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教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。
「エペソ人への手紙1章23節」

「科学と人生№1」~なぜでしょうか?(月岡世光氏)

1.なぜ地球には引力があるのでしょうか?

ニュートンは、りんごかが木から落ちるのを見て、地球に引力のあることを発見しました。 では、この地球にはなぜ引力があるのでしょうか?
しかも、もしこれ以上引力が強かったら、私たちの体も何もかも、重くなって不自由です。 また、もし地球の引力が今より少なかったり、なかったりしたら、みんなフワフワ浮き上がって困ります。

私たちの生活にちょうどよい引力、この不思議な引力が、なぜあるのかということは、 どんな科学者にも解らないナゾです。

2.なぜ地球はまわるのでしょうか?

毎日1回転するので昼と夜があって、私たちの生活に便利です。

いったい何が原動力になって地球は回っているのでしょうか? あなたの時計は正確に回っているでしょうが、ネジをまくか電池の原動力を与えなければ動きません。

そして、どんなに正確だといっても、一か月に1秒や2秒の狂いはあるでしょう。 ところが、地球は太陽のまわりを1年間に9億1千万キロメートルも回って、もとの位置にもどってくるのに1秒の狂いもないの です。 地球を回る月も同じです。だから、何年の何月、何日、何分、何秒には地球のどこの地点で 日食が見えるとか月食が見えるということが前もってわかるのです。
また、この地球は23.5度という傾きを保ちながら回っているので、春夏秋冬の変化があって、1年の生活にうるおいがあります。

3.創造か偶然か

時計でさえも、歯車を作る人、ゼンマイを作る人、針を作る人、組み立てる人…と 大勢の人たちによって作られています。

その時計よりも、もっともっと正確で、すばらしく出来ている地球が、 ただひとりでに偶然に出来上がるわけがありましょうか。時計でもひとりで偶然に出来るわかはないのです。

4.人工衛星と神工衛生

人工衛星は、大勢の科学者たちが知恵をしぼって作り上げた、いわば現代科学の成果と言えるでしょう。

しかし、その人工衛星は、何人かの人を乗せて飛ぶのがせいいっぱいです。 しかも、乗っている人は、空気も引力もない所で不自由な思いをしながら生きているのです。

それにくらべて、この地球は、なんと70億人以上もの人々を乗せたうえに、海や山やその他、 いろいろなものを、たくさん乗せ、周囲は空気の層につつまれているので、 宇宙服のようなきゅうくつなものは着なくてすみます。

また、空気は無数の流れ星が、私たちの住む地球に当たらないように守ってくれますし、 昼と夜とで温度が急変しないためにも役立っています。私たちが呼吸をするためにも、 音の聞こえる世界のためにも、空気の恩恵ははかり知れません。

また、太陽の光と熱は生物の成長に欠くことのできないものですが、もし地球の平均温度が、 わずか30度でも高かったり、または低かったらどうなるでしょうか。焼け死ぬか、凍ってしまいます。 表面温度6000度の太陽からの平均距離もちょうです。
また、地球には適当な強さの引力があるので、生活も便利です。

このように、よく考えてみると、あたり前に思っていたことが、わかってまいります。 人工衛星でさえも、大勢の科学者や、技術者たちが科学技術の成果を集めて造ったのですから、 それよりももっとすばらしいこの地球がひとりでに出来上がったなどと、どうして考えられるでしょうか。
天地万物、すべてを造ることのできる神がおられて、その神が、 このすばらしい地球を造られたとしか考えられません。 人の造った人工衛星に対して、この地球は、神の造った神工衛生といえるでしょう。

5.あなたは今、宇宙旅行中!

