
 あるとき、塞翁というおじいさんが飼っていた馬が何処かへいなくなってしまった。当時馬は貴重な財産であったので、塞翁は大変悲しんだ。しかし、しばらくするとその馬がもう一匹別の馬を連れて帰ってきた。そのことによって、塞翁が飼っていた馬たちは大いに増えた。

 「七転び八起き」 箴言24:16

 「親」 木の上に立って見ている。エデンの園での神様の姿から来ている。

 「裸」 エデンの園でアダムとエバが、神様が食べてはいけないと言われていた善悪を知る木の実を食べた時、自分たちが裸であることに気付き、自分たちの体をいちじくの葉で隠したところから来ている。

 国産の8人乗りの車「ノア」の名前の由来 ノアの方舟に乗り込んだノアの家族が全部で8人だったところから。

 「叶う」 イエス様の十字架に向かって、口で声を出して祈るところから。

 このようにたくさんの事を教えて頂き、主の恵みを頂きました。

no.93

 屋久島の田舎の田んぼをデジカメに収めました。
 屋久島には、昔、田んぼがたくさんありました。
 夏には家族みんなで刈り取りをし、大変な賑わいの中で収穫に励みました。
 
 屋久島の縄文杉は、今から50年前に発見されたそうです。
 このあいだ、屋久島高校で屋久島の観光についての話し合いやイベントが行われたそうです。
 自然を通してそれを造られた神様の偉大さを知ることは、素晴らしい恵みですね。
 私自身、こんなにも屋久島が知られるようになるとは思いもしませんでした。
 今年はどんな方々が教会に来られるか楽しみに、祈りつつ励んでいくつもりです。

no.94

 今週の週報の表紙の写真は、今年のイースター礼拝の後で皆さんと交わっている時の写真を載せました。集会後の様子が毎週このようになれば最高ですね。

 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にもにている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。  詩篇133:1−3

 神の国の交わりは、私たちが考えているよりももっと素晴らしい交わりだと信じます。

no.95

 先週は、私が40年間お世話になっている方を、お見舞いに行ってきました。
 だいぶ高齢になられている方で、一年ぶりにお会いしたのですが、大変喜んで下さいました。
 その方が入っておられるのは、大きな施設でしたが、その名前が私は大変気に入りました。
 施設の名前は、「エデンの園」でした。
 この訪問によって、かえって私のほうが励まされました。
 その方は、昔のことをよく覚えておられて、素晴らしい時間を過ごしました。
 日帰りでしたが、ついでに自分の用事も済ますことが出来ました。白内障の手術をして丁度一年になるので、診ていただいたのですが、問題なく綺麗に治っているとのことで、感謝でした。

no.96

 月日の経つのは早いですね。
 今年ももう半年が過ぎ去りました。
 皆さんはいかがお過ごしでしょうか?
 梅雨もまもなく明け、暑い夏が到来します。
 主の恵みを受けて、今年の後半も乗り切りましょう。
 七月・八月は、屋久島観光に来られる方々もおられるでしょうから、期待しつつ体に気をつけて頑張っていこうと思います。
 暑い夏を皆さんと一緒に乗り切りましょう。

no.97

 今週の週報の表紙の写真は、名古屋の信徒の方が縄文杉登山に行かれた道中で、預けた私のカメラで撮ってきて頂いたものです。
 道中で様々なものに出会い、撮ってきて頂いた写真ですが、すばらしいですね。
 屋久島の山の中には、まだまだ知られていないものが沢山あるのではないかと思わせられました。
 神様の造られたものは、すばらしいですね。

 詩篇91:14−16
 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
 彼がわたしを呼び求めれば、わたしは彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

 今月は、私にとって大変つらく苦しい月でした。
 3月から4月頃、右手に少し霜焼けのようなものができました。「暖かくなれば自然に治るだろう。」と思い、あまり気にしていませんでした。
 しかし良くならなかったので、屋久島の病院に行き、塗り薬をもらってきました。それでも良くならなかったので、もう一度行って別の薬をもらってきました。そして、3度目にはMRIを撮りました。首の神経が圧迫されているのが原因だと診断を受けました。
 鹿児島市内の病院の事を思い出し、先生に事情を説明して了解を頂き、早速日帰りで鹿児島の病院に行きました。

no.98

 鹿児島の病院で子供と一緒に検査結果について説明を受けました。
 「今の状態より悪くならなければ良いですが、悪くなれば手術しなければならない。」とのことでした。
 私は治ることを信じて家に帰りました。
 現在、自宅療養中です。
 今のところ、経過は良い方向に向かっています。
 皆さんに心配をかけてすみませんでした。

no.99

 今年の屋久島は猛暑続きです。
 7月は雨が降らなかったので、なお大変でした。
 台風も近づいて来ました。屋久島を少しそれて、雨をもたらしてくれたらと願っていました。ところがなんと屋久島を直撃し、3日間も風が吹き続きました。大変怖い思いをし、神様に祈りました。残念ながら8月6日の礼拝は出来ませんでした。毎年来られている姉妹も、楽しみにしていた礼拝出席が出来ず、残念がっていました。

no.100

 両手の少しのしびれが、なかなかとれなくて困っていましたが、ようやくとれてほっとしています。
 手先を使う仕事が出来なくなるのではないか、と心配していました。年を重ねると様々な病気に悩まされますね。
 しかし、そんな中で神様の恵みと憐れみを体験できるので、感謝しています。
 元来、自分は体が弱い者であることは自分なりに悟っていましたが、神様の守りと恵みによりこうして生かされている事を思い、感謝している所です。
 さて、一口メモも100回を迎えましたので、終わりとさせて頂きます。
 今、新しい企画を祈っている所です。