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2011年1月16日 主日礼拝説教
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」(マタイの福音書9章14節〜17節)
前回は、取税人であったマタイがイエス様の弟子として召され、その後、感謝の宴会を開いたところまでを読みました。その宴会の場にいたパリサイ人たちが、イエス様のなさっていることに対して非難の声を浴びせました。「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか」と。それに対してイエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えられて、イエス様がそのような救いを必要としている取税人や罪人を招くために来られたことを語りました。
そこにバプテスマのヨハネの弟子がやってきました。バプテスマのヨハネは、イエス様が救い主としての活動を始める前、人々に間もなく救い主がやって来ることを伝えた預言者でした。この時バプテスマのヨハネはガリラヤのヘロデ王にとらわれていたので、残された弟子たちが独自の活動をしていたと思われます。
14するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
この宴会の日がちょうど断食の日であって、パリサイ人、ヨハネの弟子たちは断食をしていた(マルコ2:18)と思われます。ユダヤの教えでは、断食は罪を悲しみ、罪を悔いるしるしとして、また神様への熱心さを示すしるしとして行われていました。そのような大切な断食であるのに、どうしてイエス様は弟子たちに断食をさせないのかと疑問に思ったのでした。
イエス様はその問いに対して、どうして断食をしないかを結婚式のたとえをもって語られました。
15イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。
「花婿」とは主イエス様、「花婿につき添う友だち」とはイエス様の弟子たちのことです。当時のイスラエルでは、新郎の家に友人たちが招かれて結婚式が行われました。招かれた友人たちはご馳走を食べ、新郎新婦と喜びを共にしました。それが1週間も続くこともあったそうです。このような結婚式の最中に断食の日が来たとしても、花婿につき添う友だちが断食をしなかったのでした。
イエス様の弟子たちは断食をしませんでした。それは、イエス様といっしょにいる今の生活が婚礼の席にたとえられるような喜びであるからです。しかしこの喜びはいつまでも続きません。花婿であるイエス様が取り去られる時が来るのです。主イエス様が十字架にかかられる時に初めて、弟子たちは悲しんで断食をするというのです。
イエス様が共にいてくださる歩みは、悲しみが取り除かれる歩み、喜びに満ちあふれる歩みです。大切なことは、イエス様が共にいる時に断食を忘れ、喜んで感謝して歩むことです。
ヨハネの弟子たち、パリサイ人たちは、断食によって神様への信仰と感謝を表そうとしました。しかしイエス様は、イエス様との交わりの中でわき出てくる自由な思いで信仰と感謝と喜びを示しなさいと教えたのでした。
イエス様との交わりから出てくる生き方は、すべて自由で自発的なものです。それは今までの古い生き方とは違った生き方です。そのことをイエス様は2つのたとえ、1つは新しい着物と古い着物、もう1つは新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえをもって語られました。
16だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
古い着物の継ぎをするのに新しい布切れは使いません。古い布地は新しい布地に負けてしまうからです。新しい布によって古い着物の破れはさらに広がってしまい、繕ったつもりがかえって悪くなってしまいます。
イエス様の弟子たちに断食を要求することは、古い着物に新しい布切れで継ぎをするようなものでした。主イエス様と共に歩むという新しい生き方を知った弟子たちに断食を要求することは、古い着物に新しい布切れで継ぎをするように不釣り合いで愚かなことでした。
イエス様がもたらしてくださったものは、今までのユダヤの教えには収まらない新しい生き方でした。ああしなければいけない、こうしてはならない、こうでなければならないと数え切れないほどの決まりを作った教えが、今までの教え、古い教え、古い生き方でした。イエス様が与えてくださったものは、全く新しい自由な信仰生活でした。
イエス様は、新しい生き方は古い生き方と相容れないことを教える2つ目のたとえとして、新しいぶどう酒と古い皮袋のたとえを語られました。
17また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
ぶどう酒や水を蓄えておくために用いた皮袋は、羊や山羊の皮で作りました。その皮袋は長く使っていると弾力性を失い、固くなってしまいます。そのような古い皮袋に作ったばかりの新しいぶどう酒を入れると、新しいぶどう酒の発酵する圧力によって、弾力性を失った古い皮袋は裂けてしまいます。そうなったら、せっかく作った新しいぶどう酒も古い皮袋も、両方ともダメになってしまいます。
主イエス様が教えられた新しい教え、イエス様が示された新しい生き方は、今までパリサイ人たちが守ってきたものとは全く違うものであるばかりか、古い皮袋を突き破ってしまうほど力強く、いのちに満ちて喜ばしいものでした。イエス様に救われて新しくされた信仰は、はち切れるようないのちと、内側からわき出てくる力にあふれています。そして、そのような信仰には、新しい皮袋のように弾力性のある新しい生き方がふさわしいのです。
イエス様から新しいいのちをいただいて新しく生きることは、どこから出てくるのでしょうか。それは「花婿が彼らから取り去られる時」に明らかになりました。それはイエス様が十字架にかかられる時でした。イエス様は十字架で死なれ、3日目によみがえられました。イエス様が十字架で私たちの罪の代わりに死んでよみがえられたので、それを信じるすべての人に罪の赦しと新しいいのちが与えられました。
主イエス様はご自身を十字架につけて、私たちを罪から救ってくださいました。そのことを信じ受け入れることが私たちに与えられた信仰であり、新しい生き方です。神様が与えてくださった生き方は、古い生き方の仕立て直しや継ぎをあてるようなものでなく、また古い皮袋をいつまでも使うというようなものでなく、古い布切れや古い皮袋を捨ててしまう全く新しい生き方なのです。
信仰に生きることは新しい変化をもたらします。イエス様からいただいた新しいいのちは、新しい生き方の中で熟成していきます。新しいぶどう酒は新しい皮袋の中で発酵し、良い香りを放って、私たちに尽きることのない神様の愛を与え続けています。そして、その神様の愛からだれも引き離すことができないのです。
聖書はこのように、私たちに教えています。
ローマ人への手紙8:38−39「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」
私たちは、イエス様を信じることによって、罪ゆるされた者として神様に愛され、神様の愛に満たされた信仰生活を送ります。それが新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れる信仰生活です。そのような歩みを今週も共に歩みたいと思います。
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