現代の人々は、宇宙旅行を夢のように考えていますが、あなたは今、これを読んでいる間も、 宇宙旅行をしているのです。

神の造られたすばらしい神工衛生に乗って宇宙の空間を、1秒間になんと30キロメートルという 猛烈なスピードで走っているのです。

30キロというと、東京駅から横浜駅までの距離ですが、その間を、たった1秒の間に今飛んでいるのです。 時速では10万8千キロの速さです。

また、地球のまわりを回る人口衛星は、わずか4万3千キロの軌道ですが、私たちの乗っている地球は、 その2万倍もある長い軌道を回っているのです。

6.詩篇と宇宙

宇宙は、時間的にも、空間的にも、絶対に無限です。

私たちは、毎日目先のことに追い回されて暮らしていますが、たまには、 目を夜の星空に向けてみようではありませんか。そして、この宇宙旅行の現実を味わい、 神のすばらしい御業(みわざ)を静かに心に覚えようではありませんか。

聖書に詩篇という書簡に、もろもろの天は神の栄光を現し、大空は御手のわざを示すと、しるされています。 神は、目には見えませんが、天地万物、すべての造り主です。

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」
(詩篇19:1)

7.科学の基本法則

私たちは、科学が発達すればなんでも解けるようになると思いますが、
なぜ引力があるのだろうか?
なぜ地球は回るのだろうか?
と科学の基本法則をなぜかなぜかとたずねていったら、みんな不思議ですばらしい出来ばえに驚くばかりです。

天体ばかりでなく、植物についても、動物についても、また物理でも、化学でも、 すべて基本法則というものがありますが、それぞれの基本法則を「なぜだろう?」と 深く研究すればするほど、そこに天地万物すべてを造り、 これを統轄している神の存在を認めないわけにはいかなくなります。

たとえ、そこにどんな過程があったとしても、そのすばらしい出来ばえと秩序正しい働きを見るとき、 それが神の御業(みわざ)ではなくて、偶然に出来たものだと、どうして考えられるでしょうか。

10.不思議な種

植物の大部分は、種から成長しています。

小さな種つぶの一つ一つを手にとってごらんなさい。リンゴの種、ミカンの種、ナシの種… 小さなリンゴの種を地にまけば、スクスクのびて、やがてリンゴになって、毎年たくさんのリンゴがなります。 ミカンの種はたくさんのミカンに、柿の種も大木となって、たくさんの柿が、私たちの食べ物として与えられます。

種の一つ一つをよく観察すれば、みんなすばらしい不思議な種ではありませんか。 私たちが生きるために、毎日食べているご飯もお米の種です。一粒のお米の種…。 それを地にまけば、何百倍にもふえるからこそ、私たちは、それを食べて生きていくことができるのです。

どんなに偉い植物学者や科学者でも、これらの生命のある種を作りだすことはできません。 お百姓さんは、ただ、それらが育つのを助けているだけです。

私たちは「働くことによって食べ物を得る」といいますが、食べ物そのものは、 やはり神によって造られていることがわかります。 従って、私たちは、食べ物を食べるとき、造り主の神に感謝せずにはいられなくなりましょう。

11.すばらしい果実

果物屋さんの前を通ると、新鮮なよい香りがします。
その果物の一つ一つを手に取って、よく観察してみましょう。 リンゴには、リンゴの特有の美しい色とよい香り、 またリンゴにしかもっていないおいしい味、またバナナにはバナナ、 ミカンにはミカンといった特徴のある美しい色と香り、そして、それぞれの特有のおいしい味をもっています。

そのうえ実に食べよく、出来ていることに、気がつくでしょう。 ミカンはその汁を味わう果物ですが、外の皮をむいたとき、中にジュースのような汁がいっぱいつまっていたら、 すぐにこぼれて食べにくいでしょう。中にはいくつもの袋があって、袋の中には、 汁が細長い細胞に包まれているので、汁をこぼさないで味わうことができるのです。

私たちに与えられた果物の数造り主に感謝しましょう。

12.感謝の心で

日常、食卓にでてくる野菜についても同じことです。ニンジン、ゴボウ、ダイコン、トマト、ナス、キュウリ…。 その一つ一つが、それぞれの特有の色と、香りと、よい味を味わわせてくれます。栄養にも欠かせません。

