ロマ書の研究第８講

　救いとは、今日すこぶる廣義の語として用いられてゐる。福音以外の種々なる救濟事業において、この語はつねにひろく使用されてゐる。社会的意味の救いがあり、道德的意味の救いがあり、また思想上の救いがある。またキリスト敎の救いについても、今日の人の考うるところはすこぶる茫漠たるものにして、惡しき行いの改まりしこと、あるいは福音に心を寄するに至りしことぐらいをもつて救いと見なす人が多い。キリスト敎の傳道師と稱する者の中にさえ、この種の淺き見方をする者が多く、洗禮を受けて敎會に加入せしことをもつて救いとなして安心し、その後の心靈の發育如何に關しては何らの考慮をも拂わざる者がある。眞にはなはだしき誤りである。

　（ハ）ソーテーリアはメシヤ的救出を意味する語で、ユダヤ敎においては民族的の狭き語であるが、キリスト敎においては高き希望を傳うる語である。後者の意味においては、この語はメシヤ的救出の全範圍 ── すなわち消極的には全人類に臨める神怒よりの救濟、積極的には永遠生命の賦與を包含するものである（サンデー）。

すなわち救いとは、ただの悔い改めを意味する語ではない。この世においては罪に死してキリストに生き、罪の結果たる死（神怒、滅亡）より救われ、復活して主の榮えに似たる榮えに浴し、永遠の世界に永遠の生命を受得すること、これすなわち救いである。新約聖書のソーテーリアはこれ以外を意味するものではない。これ忘るべからざることである。

　このことは新約聖書においてきわめて明瞭である。「誰か救いを受くべきや」との弟子の用いに答えて、イエスは、「われと福音のために、家あるいは兄弟…を捨つる者は…後の世にはかぎりなき生命を受けん」と答えたもうた（マルコ傳一〇章）。もし新約聖書中の各書翰より救いの永遠的意味を立證せんとせば、我らはその引用すべき語の多きに苦しむほどである。左掲のごときは、そのもつとも代表的なるものである。

　救いとは實に右のごときものである。人は往々にして淺く見んとし、「神の己れを愛する者のために備えたまいしものは、目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心いまだ思わざるもの」であることを知らぬ。今や世界に充つるは淺き救いの聲である。そして救いを説く者にして、いまだ一人たりとも救いを實現した者がない。救いの本義を世に向つて示すべき重責を持つキリスト敎會までが、種々の社会的施設に没頭し、これによつて救いを實現せんと企てつつあるは何の陋態(ろうたい)ぞ。救いとは實に人をして永遠の榮光に浴せしむることである。かくのごとき救いに人を至らしむる力が福音あればこそ、パウロはロマ大帝國の光輝を前にして「われは福音を恥とせず」と言い得たのである。一時的なるこの世の救濟のごときは、よし遺憾なく實現せらるるとも、人の魂をその根柢において救濟することはできない。キリスト敎の救いがかくのごとき淺きものならば、それはわが持てる一切を捨てても獲得すべき値あるものではない。それがために「家、あるいは兄弟、あるいは姉妹、あるいは父、あるいは母、あるいは妻、あるいは兒女、あるいは田畑を捨つる者」ほど愚かなる者はない。しかしながら福音の供する救いが永遠の榮えを意味するものなればこそ「一切を捨てて」もこれにあずからんとするのである。「彼（キリスト）とその復生(よみがえり)の力を知り、その死のありさまにしたがいて彼の苦しみにあずかり、とにもかくにも死にたる者のよみがえることを得んがため」なればこそ、パウロはキリストのために「すべての物を損せしかど、これを糞土のごとく思」うたのである。福音のために犧牲の心を起さず、熱心をも燃やさざるは、みなこれその供する救いのいかに大なるものなるかを知らぬからのことである。

　原文の順序によれば、十六節の最後には「信ずるすべての者には、ユダヤ人をはじめギリシア人にも」の二句がある。これについては前講において説くところあつたが、さらにそれをおぎないたいのである。今十六節の思想を解剖するに、まず「われは福音を恥とせず」と斷じて、次ぎにその理由として、左の四つを擧げてゐるのである。

信ずる者は誰人にても救われるのである。信仰という條件が一つ要(い)るのみである。そして信仰というものは、その本質上、誰人でも抱き得るものである。ゆえに「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」である。世界の人ことごとくこの唯一の條件によつて救いに至るのである。信仰は實に萬人向きである。さればこそ特に貴いのである。一部の人の有し得るものが貴いのではない、萬人の手のとどく範圍にあるものが貴いのである。ダイヤモンドよりも空氣は貴く、爵位よりも水は貴いのである。前者は無用の贅物(ぜいぶつ)、後者はなくてならぬものなるゆえ、そして萬人の用い得べきものなるゆえ、ことさらに貴いのである。

　これを肉體の醫療にたとうれば、信仰は種痘のごときものである。そのことの本質上、萬人に用いられ得べきものである。種痘のごとき、安價にして簡單なる道をもつて病を豫防し得るものは、醫療の道としてはもつとも理想的である。萬人がその利益に浴し得る。これに反して、ラジウム療法のごときはすこぶる高價なるものにして、少數の富者がその利益に浴し得るのみである。もし行いの優秀、人格の高貴、眞理の完全なる悟得等をもつて救いの條件とするならば、そはあたかもラジウム治療のごとく、少數者にかぎらるるものとなるのである。行いは潔からず、人格は高からず、而して眞理の悟得完全ならずとも、ただ赤兒のごとく父に信頼するときにおいて、救いの第一歩に迎え入れられるのである。まことに詩人テニスンの道破せしごとく、

