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2010年11月28日 主日礼拝説教
「ただ、おことばを下さい」(マタイの福音書8章5節〜13節)
8章から始まった10の奇蹟の2つ目は、百人隊長のしもべの中風がいやされた奇蹟です。
5イエスがカペナウムに入られると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、6言った。「主よ。私のしもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいます。」
カペナウムは今までもたびたび出てきました。ガリラヤ湖のほとりにあって、イエス様の故郷でもあるガリラヤ地方の宣教活動の中心となった町です。イエス様がカペナウムの町に入って来られた時でした。そこに、「ひとりの百人隊長」がやって来ました。
「百人隊長」とはローマの軍隊の組織で、100人の兵隊を率いている指揮官です。彼は異邦人でした。その百人隊長の「しもべが中風で、家に寝ていて、ひどく苦しんでいた」のでした。
しもべは、百人隊長にとって大切な存在であったと思われます。「しもべ」の直訳は「子(若者)」です(欄外注参照)。彼はしもべではありましたが、百人隊長にとって大切な、それこそ自分の子どものような存在だったのでしょう。
百人隊長は、ちょうどカペナウムにやって来られたイエス様のことを聞きました。イエス様は病人をいやされるお方だ。イエス様にお願いすれば、しもべはきっと直る。しかし、しもべは病気で苦しんで動かせなかったので、イエス様のもとに連れて行くことができませんでした。
もう一つ問題がありました。百人隊長は、ユダヤの救い主として来られたお方に、異邦人である自分が直接お願いする資格がないと考えたのでした。それでルカの福音書7章3節を見ると、直接イエス様に会ったのではなく、「ユダヤ人の長老たち」に頼んでイエス様にお願いしたのでした。ですから百人隊長は、最初からイエス様に来ていただこうとは考えていませんでした。
7イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」8しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。
百人隊長は、イエス様が直そうと思ってくださるなら、おことばだけで直していただけると信じていました。百人隊長はイエス様に伝えました。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」
彼は、自分は異邦人でユダヤ教徒ではないから、イエス様に来ていただく資格がない。だからわざわざおいでいただくことはなさいませんようにと言うのです。イエス様の恵みをいただく価値がない、罪ある汚れた者であることを自覚していたのでした。
百人隊長は、イエス様があわれみ深いお方であり、病をいやしてくださるお方であることを信じていました。百人隊長は、続けてイエス様にこう話しました。「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
おことばを下さるだけで十分です。イエス様がいやすと言ってくだされば、私のしもべは必ずいやされます。
百人隊長は、イエス様の力、イエス様のおことばに対する信仰を持っていました。たとえイエス様が遠くにいらっしゃっても、病気に直れと命じれば、そのことばのとおりに直ると信じたのでした。
9と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします。」
百人隊長は軍人でした。彼は軍人として上官の命令のとおりに行動し、彼の部下も、彼の命令があれば、そのとおりにすることを知っていました。まして神様のお子でいらっしゃるイエス様なら、み思いのまま、直れと言えば直り、生きよと言えば生きるようにしてくださいます。百人隊長は、権威ある者のことばがどういうものか、身をもって知っていました。「イエス様、私はそう信じております」と彼は告白をしたのです。
10イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
イエス様は、百人隊長の信仰告白を聞いて驚かれました。ユダヤ人にも見られない立派な信仰だとほめてくださったのです。
13それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
はたして家に帰ってみると、イエス様のおことばどおり、百人隊長の「しもべ」の病はいやされていたのでした。
百人隊長が「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」と言い、主のみことばの権威を無条件に認め、その前にひれ伏しました。イエス様のおことばがあれば、それでしもべはいやされますという信仰です。イエス様は、「このような信仰を見たことがありません」とほめてくださいました。
百人隊長の信仰とはどんな信仰だったのでしょうか。彼は、ユダヤでは相当の地位と力がありました。しかも彼は、ルカの福音書を見ると、ユダヤの国民を愛し、ユダヤ人のために会堂を建てた人でした。その行いによって、イエス様の来ていただく資格があると考えてもよかったのです。しかし、彼は、自分の行いに頼ることをせず、むしろ自分は選びの外にある異邦人であること、救いを受けるに値しない者であることを告白したのです。
この謙遜な姿勢に加えて、イエス様が認めてくださったことは、百人隊長が見ないで信じる信仰を持っていたことでした。それが「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります」ということばでした。
私たちは、目で見ないうちはなかなか信じようとしない不信仰な時代に生きています。しかし信仰は、見ないで信じるからこそ信仰なのです。見ないで信じる。そして信じたとおりになっていく。それがイエス様の与えてくださる信仰です。
百人隊長のしもべがいやされた奇蹟は、イエス様の救いが異邦人にまで及ぶこと、そして救いは信仰によって与えられることを告げています。
11あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。12しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
私たちは、イエス様の時代から2000年以上もたち、イスラエルから遠く離れた異邦人です。そのような者たちも、天の御国では「アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに」と言われているように、イスラエルの父祖たちとともに、また「東からも西からも来て」とあるように、全世界から集められた人たちと共に、イエス様にお会いできるのです。
私たちは、神様のおことばの権威を信じて、百人隊長が与えられたのと同じように、見ないで信じる信仰を与えられています。
ペテロの手紙第1、1:8−9「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」
神のおことばには力があり、そのおことばによって私たちは救われます。それは、私たちにとって、この上ない大きな喜びです。神様が下さった信仰を喜び、神様のおことばの力を信じて、今週も一歩一歩歩んでいきたいと思います。
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