御言葉の飢饉 |
「主なる神は言われる、「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、
水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へさまよい歩き、
主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。
その日には美しいおとめも、若い男もかわきのために気を失う。」 −アモス8:11〜13−
言葉の意味
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* 日が来る:定められた日、世の終わり、再臨の時
* 饑饉:真理の御言葉を聞かないために例と魂が餓える
* 国に送る:イスラエル、その国民、教会、教会の群れに起る
* パンの飢饉:真理の御言葉の飢饉
* 渇く:真理の御言葉(命の水)が聞けなくなる
本文の意味
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本文の内容は旧約聖書の中に記されている御言葉です。この御言葉は、世の終わり、すなわち
再臨の時に起る状態を示しています。その時には、神様は天を閉ざして雨(御言葉)を降らせない
ように
すると語られています。その結果として起る状態が、すなわち御言葉の飢饉です。
これらが起ることは、神様の摂理であり、計画であります。更に言えば世の終わりに成し
遂げようとする
神様の筋書きです。神様はご計画に従ってかならず御旨を実行されます。たとえ
如何に多くの教会が、又、信じる群れがあるとしても比喩で語られた御言葉の奥義の意味を
悟らなければ御言葉の飢饉によって霊的渇きを招くようになることを知らなければなりません。
そして霊的な飢死状態に陥っても、それさえも気がつかなくなってしまう恐れがあります。
今日の教会や我々信じる者はこの事実をどれほど認識し、或いは憂慮して御言葉の学びに取り
組んでいるでしょうか?イエス様は言われました。「あなたがたがわたしに向かって
「『主よ、
主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、
はいるのである。」(マタイ7:21)。
「御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。
かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、値なしにそれを受けるがよい。」
−黙示録22:17−
イエス様が再び来る目的は何でしょうか?霊的な飢饉にあって死に行く
魂に、命の泉を掘って、
飢饉と渇きを覚えて苦しむ魂に飲ませるために再び来られるのではないでしょうか?
※あなたはどう思いますか?※
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1. なぜ世の終わりになると神様は地に飢饉を送るのでしょうか?(イザヤ5:1〜7)
2. あなたは飢饉に遭わないと思いますか?(マタイ24:37〜39)
3.黙示録22:17節の命の水を飲まなくても天国にいけるでしょうか?
4. この命の水はどこにあるのでしょうか?また、どのように飲むのでしょうか?
あなたは知らないままでいいですか?