今日の穴は明日の祝福 |
序論:聖書には「穴」にまつわる様々な記述がなされています。パレスチナ地方は降水量が少ないため、雨水を貯めておくための穴があちらこちらに掘られていました。穴の利用法は貯水の目的の他に、ぶどう酒の保存の為にも使われていました。一般的な穴の深さは大人の背丈の3〜4倍におよびます。当然、人や獣が穴に落ちる事故も多かった事でしょう。また、人々によって穴に落とされる事もあったと思います。 聖書の中に出て来る「穴」は、苦難の象徴、試練の象徴として表されているのを知る事が出来ます。旧約聖書を読むと、詩篇やイザヤ、エレミヤ書の中に、絶望的な状況を「穴」になぞらえ、神様に助けを求めています。「主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。」(詩篇40:2、88:6)。新約においても、イエス様が「盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」と「穴」を引用して語られています。(マタイ15:14)。 私たちの人生にも様々な「穴」があります。どんなに賢く生きても、それらの穴を完全に避けて通る事はできません。十分に気をつけて歩んでいると思っても、どこに穴があって、いつ陥るかは誰も分からないからです。誰しも一度二度は穴に落ちる経験をするものです。学生としての穴、仕事上の穴、或いは親として、子どもとして、それぞれの人々が自分にとっての「穴」があるでしょう。そのような穴に陥った時、そこで終わりになる人もいれば、その穴から引きあげられる人もいます。 聖書に登場する数多くの信仰の先立ちも、様々な穴に入れられています。しかし、その穴から引き上げられた人々も多くいます。神様が私たちの人生の歩みの中に様々な「穴」を備えておくのは、私たちを苦しませて滅ぼすためなのでありません。神様は、その穴の中で私たちが何を求め、何に委ね、それらの状況を如何に祝福に変えてゆくべきであるか、ということを教える為に、それらの穴を備えておかれるのです。 神様は、今日私たちに、この「穴」を通して大切な神様の御旨を知らせて下さいます。この「穴」に示されている神様の御心とは何でしょうか。今日は、聖書に登場する三人の人物を通して、穴の中から明日の祝福を受けた次第を調べ、私たちも明日の祝福に与るよう御言葉に耳を傾けたいと思います。 1.ヨセフの穴. 創世記37章には、父ヤコブの愛情を一身に受けたヨセフについて記録されています。多くの兄弟の中で、ヤコブは特にヨセフに愛情を注いでいます。それは、ヤコブがヨセフにだけ長袖の着物を着させたことからも明らかです(創世記37:3)。ヨセフは常に父ヤコブの傍で過ごしていました。そして兄たちの素行の悪さを見つけては、父に言いつけていました。そんなヨセフが兄たちの反感を買わない訳がありません。 平素からヨセフを憎んでいた兄たちは、父の使いで兄たちのもとにやって来たヨセフを捕まえ、荒野の穴に入れてしまいました。そこに折悪く通りかかったミデヤン人の隊商に兄たちによって売り渡され、ヨセフは奴隷としてエジプトの地へと連れ去られてしまいました。 エジプトに着いたヨセフは、パロの役人である侍衛長ポテパルに買われました。奴隷の身となってポテパルの家に仕えていたヨセフでしたが、彼の誠実な働きが主人の目に留まり、その家の管理責任者として立てられました。ところがホッとしたのもつかの間、更なる試練がヨセフをおそいました。 ポテパルの妻がヨセフを色仕掛けで誘惑してきたのです。ヨセフは、良心に従って断固誘惑を拒否しましたが、自分のいいなりにならない事に腹を立てたポテパルの妻によって姦淫罪の濡衣を着せられて、主人に対する反逆のかどで、またも穴の中へ(牢獄)と入れられてしまいました。 まさに、ヨセフの半生は、穴の中、閉じ込められた闇の中での生活でした。このような穴をどのようにたとえる事ができるでしょう。それは、嫉妬、争い、憎しみ、妬み、背信、痛みなど、人間としての苦しみがすべて含まれている穴でした。 しかし、ヨセフの心の中には明日への希望がつねにありました。彼は、穴のどん底にあっても一筋の光を見ていました。その光とは、アブラハムの神、イサクの神、そして父ヤコブの神に対する信仰です。穴の中で彼は、自分に苦しみをもたらした兄たちを恨む事も、憎む事もありませんでした。そして神様に対するつぶやきもなく、ただ置かれた状況の中で誠実を尽くしたのです。 その結果、ヨセフは穴から引き上げられ、エジプトの王に次ぐ地位にあげられました。そして、やがて父ヤコブを含む、すべての親族を救うことになりました。それだけではありません。ヨセフは、穴のようなこの世から人類を引き上げたイエス・キリストの血統につながれる大いなる祝福を受け、また、イエス様のシンボルとして聖書に描かれるに至ったのです。 私たちも時としてヨセフのように争い、憎しみ、妬み、裏切り、策略という穴に陥る事があるでしょう。しかし、油と水が決して融合しないように、私たちが周りから何と言われ、どう思われようとも、彼らと同じ思いでむかえなければ、後にはヨセフのように神様によって用いられる事になるのです。何故ヨセフが引き上げられたのか、何故ヨセフが穴から救われたのでしょうか。