◆説教 「土の器」
2004年月日 聖日礼拝説教
コリントの信徒への手紙二、4章5節小松 理之牧師
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えていいます。」(コリント二、4.5)
神様がお造りになった私たちのことを、聖書は「土の器」として描きます。神様はその焼き物(器)の作者です。私たちは焼き物の土です。神様は土の塵(ちり)で最初の人、アダムを形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられました。人はこうして生命を与えられ、生きるものとなりました。
神様は、私たちがその器として主イエスに従い、み言葉に応えて働くことを、とても喜んでくださいます。焼き物は形ができたら乾燥させ、表面に模様が描かれ、上薬を塗って釜に入れて焼かれる過程を経て完成します。私たちも普段、外に出かけるときは、ちょうど焼き物の上薬や模様のように着飾ります。だんだん年を取るにつれて老いていくのは、生まれながらに十字架につけられているからです。どんな人でもいつかは死を迎え、土に還っていくのです。食事をしているときなど、たまに思わずコップや茶碗を落としてしまうと、欠けたり、割れたり、ひびが入ったりします。そのように、身も心もともに壊れやすい土くれだけれども、私たちは神様によって作られた大切な器なのです。
人間の弱さを知っているパウロに、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリント二12.9)と励ましました。その器に盛られた宝は、並はずれて偉大な神様の御力です。石ころからでもアブラハムの子たちを創り出すことができる無限の可能性を秘めています。悲しみが喜びに変わって、行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされないのです。
土の器のひびからこぼれ落ちながらも、パウロは命の水を運ぶ伝道旅行をしました。望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認していたからです。パウロは旅行中、苦労もし、年老いてもいきました。でも心の内側は日々新たにされて、死に打ち勝った復活のイエス様と共に、強く歩んでいったのです。パウロの言葉も宣教も、人の知恵によるものではなく、霊と信仰の力によるものでした。パウロは十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと決めました。私たちもイエス様から愛されて、自分自身をではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えて、愛の実を結んでいきたいのです。