イエス様の慈しみと憐れみを見習おう |
序論:慈悲と言は、「愛し憐れむ心」を言います。また慈しむとは、「悲惨な状態にある者を憐れんで助けること」を意味します。聖書を読むと、イエス様の御心を示す三つの表現が記されています。それは、「憐れむ」、「かわいそうに思う」、「慈しむ」です。イエス様は人々の事情をすべて理解しておられ、慈悲と憐れみを示されたのです。では、イエス様はどのような人々を憐れまれたのでしょうか。 1. 真の道を失ってさ迷う人々を憐れまれた。 共観福音書を読むと、イエス様が、御自分を慕い求めて集まるすべての人々に対し、豊かな愛を持って接しておられたお方であることが分かります。イエス様の口から語られる命の御言葉を求めて集まって来る群衆に、食事する暇もなく御言葉を解き明かされたのです(マルコ3:20)。様々な霊肉の病や、問題の解決を求めてイエス様のもとに来る人々をすべて受け入れて、それぞれの必要に応えられました。病いに苦しむ者には癒しを、悩む者には慰めと励ましを与えられました(マタイ12:15、19:2)。 イエス様の生活は、夜明けから夜おそくまで少しも休む間もなく群れと共にありました。ある日、よほど休息を取りたかったのか、船に乗ってしずかなところへ向かわれました。ところが、イエス様が船に乗って去られたのを知った群衆は、先回りしてイエス様が到着するより早くその場所に行き、主を待っていました。そのような彼らの様子をご覧になったイエス様は、飼う者のない羊のような群衆をごらんになり、彼らを憐れまれたのです。 そこでイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。」と言われました(ヨハネ14:6)。神様の御言葉を慕う者、奇蹟を必要とする者に、先ずイエス様は、憐れみ慈しみの心を抱かれ、そして、彼らに御言葉を与えられたのです。イエス様の宣教活動は、常に、迷う人々を憐れみ、かわいそうに思い、命の御言葉によって人生の正しい方向と道を提示する方法でした。私たちもこのイエス様にならって、憐れみと慈しみの心で人々に接するべきではないでしょうか。そのような人こそ、神様の慈悲と憐れみの祝福を受けるのです。 2. 希望を失い悲しみの中で生きる霊魂をかえりみられた。
これは、「希望」を失った人々に再び希望を与えられた奇蹟の出来事です。このイエス様が、今日私たちのところに御言葉となって訪ねてこられ、悲しみに沈んでいる者に「泣かないで」と御声をかけて、新しい希望を与えて下さるのです。 この、やもめの息子を生かした出来事を見る時、イエス様の慈しみと憐れみこそ、すべての問題解決の本質であることが分かります。イエス様が憐れまれ、慈しむ心を持たれた時、奇蹟が起き、問題解決の祝福が与えられるのです。私たちも、そのような憐れみと慈しみに与る者となりたくはありませんか?その為には、私たち自身もイエス様のような、憐れみと慈しみの心を抱く必要があります。 十字架の上で私たちの罪を贖って下さったイエス様は、贖いを受けた私たちが、イエス様と同じように隣人に愛を施す者となることを心から願っておられました。イエス様は山上の垂訓で、あわれみ深い人の祝福について説かれましたす(マタイ5:7)。内容を要約すると「慈悲を施す者はすべてのことに栄えるようになる」というものです。しかし、「あわれみを行わなかった者」は仮借のないさばきを受けることになります(ヤコブ2:13)。 使徒パウロはクリスチャンが抱かなければならない心をまとめて次のように語っています。「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ 4:32)。
3. 心に傷を負い苦しむ人を見て涙を流された。 ルカによる福音書10章に記されている良きサマリア人のたとえは、イエス様の慈しみと慈悲の御心をよく表しています。苦しみを受ける人、痛みを覚える人に憐れみの心を持って近づいて彼らを抱き、必要を満たしてあげることが、真の隣人です。そのような心と行いが、憐れみを持つ者のあるべき姿であり、神様の御心を行う者としての生き方です。 まさにイエス様は、身体的、精神的に悩み苦しむ者の隣人となって下さいました。彼らを悩むままに捨ておくことを決してなさらなかったのです。そのようなイエス様の憐れみの心は、マタイによる福音書18章に記されている「主人」と、「一万タラントの負債がある者」との間でなされた「赦し」を通して明確に表されています。 一万タラントという額は、個人の力で到底返すことができない大金です。この負債は、人間の力で解決することができない罪悪の分量を意味します。主人は、何の代償もなしに、ただ一方的な憐れみによって、負債に苦しむ者のすべての借金を帳消しにしてくださいました。このことは、神様が憐れみによって私たちの罪をすべて十字架上で帳消しにし、赦してくださったことを表しているのです。 遂に借金の圧迫と苦痛から解放された者の心はいかばかりだったことでしょうか。天にも昇る心地とは、まさにこの時の彼の気持ちを表す言葉でしょう。主人は、一万タラントものを借金を帳消しにされた者が、主人が行ったのと同じように、愛と慈しみと憐れみの心で赦しを施すことを願いました(マタイ18:35)。しかし、彼は主人の望まれたようにすることが出来ず、結果、自ら不幸を招くこととなってしまいました。 神様から愛され、受けたその恵みを施し、人を理解して憐れみを示すこと、これが神様の御言葉を受けた者としての使命であり、真の聖徒の心です。 ヨセフは兄弟たちの悪事を善に変えて施し、すべてを赦した真の憐れみ深い人でした(創世記45:8、50:19〜21)。彼は、神様から受けた愛と慈悲と憐れみによって、恨みも憎しみもすべて水に流す事ができました。私たちも、ヨセフのように、イエス様の憐れみを受けた者として、深い愛と同情をもって隣人に接する時、栄えの恵みに与ることが出来るのです。 結論:闇の中にさまよう人々に、希望を失って悲しむ人々に、負い目を持って苦しむ人々に対し、憐れみと慈しみを施される皆様お一人ひとりに、神様の祝福が豊かに臨みますように、主の御名によってお祈りします。
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