ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年1月9日


2011年1月9日 主日礼拝説教
「罪人を招くために来られた主イエス」(マタイの福音書9章9節〜13節)

■はじめに

 8章から始まったマタイがつづる10の奇蹟のうち6つが終わりました。屋根をはがしてまでも、イエス様のもとに来た中風の人の信仰、そしてその人を連れてきた人たちの信仰をイエス様はご覧になりました。イエス様は、中風の人に「あなたの罪は赦された」とおっしゃってくださいました。今日はその罪が赦され、イエス様の弟子となった人を取り上げます。その人は、この福音書を書いている取税人マタイ自身でした。

■取税人

9イエスは、そこを去って道を通りながら、収税所にすわっているマタイという人をご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

 前回と同じカペナウムの町で起こった出来事です。イエス様は「収税所」を通られました。交通の要衝にはこのような収税所、税金を集める場所がありました。ここカペナウムでは、マタイが収税所で、ガリラヤ地方に運び込まれる品々にかかる物品税、通行税を徴収する仕事をしていました。
 この時代、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていました。ローマに代わって税金の取り立てていたのが取税人と言われていた人でした。ローマに納める税金の額は決まっていたので、その額を納めさえすれば、実際に取税人が人々からいくら徴収しようがローマは関知しないところでした。
 ですから取税人は、決められたもの以上に取り立てるのが当たり前であり、結果、彼らは私腹を肥やし金持ちとなり、ユダヤ人から嫌われて、裏切り者、罪人と呼ばれていたのでした。
 そのような取税人の一人であったマタイが「収税所にすわって」仕事をしていました。そんなマタイの前に現れたのがイエス様でした。

■わたしについて来なさい

 この時、イエス様のほうから収税所におもむいてくださり、マタイを「ご覧になって」声をかけてくださいました。イエス様が弟子たちを召される時、イエス様が選び、目をとめ、「わたしについて来なさい」と声をかけるのです。これは、ギリシヤ語で継続的な意味を持った命令形です。「ずっとついてきなさい、従い続けなさい」という意味です。
 収税所には、仕事柄いろいろな人が出入りします。町で起こった出来事は何でも入ってきます。病をいやし、貧しい者の友となってくださるイエス様のこともそうであったでしょう。マタイは人々からさげすまれ、のけ者にされていました。マタイは収税所に座りながら、自分はこのままでいいのかと何度となく自問していたのではないでしょうか。
 そのようなマタイをイエス様のほうから呼んでくださいました。マタイは、イエス様から「わたしについて来なさい」と言われたとたん、自分がほしかったもの、自分がどうしたかったかがわかりました。

9すると彼は立ち上がって、イエスに従った。

 マタイはイエス様のひとことで立ち上がり従いました。「立ち上がる」ということばは、ギリシヤ語で「何かをするために決意をもって立ち上がる」という意味のことばです。
 もと取税人が別の職業に就くことは大変なことでした。また、もう一度取税人の職に戻ることもできなかったでしょう。そういう情況の中で、マタイはすべてを捨てて立ち上がったのでした。
 マタイはイエス様に従いました。「従う」ということばは同じ道を歩むという意味です。イエス様に呼ばれて「立ち上がった」人は、そのままイエス様の道をいっしょに歩いて行くのです。その道は決して平坦な道ばかりではありませんが、いつも主が共にいてくださり、力づけてくださり、励ましてくださって歩むことができるのです。

■パリサイ人の非難

10イエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

 イエス様にお会いし、声をかけていただいたマタイが主催する喜びと感謝の心を示す宴会でした。マタイは、そこに自分の同僚であった取税人仲間たちや、世間からつまはじきになっていた「罪人たち」を招きました。この宴会は、マタイがこれまでの取税人仲間に別れを告げる宴会であり、自分の身に起こったすばらしい出来事を友人たちに伝えるためでした。
 しかし、この宴会の様子を見て、つまずいた人たちがいました。「パリサイ人たち」です。彼らは、取税人や罪人とは決して食事を共にしなかったのです。彼らは、イエス様の弟子たちにそのことを言いました。

■罪人を招くために

 それに対して、イエス様は答えられました。

12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。13『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 イエス様は、ご自分を医者であると言われました。医者を必要とするのは病人です。丈夫な人は医者を必要としません。イエス様は、救いを必要とする罪人のために、その人をいやし、救うためにこの世に来てくださいました。
 救い主を必要としない人は一人もいないのですが、自分は正しいと思っている限り、救いの必要を感じられません。律法学者たちは、自分たちが救いを必要としている者たちであることを自覚できませんでした。
 イエス様は、旧約聖書のことばを引用されました。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」ホセア書6章6節です。パリサイ人に欠けていたのはあわれみの心でした。心のこもっていないいけにえ、どんなに整った供え物であっても、神様への心、忠実な心がないならば、神様への供え物はむなしいと言うのです。
 パリサイ人は、神が求めておられるあわれみの心を忘れ、供え物の規定はどうだとか、律法はこう教えているとか、異邦人、罪人と交際することはいけないなどの規則を作って、それに従うように教えていました。今、イエス様によって、ひとりの取税人が神様のあわれみを知り、イエス様に従っていこうとしていました。彼らはそれを喜ぼうとしないで、イエス様を非難したのでした。

■取税人マタイ

 このあとマタイはイエス様に従い通しマタイの福音書を書きました。取税人は嫌われていた職業でしたが、生半可な知識ではなれなかった仕事でした。その知識が福音書を書くことに生かされたのでした。
 マタイは自分のことを取税人マタイと紹介し、かつては皆がきらう罪人であったことを隠そうとしませんでした。マルコ、ルカの福音書では、マタイが取税人であったことがわからないようにか、「レビ」と記しています。
 このあと10章で12使徒の名前が出てきますが、そこでも自分のことを「取税人マタイ」と書きました。そう書くことによって、自分はそういうものであって、そこから救われたことをみなに証ししたのでした。
 パウロもこう言いました。

テモテへの手紙第1、1:15「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」

 パウロは救われる前パリサイ人であって、イエス様を信じる者たちを迫害して回っていました。そのようなさなか、彼はイエス様によって声をかけられ、救われたのでした。

■まことの医者

 私たちはみな、イエス・キリストというまことの医者を必要としていました。私たちはみな罪ある者であって、イエス・キリストというまことの救い主を必要としていました。主イエス様は、すべての人の友となってくださるお方です。イエス様はそのことのために来られたのでした。
 イエス様はまことの医者、まことの救い主となるために、罪を赦し、滅びから救ってくださるために、私たちの罪を負って十字架にかかってくださいました。そのことを信じる人はだれでも救われます。それが聖書の教え、イエス様の教えです。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
 イエス様はどんな心の傷も罪もいやしてくださいます。そしてイエス様は、どんな罪人も赦してくださいます。そのことを信じて、イエス様に従う者とされた私たちの喜びと感謝を、今日も主にささげたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年1月9日