ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年11月7日
2010年11月7日 主日礼拝説教
「神のみこころを行う」(マタイの福音書7章15節〜23節)
山上の説教は7章13節から7章の最後まで、山上の説教の結論の部分として、「神の国に入るには」というテーマでまとめられます。4つあります。最初は、広い門ではなく狭い門から入るように。2つは15節から、にせ預言者には気をつけるように。3つは21節から、神のみこころを行うように。4つは24節から、しっかりとした土台を据えるように、です。今日は、2と3を見ることにします。
狭い門から神の国に入るためには、にせ預言者たちに気をつけなければなりません。間違った導き手では、その門に入ることができなくなるかもしれないからです。
15にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
にせ預言者は、旧約聖書の時代にたびたび現れました。にせ預言者は預言者が活躍する時代に現れるのであって、預言者に反対することばを神からのことばと偽って語るのです。
イエス様が言われたにせ預言者とは、イエス様の教えに対して反対しているユダヤの律法学者、パリサイ人たちです。そして今は、聖書を神様からのことばであると信じている教会に対して、間違った教えを語る者たちのことです。イエス様はそのようの者たちに気をつけるようにと言われるのです。
「気をつけなさい」は、7節に出ました「求めなさい」と同じように現在命令形です。これは継続を表します。それで、いつも気をつけ続けなさいという意味になります。
彼らは「羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です」。羊は、イエス様に従っていこうとしている人たちのことです。その人たちの中に「羊のなりをして」(原文では羊の衣を着て)入りこむのです。表面的には、羊と区別できめせん。それが羊の群れの中にやって来るというのです。
彼らは「貪欲な狼」と呼ばれます。「貪欲」は、奪い取る、泥棒ということばから来ています。そのような狼がとうてい害を与えるとは思えない姿でやってきて、神のことばを使って羊を養うようなふりをし羊を襲います。そのような人々が教会を分裂に陥らせるのです。
パウロは、エペソの教会の長老にこのように注意を与えました。
使徒の働き20:29「私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。」
ヨハネも書きました。
ヨハネの手紙第1、4:1−2「1愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。2人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」
それではどうしたらよいのでしょうか。
16あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。
前半の「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます」は、20節と原文でも全く同じ文です。16節から20節までは、「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結ぶ」ことを語ります。その結んだ実によって、彼らがにせ預言者かどうかわかる、見分けなさいと言うのです。
「ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れない」ことは明らかでした。ぶどう、いちじくはイスラエルの地にできる良い実の代表的な果物です。いばら、あざみは、聖書では罪の結果、呪われた地に生じる植物とされています。それほど、実によってその木が良いか悪いか見分けることができるというのです。
にせ預言者が教えた聖書の教え、彼らの実際の生活、それらを聞き、それらを見れば、彼らがにせ預言者であることが明らかになってきます。まことの預言者は、悔い改めと十字架による救いを語り、狭い門から狭い道を歩むように導きます。どのように巧妙に隠そうとしても、間違った教えを語り、ふさわしくない歩みをしていたならば、彼らの本質が偽善であることが明らかにされ、彼らの正体を見分けることができるのです。
19良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
私たちは、そのようなにせ預言者を前にして、はたして見分けることができるでしょうか。イエス様は、私たち羊はまことの羊飼いの声を知っており、その声を見分けることができる、その力を持っていると言われました。
ヨハネの福音書10:4−5「4彼(羊飼い・イエス)は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。5しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」
21わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
「どのようにして神の国に入るのか」の3つ目、イエス様は神のみこころを行うようにと語ります。
「『主よ、主よ』と言う者」とは、口先だけで告白している人たちのことです。そうではなく、「父のみこころを行う者」が神の民であり、天の御国に入ることができるのです。
父のみこころ、神様のみこころとは、神様が立てた救いのご計画です。それは、人々を救い、神の国に招く計画です。そのためにイエス様が神様によってこの世に遣わされ、人々の罪の代わりに十字架で死ぬことによって、狭い門から入る救いの道を示してくださいました。その道を歩んでいけば、みな神様の民とされ、神様の御国に入れることができるのです。
ヨハネの福音書6:40「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」」
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
にせ預言者たちとそれに従っていた者たちの末路です。「その日」とは、イエス様がおいでになる最後のさばきの日のことです。彼らは、奇蹟を行ったことまで報告してイエス様に訴えます。しかし、イエス様の答えはこうでした。
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
にせ預言者は、イエス様が復活し、昇天してから、弟子たちによってイエス様のみわざが伝えられ、教会が出来上がっていくときに、多く現れました。にせ預言者から離れるように、正しい教えに立ち返るように、正しい歩みをするように、そう願って書かれたのが、いま聖書として残されている手紙です。
私たちは、この聖書に従って神様のみこころを行うことができます。それは、自分の弱さを知り、罪を悔い改め、イエス様に救っていただいたことを願い、信じ、神様に従っていくことです。
神様がそう望んでおられることを知り、私たちのために開いてくださった救いの方法に従おうとする人たちを神様は受け入れ、そのような人を神の国で「あなたを知っている」と言ってくださるのです。
ヨハネの福音書7:17「だれでも神のみこころを行おうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものかがわかります。」
ヨハネの手紙第1、2:17「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。」
私たちはこのようにされたことを感謝し、これからも、いつまでも神様のみこころに従って歩んでいきたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年11月7日