造り主である神に、まず感謝しましょう。 次に、それを育つ手助けをしてくれたり、運んでくれたり、料理をしてくれた人々に 感謝しながら頂こうではありませんか。 ものごとの本質がわかって感謝の心で食べるとき、その味は、また格別なものです。

13.神の芸術作品

また、神はすばらしい美術家であり、芸術家でもあります。
道ばたに咲く花にも、それぞれの美しさと、香りがあって、人がまねても、 その生きた美しさと香りをつくりだすことはできません。

神はこの地上にいろいろな美しい花を咲かせて、私たちを楽しませてくれています。 また、同じ花ならどの花も、花ビラの数からメシベ、オシベの数まで全部同じということも、 創造主のすばらしさを物語っています。

美術館の風景画や、裸体の彫刻は、すばらしい芸術品です。 しかし、神のつくられた実際の風景や生命あふれる肉体の方が、 もっとすばらしく出来ていることは、いうまでもありません。 私たちは一人一人、神の芸術品です。 鏡に向かって自分をよく観察してみましょう。

14.目とカメラ

私たちの目は、小さな結晶体などからできていますが、まわりのものを総天然色に、 しかも立体的に見ることができます。

カラーテレビには、数百個の部分品が用いられていますが、人の目ほどに完全な天然色にはうつりませんし 、まして、立体的には見えません。カラーテレビよりもはるかに小形で、すばらしいこの目!!

またどんな精巧なカメラでも、目にはとても及びません。 あなたが今、これを読んでいるとき、目のレンズは自動的にこの書にピントを合わせていますが、 つぎの瞬間、遠くの景色に目を向けると、目のレンズは自動的にピントを何百メートルでも先の景色にあわせます。

その目にくらべて、カメラはどうでしょう。どんな高級品でも、いちいちレンズを前に出したり、 引っこめたりして、ピントを合わせてやらねばなりません。

また、新型のカメラには、自動しぼり装置が付いていて、明るさに応じて自動的に絞りが開いたり 閉じたりするようになっていますが、薄暗いところでは、シャッターが切れません。 それに比べて私たちの目はどうでしょう。目のどうこうは自動的に大きく開いて、 薄暗いところはもちろん、もっと暗いところでも見えます。

また明るいところに出れば、自動的に調節してくれます。そして、現像、焼付けも 1週間もかからないすばやさで、やってのける鮮やかさは、 どんな精巧な撮影機と映写機を組み合わせたものよりも、はるかにすばらしいではありませんか。 小さいけれどもすばらしいこの目!!

15.耳も舌も

耳…その動きは、小さな鼓膜の振動によるものですが、正常な人は、 1秒間に16回から2万回までの振動を、左右の耳で立体的、すなわちステレオで聞くことができます。

あなたは、ステレオ電蓄の音響をすばらしいとお思いになるでしょうが、 大小いくつものスピーカーを合わせても耳の振動範囲には及びません。 耳からは、2万4千本もの神経の糸が脳に通じています。
小さいけれども、すばらしいこの耳!!

舌…もまたすばらしいです。
食物を味わったり、噛むときに上下の歯の間に送ってやったり、のみこませたり、 また、話をするときにも舌がなければしゃべれません。

目でも耳でも、そのついている場所がちょうどよいところについているではありませんか。 もし、目が背中についていたり、口がオヘソの辺についていたらどうでしょう。

16.脳

頭の中にある脳は、もっとすばらしいです。一瞬一瞬過ぎ去っていく何年何十年もの間のことを、 その程度の差はあっても、次々記憶(記録)していって、必要に応じてすぐに思い出す(引き出す)ことができます。 また考えたり、計算したり…

「私の頭はよくない」などという人がおりますが、すばらしいものです。 脳には140億もの神経細胞が、互いに連絡し合って働いています。

電子計算機はすばらしい機械ですが、その電子計算機を考案した脳の方がもっとすばらしく、 小型で精巧にできているではありませんか。

17.造られ生かされている

そのほか今日の文明を築き上げた手や、複雑巧妙な体の内部器官の構造や動きの、 一つ一つをよく観察すれば、どこもかしこも、すばらしくよくできていることに、気がつくでしょう。

