「最後の審判」マラキ3:19-24
キリスト者のゴールは、自己満足や自己実現ではありません。キリストによる最後の審判です。この審判はキリストが裁判官となり、すべての者を集め、ある者を救いへ、ある者を滅ぼすという厳しい裁きです。この裁きは旧約聖書において何度も預言され、マラキ書も最後の審判の預言で閉じるのです。
 マラキの時代、神の恵みを忘れた世界が広がっていました。マラキは神を見失う世界がどんなに悲惨なことになるかを繰り返し伝え、神の恵みを信じる民たちが、もう一度、その恵み立ち帰って欲しいと願うのです。旧約聖書に記されたモーセの律法を思い起こすことを教え、旧約預言者の代表者であるエリヤ再来の預言をし、神の恵みへの悔い改めを示すのです。
 主イエスは、マタイによる福音書の中で、預言者エリヤの再来が洗礼者ヨハネによって成就したことを示されました。そして、多くのたとえを用いながら最後の審判者としての御自分の姿を明らかにされたのです。中でも、最も有名なたとえは「羊と山羊のたとえ」です。羊と山羊との救いの分かれ道は、良き行いをしたか否かではありません。神の前にあって神を畏れているか否かです。滅びに定められた山羊は、神であるキリストに対して畏れを持っていませんでした。自分の行いを認めてくれないキリストに文句を言い続けたのです。
 キリスト者がささげる礼拝は、最後の審判の先取りともいえます。なぜなら、礼拝においてキリスト者は、神の前にひれ伏し神を崇め、神の恵みを味わうからです。

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       「神に仕える者」マラキ3:13-18
 「神に仕える」という言葉は、なかなか理解しにくい言葉です。なぜなら、「神」は目に見えないからです。「わたしは神に仕えている」と口にしていても、いくらでもごまかせるのです。そして、多くの場合、自分の野心を満足させるために神の名を利用しているのです。
 「仕える」とは、奴隷となるという意味です。「奴隷」と聞くとロボットのように主人に従う、絶対的な服従という意味だけを受け止めてしまいますが、そうではありません。奴隷は主人の宝です。主人の支配の下に保護されています。ですから、主人に仕えることをやめる時、主人のものを奪う者となるのです。与えられていた恵みを奪う行為、それが罪の原点にあります。
 「神に仕える」という意味は理解しにくいことですが、逆を考えればよく見えてきます。神に仕えるのではなく、自分が神のものを奪い、自分が高慢になるのです。
 「神に礼拝をささげていても何の幸いもない!それよりも自分が満足する人生を生きて行けばそれで良い!」
 神に仕えることを見失った者は、結局、一時の幸せ、目先の幸せだけに目を奪われ、最後は滅びを味わうのです。神は、堕落して行く人々を無視されません。裁きを通して、その罪を明らかにされます。それは、もう一度、神が与える恵みに気がついて、悔い改めるのを待っておられるからです。
 「神に仕える」とは、神の恵みの支配を必要として生きることに他ならないのです。


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           「立ち帰って生きる」マラキ3:6-12
 聖書は、「私たちの罪の根源は、神を偽ることにある」という警告を伝えています。「神を偽る」というのは、真実の神を見つめないで人間の都合の良いように神を利用し、虚像を作り上げてゆくことを意味しています。
 中東に於ける戦争が激化してゆく中で、「唯一信仰の争いであり、お互いの神を主張するからだ。日本のようにいろいろな神々を受け入れる国はこんな争いはしない」と報道されることがありますが、それは大きな誤解です。この戦争は、信仰の争いではなく、神を利用して自分の主張を絶対化しようとする罪なのです。また、神々を利用して自己実現ばかりを願う者もまた、滅びへと向かう歩みなのです。
 旧約聖書の言葉で「偽る」は、「奪い取る」という意味があります。神のものを奪い取って生きる人間に対して、真実の神は「立ち帰って生きよ!」と命じられます。立ち帰るとは、奪い取る手を離して、今、自分に与えられている神の恵みを見つめることです。奪い取らなくても、必要なものが与えられていると気づく時、人は生かされている恵みを回復します。そこから感謝が生まれ、神にささげる喜びが生まれるのです。
 真実の平和は、この神の恵み、感謝、喜びから生まれます。どんなに口先で平和を叫んだところで、また、神を利用するような偽りの祈りをささげたところで、平和は実現しません。平和は、私たち自分自身が神に立ち帰り、その神の愛に生きることから始まるのです