それは「穴」のような思いを兄弟にたちに対して一切持っていなかったからです。少しでも憎しみがあったならヨセフは引き上げられる事はなかったでしょう。 2.ダニエルの穴 バビロンに捕虜として囚われたダニエルは知恵と知識と聡明さに満ち溢れる人でした。そのダニエルに敵対心を持っていた二人の総監は、どうにかしてダニエルを抹殺しようと策略を巡らし、王をそそのかして禁令を布告させる事に成功しました。それは、今から後30日間は、王以外の何ものに対しても願い事をしてはならない、もし、これをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れる、というものでした。(ダニエル6:3〜5)。 ところがダニエルは、その文書が王によって署名されたことを知った後も、彼の神様に対する信仰を曲げる事はしませんでした。ダニエル書に、「彼は家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で,以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。」と記されているように、彼の神様に対するまったき信頼を読取る事が出来ます。(ダニエル6:10) そのように、まったき信仰を表明したダニエルでしたが、獅子の穴に入れられる事は回避出来ませんでした。ダニエルを救おうと心を用い、懸命に努めた王も彼を救い出す事は出来ませんでした。万事休す、あわや獅子の餌食に!と思われたその時、神様の御わざが起りました。神様はその穴の中に御使いを送り、獅子の口を塞いだのです。ダニエルの信仰は、穴の中に入れられても変わることはありませんでした。神様に対する終始一貫した信頼を彼は持っていたのです。 ダニエルの「穴」は、唯一の神様に対する信仰の決断を迫る「穴」です。周りの状況や環境に左右されない信仰が試される「穴」です。ダニエルは、「私のほかには何者にも仕えず、犠牲をささげてはいけない」といわれた神様の戒めを守り通しました。このように、ダニエルの穴は信仰の貞操を象徴しています。私たちも時として、このような「穴」に陥ることはないでしょうか。その穴は、至る所に存在します。それは普段の生活の中で心の偶像や肉の偶像として表れます。 ダニエルが信仰の貞操を守った時、神様は彼を穴の中から救い出し,大いなる祝福をお与えになりました。私たちも、自分自身の中から偶像を完全に取り除き、今日の穴の中から、明日の祝福を手にすることが出来ますように。
3.エレミヤの穴 エレミヤはベニヤミンの地、アナトテの祭司の一人であるヒルキヤの子どもとして、母の胎にいるうちに召命を受けました(エレミヤ1:5)。今の時代であれば、牧師の息子のような存在です。彼は一生涯を独身で預言者としての道を歩みました。エレミヤは、涙の預言者と呼ばれています。(エレミヤ16:2)。 エレミヤは、主前(BC)627年〜(20歳)(BC)538年まで遣わされ、ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤなど5人の王に仕えました。そのようなエレミヤが穴に投げ入れられたのはなぜでしょうか?それは、彼がゼデキヤ王にバビロンに降伏するよう神様の命令を伝えたからです(エレミヤ39:17〜19)。たとえ神様からの命令とはいえ、王の意に反する命令を語ったエレミヤに王が怒りを発し、穴に投げ入れたのです。 エレミヤは、、穴に入れられはしましたが、明日への希望を失う事はありませんでした。そして彼はやがて穴から引き上げられ、自由の身となりました。エレミヤの穴は、どのような穴だったのでしょうか。それは、国とイスラエルの民を愛するゆえに受けた艱難という穴でした。 私たちも、ある時は兄弟姉妹を愛する故に、神の国を愛する故に、また神様によって立てられた教会を愛する故に穴の中に陥るときもあります。しかし、その愛を失う事がなければ,必ず希望の日が訪れるのです。 私たちの人生の道程において、ヨセフの穴やダニエルの穴,そしてエレミヤの穴に陥る時があるかも知れません。その時、私たちはヨセフのように、ダニエルのように、エレミヤのように、神様に対する一筋の信仰を持って乗り越えるならば、その穴が祝福へと変るのです。 しかし、妬みや憎しみという穴に陥った時、彼らと同じような思いを持つならば,私たちは決してその穴から引き上げられる事は出来ないでしょう。私たちは、ヨセフや、ダニエル、そしてエレミヤのように、神様の恵みの中で、自分自身の穴場を祝福に変える必要があります。
結論:今日の穴の中には、明日私たちに与えられる神様からの祝福があります。祝福をもたらせる神様の約束があります。聖書の中で神様の約束は、新約におおよそ1100回、旧約に7700回記されています。合わせると8800もの約束をされている事になります。神様は人のように約束をたがえる事は決してありません。たとえ今日、私たちが穴に落ちたとしても、明日、祝福をもたらせる神様を最後まで信じて待ち望みましょう。ヨブ記33:28〜30節の御言葉にあるように、神様によって穴から引き上げられ、祝福を受ける皆様でありますように、主の御名によって祝福します。
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