ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年11月21日
2010年11月21日 主日礼拝説教
「わたしの心だ。きよくなれ」(マタイの福音書8章1節〜4節)
山上の説教の学びが終わりました。これから8、9章と、イエス様がなさった10の奇蹟が続きます。
1イエスが山から降りて来られると、多くの群衆がイエスに従った。2すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
イエス様が山上の説教を終えて山を降りられました。そこにもたくさんの群衆が集まっていました。するとそこに、「ツァラアトに冒された人」がやってきました。原文では、「すると、見よ」という驚きのことばです。こんな人ごみの中に、「ツァラアトに冒された人」がまぎれこんできた。そういう感じです。
聖書で「らい病」と訳されてきたことばは、ヘブル語の原語をそのまま使って「ツァラアトに冒された人」と訳し直しました。「ツァラアト」とは、今日「ハンセン病」と言われている病気ではありません。さまざまな皮膚病、カビのようなものが生じる病です。ですから、家や衣類などがカビでぼろぼろになったものも「ツァラアト」と呼ばれました。
「ツァラアトに冒された人」たちの生活は大変でした。病気自体も悲惨でしたが、彼らは健康な人たちの交わりに入ることが許されませんでした。ツァラアトに冒された人は宗教的に汚れているということで、イスラエルの民たちから隔離され、礼拝にも参加できませんでした。
彼らは治ることが望めない病に冒されていただけでなく、ユダヤの教会・神殿から締め出され、社会からも受け入れられなかったのでした。彼らは、外出するときは「汚れている、汚れている」と叫び続けながら、自分の汚れがほかの人につかないようにしなければなりませんでした。
このような人がイエス様の前までやって来ました。このとき彼は、人々の目を恐れず、ただイエス様に会いたいという一心で、イエス様だけを求めて歩いて来ました。そこにいた人たちは、彼に石を投げつけるかもしれません。それでも近づいてきました。彼は、このお方が律法学者以上のお方であると信じていたからでした。
しかし、その信仰はイエス様以外に救いはないという思いでありましたが、求め方は謙遜であり、イエス様のみこころにゆだねるという思いに満ちていました。
ツァラアトに冒された人は、「お心一つで」と語りました。原文では、「もし、あなたがそれを望んでくだされば」です。そして続けて「私をきよくしていただけます」と願ったのでした。
彼は、イエス様が病をいやすことのできるお方であることを告白し、イエス様が病をいやしてくださると信じていました。しかも彼は、イエス様の「お心」であれば感謝。もしいやされなくても、それもまた主のお心。そのような信仰をもってイエス様に近づいたのでした。
3イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
イエス様は口を開く前に、即座に「手を伸ばして」ツァラアトの人に触られました。当時の教えでは、ツァラアトに触れるどころか、見るだけで汚れると教えられていました。そのようなツァラアトの人に、イエス様は手を伸ばして触られました。
だれとも交わりを断たれていたツァラアトの人に、イエス様は交わりの手を差し出してくださいました。イエス様のお心、望まれたことは、第1に交わりの回復でした。ツァラアトの人が最も望んでいたものも、神との交わり、人との交わりの回復でした。それをイエス様がご存じであったのでした。
群衆は、汚れてはいけないと遠巻きに立っていたことでしょう。でも、ただ一人、イエス様だけが手を伸ばし、その患部に触ってくださったのです。
そしてイエス様は、「わたしの心だ。きよくなれ」、原文で「私はそのように望む、あなたはきよくなれ」とおっしゃってくださいました。
罪に汚れており、神の前に出ることさえも禁止されていた者がきよめられて、神様の前に出ることができるようになることも、イエス様のお心でした。
イエス様のおことばどおり、直ちにツァラアトは消え、きよくなりました。
4イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」
イエス様は、「だれにも話さないようにしなさい」と言われました。イエス様は人々を罪から救うために、ご自分の身にすべての人々の罪を背負い、十字架で死ぬためにこの地上に生まれてくださいました。そのイエス様の時がまだ来ておらず、また人々の熱狂の中に巻き込まれないためでした。
イエス様は、きよめられた体を「祭司に見せなさい」と命じました。彼はただいやされただけではなく、そのことが公に証明され、社会に受け入れられる必要がありました。
「だれにも話してはいけない」と命じられたことはどうなったでしょうか。マルコとルカの福音書によれば、口止めをしてもイエス様のうわさはますます広がっていき、「あらゆる所から」人々がイエス様のもとにやってきたのでした。
ツァラアトの人は、イエス様のみこころを求めました。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」と言われました。これはまた、私たちの願いであり、イエス様の私たちへのことばであります。
ヨハネの福音書6:39−40「39わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。40事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」
私たちの罪や汚れに対して、それを赦したい、きよくしたいというイエス様のお心は無限です。イエス様は、私たちの罪を赦しを「わたしの心だ」とおっしゃってくださいます。私たちの罪が赦されることは、私たち以上にイエス様が望んでくださっているのです。
私たちは、きよい神様の目から見るならばみな罪に汚れた者です。とうてい神様の前に出ることができない者です。またこの汚れた自分、本当の姿を人目にさらすことのできない者です。イエス様は、この私たちの罪の汚れに触れてくださり、私たちの汚れを引き受けてくださいました。そして、このツァラアトの人の汚れも、私たちの罪と汚れも共に担ってゴルゴタの丘で十字架にかかってくださいました。
今日、私たちがイエス様に、「お心一つで、私はきよくしていただけます」と願うならば、イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ」とおっしゃって、私たちの罪を赦してくださるのです。主イエス様のお心が、私たちをきよくしてくださるために、イエス様は十字架にかかってくださいました。
私たちは、罪が赦されたことを覚えて共に感謝して歩みたいと思います。
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