こんなにすばらしくできている私たちが、環境や偶然で、ひとりでに進化して出来上がったなどと、 どうして考えることができるでしょうか。私たちの体も、神によって造られ、生かされているのです。

あなたは、生まれてから今まで、眠っているときでも、呼吸を止めたことはないはずですが、 自分の努力によって息を吸ったり、はいたりしているのでしょうか。
『ゆうべは疲れて呼吸をするのをわすれた』ということがあったらどうなるでしょう。 また、あなたは生まれてから今日まで、心臓の鼓動が止まったことはないでしょうが、 これも、あなたの力によって心臓のポンプを動かしているのでしょうか?

このように、自分自身をよく観察するとき、自分というものを造り、 そうして生かしている本当の意味の親のあることがわかります。 この親である神のことを『天の父なる神』ともよび、ひとり静かに祈ることによって、 この父なる愛にみちた神に、通じることができます。

18.聖書と世界の終極

聖書は、歴史的に、もっとも古くから人類の祖先に伝わってきた、古今東西を通じて、 変わることのない真理で、神のことばとと言われています。 聖書には、人生の真の目的や、本当の幸福を得る方法、さらに、 死をも越えて永遠に生きられる道が書かれております。

また、何千年も前に書かれた聖書の預言は、その後の世界の歴史を見るとき、 その預言の通りになってきているのです。これは、歴史が証明しています。

聖書は、この世の終わりが近づくと、犯罪と災害の多い現在のような世の中になって、 最後にこの世界が火で焼かれることを預言しております。 それは、原始時代にエデンの園で、神にそむいて禁断の知識の実を食べて、 人類は知恵を得たが、その知恵と罪の末、原水爆を造り、お互いに滅ぼし合う結果になるのかも知れません。

過去の世界歴史が、ことごとく聖書の預言通りになってきたのですから、 この最後の預言が的中することは間違いないでしょう。 そして世の終わりが来ても、神に従った生者は救われ、死者も神によって復活させられて、 共に新天新地で永遠のいのちと幸福が与えられます。また真の神から離れていた人は、 永遠の火と硫黄の燃える池で、自分の罪の報いを受けることが預言されています。

19.死

死ということは、考えるのもイヤなことですが、誰でも必ず、 直面しなければならないことであり、老若男女を問わず、 いつ直面するかも知れないので、解決しておきましょう。

私たちは常に押しボタンによる、原水爆戦争の危機にさらされております。 また、個人的にもいつ死ぬかわかりません。死ねば二日も立たないうちに腐りはじめるので、 火で焼かれるか、土に中に埋められてしまいます。

最も尊くて、はかないのはこの命です。 この尊い命は、死によって滅亡してしまうものか、それとも、 死後において永遠のいのちを与えられる道があり得るものか、 一番大切なことですから真剣に、考えていきましょう。

20.いままでのことから

私たちの住む地球が、神の造られたすばらしい神工衛生であることがわかりました。
また、自然界の法則や科学の基本法則が、私たちの生活に、 すばらしい恩恵を与えていることを知りました。野菜でも、果実でも、 日常の食べ物、すべてが、神によって造られ、与えられていることがわかりました。

そして、自分自身を鏡にうつして、よく観察するとき、目がどんなに精巧なカメラよりも、 はるかにすばらしく出来ていることをはじめ、体の各器官が実に精巧にできていて、 神によって造られていることが、わかりました。 しかも、呼吸や心臓の鼓動を考えるとき、自分の意思によってではなく、 神によって生かされていることがわかりました。

