ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年1月23日


2011年1月23日 主日礼拝説教
「少女は起き上がった」(マタイの福音書9章18節〜26節)

■はじめに

 8章から、イエス様が行われた10の奇蹟のうち6つを見てきました。6つ目の奇蹟は、寝床に寝かされたまま連れて来られた中風の人のいやしでした。そのあと取税人マタイがイエス様に呼ばれてイエス様の弟子となり、イエス様はマタイの家に招かれて、マタイの仲間の取税人、そのほか罪人と呼ばれている人たちと食事を共にされました。そこでパリサイ人たちから「なぜ取税人や罪人といっしょに食事をされるのですか」と問われ、バプテスマのヨハネの弟子たちからは「なぜイエス様の弟子は断食をしないのか」問われました。これらに対して、イエス様は「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」と答えられ、また「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません」と言われて、イエス様と共に歩む者たちは、古いユダヤの教えにとらわれることなく自由に生き生きとした信仰生活を送るように教えられました。
 さて、きょうはイエス様の奇蹟の7つ目になります。

■会堂管理者の家に

18イエスがこれらのことを話しておられると、見よ、ひとりの会堂管理者が来て、ひれ伏して言った。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」

 イエス様のところに「会堂管理者」がやってきました。名前は、マルコの福音書(5:22以下)、ルカの福音書(8:41以下)によるとヤイロと言います。会堂管理者とはユダヤ教の会堂にいて、礼拝の司式したり、聖書朗読者や説教者の指名などを行っていて、ユダヤ人社会にあっては人々から尊敬されている社会的地位のある人でした。
 このような人が罪人の仲間と見られていたイエス様のもとに来ることは大変なこと、また勇気のいることでした。その会堂管理者が群衆の前で、イエス様に「ひれ伏して言った」のです。「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」それは、マルコ、ルカの福音書によれば12歳になるひとり娘でした。
 「私の娘がいま死にました」とマタイは書きましたが、実際はイエス様がヤイロの家に行くと途中に亡くなったのでした。マタイはイエス様が少女を生き返らせた奇蹟を伝えたかったので、そのような経過を省略したからでした。
 ヤイロは最後の望みをイエス様にかけました。イエス様が来てくだされば、そして「娘の上に御手を置いて」くだされば娘は直ると思ったのです。
 これは、ヤイロのイエス様に対する信仰の始まりでした。その願いを聞いて、イエス様はヤイロの家に向かいました

19イエスが立って彼について行かれると、弟子たちもついて行った。

 ところが、イエス様がヤイロの家に向かう途中、12年も長血を患った女性がいやされるという出来事が起こりました。ヤイロにとっては一刻の猶予も許されない時に、イエス様は足を止められたのでした。

■ヤイロの娘が死んだ

 しかしこの出来事は、「死にかけている」ヤイロの娘にとって手後れの原因になりました。マルコの福音書ではこう書かれています。

マルコの福音書5:35「イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」」

 ヤイロの最後の望みも絶たれたと思いました。しかしイエス様は、そのままヤイロの家に向かいました。

23イエスはその管理者の家に来られて、笛吹く者たちや騒いでいる群衆を見て、24言われた。「あちらに行きなさい。その子は死んだのではない。眠っているのです。」すると、彼らはイエスをあざ笑った。

 イエス様が会堂管理者の家に着かれると、泣き叫んでいる人たちがいました。「笛吹く者たち」とは、葬儀に呼ばれて悲しみを表す人たちでした。イエス様は言われました。「その子は死んだのではない。眠っているのです。」イエス様は、死とはいずれ覚めるべきものとして語られました。死は眠りであり、再び目覚め、復活することを教えられたのです。しかし、人々はそうは受け止めず「イエスをあざ笑い」ました。確かに娘は死んだからです。

■少女は起き上がった

 イエス様は人々を外に出し、少女のいる所へ入って行かれました。

25イエスは群衆を外に出してから、うちにお入りになり、少女の手を取られた。すると少女は起き上がった。26このうわさはその地方全体に広まった。

 このときイエス様は、少女の手を取って「タリタ、クミ」と言われたとマルコの福音書には出ています。「少女よ。あなたに言う。起きなさい」という意味でした。
 「死んだのではない。眠っているのです」とおっしゃったイエス様のおことばは本当でした。「起きなさい」と言われて、死んでいた少女が生き返りました。生き返った少女のうわさは、その地方全体に広まったのでした。

■ただ信じなさい

 パリサイ人、律法学者たちの間では、イエス様はユダヤの教えの秩序を乱す危ない人物という見方がされ始めていたころでした。ヤイロは、そんなイエス様のもとへ行き、会堂管理者の職も危うくなるかもしれないことも顧みず、イエス様にとりすがったのでした。この時点で、ヤイロはイエス様への信仰へと飛び込んでいきました。
 しかし娘が死んでしまったと聞いた時、ヤイロの信仰が危うくなりました。というか、ヤイロは常識的な信仰に、これ以上は無理だという信仰にとどまったのでした。信仰者として徹底的に信じ続ける。求め続けるという、神様ならきっと何かしてくださるという信仰に立つことができなかったのでした。
 イエス様はヤイロに確かな信仰を与えようとされ、あえてヤイロの家に向かう途中、長血の女をいやしてくださいました。しかしヤイロにとって、長血の女は邪魔者でした。ヤイロのもとに娘の死が伝えられたとき、マルコ、ルカの福音書によると、「恐れないで、ただ信じなさい。信じていなさい」と、イエス様はヤイロに声をかけられ、崩れそうなヤイロの信仰を支えてくださいました。このことばでヤイロは、信じ続ける信仰によって立つことができました。私たちもきょう、「ただ信ぜよ」ということばをいただきたいと思います。

■死んだのではない。眠っているのです

 もうひとつ、「その子は死んだのではない。眠っているのです」というイエス様のおことばを見ましょう。ヤイロの娘は、このおことばのとおり起き上がりました。イエス様は、ヨハネの福音書11章で、ラザロが死んだ時に姉妹のマルタに言われました。

ヨハネの福音書11:25−25「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 イエス様は、このおことばどおり、ラザロを生かし、ヤイロの娘を生かし、そしてご自身も死からよみがえられました。イエス様は、死の眠りから目覚めさせてくださるお方です。それは、イエス様が来られる時、終わりの時に起こる復活を待たなければなりませんが、その永遠のいのち、復活のいのちに生きる喜びは、信じた時に一部が与えられ、味わうことができるのです。それは、ひとりひとりがイエス様を信じてから与えられる恵みなのです。
 イエス様は私たちの罪を負い、十字架にかかられ、3日目に復活されました。イエス様を信じる私たちにとって、死は終わりではなく、しばしの「眠り」なのです。
 イエス様はヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。そして、「その子は死んだのではない。眠っているのです」「わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と言われました。
 このイエス様のおことばをいただいて、今週も共に歩みたいと思います。


ゆりのきキリスト教会テキスト礼拝説教2011年1月23日