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        「契約の使者」マラキ3:1-5
神は民を選び、救いと恵みの契約をお与えになりました。民はその救いと恵みに感謝し、神の契約を信じて生きることを誓ったのです。信仰の原点は神の恵みの応答にありましたが、民は神の恵みを忘れました。愛である神は、再び民が神の恵みを思い起こして契約に立ち帰ることを望まれ、契約の使者を送ることを予告されたのです。
 この契約の使者は、神の道を整え、民たちが待望した救い主でありました。ただし、民たちが期待する主とは大きく異なっていたのです。なぜなら、民たちは自分たちの生活が幸せになるための主、自己を満足させるための主しか期待していなかったからです。
 神から送られる契約の使者は、神が臨在する聖所に来られて、そこで裁きをします。この裁きは民たちの罪をあぶり出すための厳しい裁きです。金や銀を精錬するために火で溶かすような裁きです。しかし、この裁きによって罪が取り除かれ、汚れのない者とされます。
 契約の使者は主イエス・キリストによって成就しました。主イエス・キリストの十字架はまさしく神の裁きでありました。神の恵みを失う時、滅びと暗闇の世界に支配されてしまうことが十字架によって示されたのです。そして、同時に、この十字架は、罪を取り除くための神の愛であったのです。私たちは、主の十字架を仰ぐ時、罪が取り除かれ、神の恵みの支配にある者、新しい命に生きる者とされるのです。

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       「神を裏切る罪」マラキ2:10-17
マラキの時代、信仰の指導者であった祭司が堕落しました。祭司は礼拝祭儀によって神と人とを橋渡しする役職にあるにも関わらず、神を裏切っていたのです。私たちが「神を裏切る」と言うことを聞いてもぴんとこないかも知れませんが、マラキは、その様子を明らかにしてゆきます。
 祭司たちは、形の上では信仰の指導者を装っていましたが、心の奥底は、神の恵みの契約よりも自分たちの生活安定しか眼中にありませんでした。それが異邦人との結婚、今の妻との離婚という形で現れました。それによって異邦人の富裕層と結びつくことができ、目に見える喜びを得られると思ったからです。神は、その堕落と罪を戒められるのです。
 注意することは、神はここで表面的な行いの良し悪しを指摘されているのではなく、その心の奥にある神との恵みの契約を破棄し、神との信頼を裏切った罪を戒めておられるのです。「離婚をしていないから良い」「異邦人と結婚していないから立派な信仰者」というわけではなく、逆に「離婚をしたからだめな信仰者」でもないのです。問題は、心の奥にある神への思いです。
 神は「自分の霊に気をつけるが良い」と言われました。「霊」とは、人が神とつながるために与えられた神の霊です。人はこれによって生きる者とされたのです。霊を失う時、人は神が与えれてくれる永遠の恵みを見失って、神の恵みをわがもののように奪い取ろうとします。そのような歩みは、暗闇に向かう生きた方になります。神はその歩みに警告を示されるのです。

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    「神との契約に生きる」マラキ2:1-9
一般に信仰を持つという行為は、「祈りや願いによって苦しみから解放されるためのもの」と思われがちです。しかし、信仰は人間そのものの存在を意味します。「何のために生きているのか」という応えを与えてくれるものであり、もし信仰を失ったら、人は絶望という暗闇の世界に飲み込まれてしまうのです。
 神は、信仰の民が、愛を見失い、御名をあがめず、自分の名を高めることばかりを考えているため、裁きを示されました。そして、暗闇への道に呪いを置かれます。「呪い」と聞きますと「不幸」というイメージだけを持ちますが、神の呪いは間違った道にストップをかけ、救いの道を示します。「間違った道に進み始める時、人は神を畏れなくなり、神との契約を忘れてしまう」と警告するのです。
 現代、人間の知恵や経験、科学技術や医学が絶対化されます。そして、命も平和も人間の力で生み出せると思い込んでいます。万能細胞をはじめとする先進医学によってすべての病気が治り幸せになると思い込んでいます。しかし、世の幸せが満たされても、神への畏れを失ったら、人は生きて行けません。いつも死の暗闇を恐れ、見ないようにして生きるだけのことです。神を畏れることは、それ以外のものを畏れなくて良いという意味です。信仰を持たない者は、この世を恐れ、やがては消えてしまうものだけにしがみついて生きています。神は、「神を畏れよ」との契約によって、私たちを真実に生かそうとされています。礼拝は、「神を畏れる」という契約を心に刻む時なのです。

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説教より