21.永遠のいのち

このように、私たちを、造り生かしている天地万物創造の神は、 全能で何でもできますから、たとえ私たちが死んでも、 再び私たちを造り生かすことは、たやすいことです。

22.罪の重荷

しかし、私たちは、心静かに過去をふり返ってみるとき、親不孝をしたこともあれば、 人をにくんんだり、ねたんだり、という心の中の罪をはじめ、さまざまな、 目に見えない罪を犯してきていることに、気がつくでしょう。

その罪の重荷を背負ったままでは、聖なる神のもとに帰ることはできません。 そこで、神は私たちを罪の重荷から解放するために聖書の預言にもとづき、 神のひとり子といわれるイエス・キリストをこの地上におくってくださいました。

23.十字架

キリストは聖書に書かれているように、私たちに本当の幸福と永遠のいのちが与えられる道を教え、 最後に神を信じる人々の罪を全部背負って、十字架の極刑にかかりました。

そして、神の子みずから尊い血を流して、私たちの罪をあがなうために犠牲の死を遂げて下さいました。 それで、イエス様を自分の罪を清めて下さった救い主(キリスト)と信じるなら、 あなたの罪はゆるされて人生の生きがいを見出し、神のひざもとへ帰ることができるようになりました。

24.復活

キリストは十字架の上で犠牲の死を遂げましたが、預言されていたとおり三日目に復活されて、 四十日間大勢の人たちの中に現れて、神が御子イエス・キリストを通して、 「死んだ後よみがえる」事実を証明されたのです。 それでキリストを迫害した人たちまでも、キリストが神の子であることを信じるようになりました。 全能の神にとって復活は容易です。

25.昇天と再臨

その後キリストは、神への信仰を持ち続けた人たちを、神の国である天国へ導くために、 世の終わりの時に再び来ることを預言して昇天されました。

それまでの間、キリストに代わる聖霊が私たちを導くようになりました。 聖霊はわたしたちの『助け主』です。

26.科学の基本法則と奇蹟

聖書の奇蹟についても、前にお話ししたように科学の基本法則を「なぜだろうか?」と深く追求すれば、 みな不思議な神の御業を見出すだけですから、なんでもできる全能の神が奇蹟を行ったり、 神の御子であるイエス・キリストが、奇蹟をなさったりされたからといって、特に不思議なことではありません。

27.神とともに

今までのお話しで、真の神について、よくわかったことと思いますから、幼な子のような純真な心になって、 神を慕い求め、そして神に祈りましょう。そうすれば、神はあなたを特に愛し、あなたの祈りもきかれましょう。

全知全能の神の前に、私たちの知識は小さなもので、部分的には解らないことがたくさんあります。 しかし、基本となる根幹をしっかりつかめば、枝葉のことは自然に理解されましょう。

その本当の生きがいを得る鍵は、聖書の中にあります。 富や名誉では、ほんとうの生きがいは得られません。

28.一番大切なこと

私たちは、なんのために勉強しているのでしょうか。 また、なにが目的で毎日働いているのでしょうか。 究極の目的は「生きがいを得る」ことではないでしょうか。

本当の生きがいを得る鍵は、聖書の中にあります。 富や名誉では、ほんとうの生きがいは得られません。

私たちは、まず幼な子のように純真な気持ちで一人ひざまづいて、 心静かに過去をふり返って見ましょう。そして、いろいろなどんな小さな罪でも全部、 そこにもおられる神に告白しましょう。そして、神にまごころから、こう申し上げましょう。
「私は罪人です。イエス・キリストが私のために十字架で、ご自分の命を捨てて下さったことを信じます。」と。

そうすれば、あなたの過去の罪は神からゆるされて、 いつもあふれるほどのよろこびを実際に与えられるとともに、永遠のいのちも与えられるのです。

「この幸福」「この喜び」は、あなたの体験によって、あなたのものにしてください。

29.おわりに

私たちは父なる神の前にみなひとしく兄弟姉妹なのです。 どうか、ひとりもほろびることなく、本当の幸福と永遠のいのちを得ることができますように、 心からお祈りしています。

「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」
(聖書)

「この幸福」「この喜び」は、あなたの体験によって、あなたのものにしてください。

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