ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年12月12日
2010年12月12日 主日礼拝説教
「主イエスに従う道」(マタイの福音書8章18節〜22節)
8章から始まった10の奇蹟のうち、すでに3つを見ました。イエス様の回りには多くの群衆が集まっていました。病がいやされるというすばらしい奇蹟を見せられると、イエス様について行きたい、弟子になろうとする人たちが起こされても不思議ではありません。マタイは、イエス様に従うということとはどういうことかを取り上げます。
18さて、イエスは群衆が自分の回りにいるのをご覧になると、向こう岸に行くための用意をお命じになった。
イエス様は、ほかの町々にも神の国を伝えるためガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとされました。そこにイエス様に従っていきたいという律法学者がやってきました。
19そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」20すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」
まだ律法学者との決定的な対立がなかった初期のころです。律法学者の一人が「あなたの行く所どこにでもついてまいります」と、弟子になることを申し出ました。
ことばだけを聞くならば、一大決心をしての申し出であったように聞こえますが、そのあとのイエス様の答えを見る時に、その動機は楽観的であり、衝動的であったと思われます。イエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません」と語り、その覚悟でついてきなさい、あなたはそれができますかと問いかけたのです。
「人の子」とは、イエス様がご自分のことを指して言う時に使ったことばです。「人の子」は、イエス様が人となって来られたお方であることを表し、また旧約聖書では、「人の子」は天の御国の支配者、天からやって来られるお方という意味でも使われています。それでイエス様は、それらの意味をこめてご自分のことを「人の子」と呼ばれたのでした。
狐や空の鳥のように、どこに住んでいるかわからない自然界の動物でも、夜になれば帰る所があり、寝る所を持っています。人もそれぞれ、自分の「わが家」を持っていて、そこを「枕する所」としています。しかし、「人の子」であるイエス様には「枕する所」もありません。それでもあなたはついて来ますかと言うのです。
イエス様は文字どおり、いつも野宿されたわけではありません。行く町々で、休む場所を持っておられました。聖書を読んでいくと、カペナウムではペテロの家、ベタニヤではマルタとマリヤとラザロの3姉弟の家、エルサレムでは、マルコの母であるマリヤの家などで休まれたと思われます。
律法学者の「あなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります」という決意はすばらしいものでした。しかし、実際にイエス様に従って行く時に起こってくるであろう苦難や十字架が、この人には見えていなかったのでした。だれからも歓迎されず、十字架につくことは弟子たちからも理解されない歩みでした。
この人は、そのようなことを知ってか、あるいは覚悟をもって「ついて行く」と表明したのでしょうか。イエス様は、そのあやふやな点をついたのでした。
21また、別のひとりの弟子がイエスにこう言った。「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」22ところが、イエスは彼に言われた。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」
律法学者と違って、この人はすでに弟子となっている人でした。この人の願いは、しばらく弟子であることから離れて、「行って、私の父を葬ることを許してください」ということでした。気にかかっていることをすませて、何も心配がなくなったらイエス様に従っていきます、しかも本格的に従っていきますと願ったのです。
このとき父が死んだばかりであったのか、あるいは父親は高齢であったのか、ともかくその父親の葬儀が終わってからとの猶予願いでした。
ユダヤ人社会では、父を葬ることはどんなことよりにも大切な最重要課題でした。この人も、イエス様から「行きなさい、自分の当然の責任を果たし、それが終わってから従ってきなさい」という答えが返ってくると期待していたでしょう。
しかしイエス様の答えは、全く予期に反するものでした。「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」でした。「死人たち」が2つ出てきます。最初に出てくる「死人たち」は、「霊的に死んでいる人、神に無関心な人」を指し、次の死人たちは、文字どおりの死者です。死んだ人の後始末は、それら「霊的に死んでいる人」に任せなさいと言うのです。
それよりも、あなたにできることは何かを考え、それをしなさい。イエス様に従うことを優先させなさい。そして、生きている間に生きている人々のためにできる最善のことをしなさいと言ったのです。
そうでなければ、いつまでたっても次にすべきことが出てきてしまい、それを終えてから、それも大事だからと言って、肝心のイエス様に従っていくことが後回しになってしまうのです。
信仰は自分と神様との関係です。信仰を持つという決断は、自分と神様との個人的な関係であり、家族と相談したり、家族の反対でやめたりするものではありません。
それではイエス様は、家族を捨てて信仰をとるようにと教えているのでしょうか。使徒の働き16章に、パウロがピリピという町で牢屋に入れられたことが出てきます。夜中に地震が起き、パウロの鎖が解け、牢の扉があいてしまいました。パウロたちを見張っていた牢屋番は、パウロたちが逃げたと思って、責任をとって自害しようとしました。しかし牢屋番は、逃げずにいたパウロに驚き、パウロにどうすればよいか聞きました。そのときパウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(16:31)と語りました。パウロは、家族全体のことを考えたのです。
イエス様も、十字架にかかられ、死を前にして、自分の母親を弟子のヨハネに託しました。
聖書は、家族を大事にしなさい。「父母を敬え」ということを教えています。そのことを思って、教会では、毎週とりなしの祈りで、クリスチャンになった家族にも同じように神様の守りがあり、導いてくださるように祈っているのです。
信仰を持つということ、神様に従うこと、その決断に神様の時があるということです。私が牧師になって神様にお仕えしたいと願ったのは、50歳を過ぎてからでした。すぐに従わないで、60歳の定年を迎えてから神学校に入学したのであれば、いま大学で奮闘している真っ最中であり、ここにいなかったし、皆さまともお会いすることもなかったでしょう。その時に決断したことに、神様の時と導きを覚えます。
一人一人に神様は、その人に合った時と決断を用意してくださっています。そのように導かれていると確信できたならば、イエス様について行きたいと思ったならば、イエス様が「わたしについてきなさい」と声をかけてくださったのです。まっすぐ前に向かって歩み出してほしいと思うのです。神様は最善をなしてくださいます。
私たちは、神様が用意してくださっている「主イエスに従う道」をこれからも歩み続けたいと思います。
ゆりのきキリスト教会>テキスト>礼拝説教2010年12月12日