　かく信仰は萬人の抱き得るものである。「ユダヤ人をはじめギリシア人にも」である。信ずるすべての者には救いに至るべき神の力である。「ユダヤ人をはじめ」と、ユダヤ人をまつさきに出したることについて、學者は種々の意見を提出する。しかしこれが、ユダヤ人の救いについての優先権をみとめた語でないことは明らかである。もし然らずば、國籍の別が救いについての一種の條件となることとなつて、明らかに救いの根本義にそむくことになるのである。ゆえにこれはただ福音の光がまずユダヤ人にあらわれ、のち異邦人を照すに至つたという史的視點の立場よりの語であると思う。「ギリシア人」とは、この場合廣義に用いられて、異邦人全部を指す語である（使徒行傳十四章一節、コリント前書一〇章三二節參照）。

　すべての人をして、すべての人の持ち得る信仰という一條件をもつて、救いに入れしむるは福音である。かかる力が福音に存する。簡單にしてしかも深遠、普遍的にしてしかも高貴、まことに人の敎えにあらずして神の福音である。人が努力の結果到達せし悟道にあらず、神がキリストをもつて ── ことにその苦難と十字架とをもつて ── 啓示したまいたる神の道である。歡喜の福音、絶大の恩惠、類例なき貴きものである。福音はかかる神の力である。ゆえにこそ、パウロはこれを恥とせぬと言うのである。歎美すべきは、ただ一節の中にこの大思想を籠め得たるパウロの偉大である。これ實驗の器に靈感の語を盛りしものにして、眞に神の言と稱すべきものである。

　　信仰は、行爲、人格、悟道等と異なりて、萬人の持ち得るものゆえ、救いの條件としてもつとも普遍的であり、從つてもつとも簡易であると述べた。これに對して「然れども事實上信仰を抱ける者は世にすくなくして、從つて救いに浴し得べき者もすくないではないか」との抗議が出るであろう。しかしながら、これは一時の事象をもつて永遠の原理を蔽う見方である。

　その本質に訴えて考うるとき、信仰は萬人の持ち得るものなるに反して、行爲の完全、人格的聖浄、悟道の完成等は、その本質上（すくなくともこの世においては）萬人の持ち得るものではない。今日の實際において、信仰を持てる者のすくないことは、我とみずから心靈の戸を閉じて、信仰の入る餘地なからしむる者の多いことを示すのであつて、決して信仰そのものの非普遍性を示すものではない。信仰は、その本質上萬人の持ち得べきものである。ゆえに普遍的のものである。ゆえに救いの條件としてもつとも理想的のものである。このことは原理としてもつとも明白である。

　まず起る疑問は、何ゆえ「神の愛」と言わずして「神の義」と言うたかである。十六節において、ただ信仰のみによつて救われるとの恩惠の語ありて、讀者は當然「神の愛」なる語を豫期すべきに、「神の義」とあるために、意外の感に打たれるのである。「義」は原語 δικαιοσυνη（ディカイオスネー）、英語においては righteousness である。また justice である（正義、公道、公表、正道）。その眞意如何、またその十六節との關係如何は次囘の問題とし、ここには二、三の注意を述べるをもつて止めたいのである。

　かの浄土宗のごときは、彌陀の赦免の慈悲を高調する點において、すこぶるキリスト敎に類似せる宗敎である。法然、親鸞らが彌陀の本願に安心の根據を置きしは、他力救濟の秘義に徹したるものにして、その信仰の芳醇味は我らの稱贊を惜しまぬところである。さりながら、我らがもしこの他力宗の與えし見方をもつてキリスト敎に對するならば、そは大なる過誤である。彌陀宗の根柢は慈悲であるが、福音の根柢は「義」である。前者は徹頭徹尾慈悲の上に立ちて、慈悲を通徹せしむる宗敎であるが、後者は飽くまで義の上に立ちて、慈悲を築成する宗敎である。兩者の類似はその外現において存するのみであつて、その根柢においては天と地との相違がある。然るにこの一事を知らずして、前者をもつて後者を律せんとする者が世にはなはだ多い。これ福音よりその根柢を除去することであつて、凡百の過誤と不徹底とがそこに胚胎するのである。

　福音は義を根柢とする。公義、正道はまず慈悲赦免の前においてあらねばならぬ。然らば、人はみずから公義を實行實現したる後において初めて赦免と救いとの恩惠に浴するのであるか。然りとせば、福音もまた一種の律法敎にして「重くかつ負いがたき荷をくくりて人の肩に負わせ」る暴君である。ここに「神の義はこれ（福音）においてあらわれたればなり」とあるに注意すべきである。「あらわれたり」とは、探究の結果としての到達を貴ぶギリシア人には愚かと見ゆるものである。しかし神の義が人の努力の結果の獲物にあらずして、神よりあらわれたものであるというは、大いに注意すべきことである。神はある道をとつてその義をあらわしたまいつつある。

　これは福音の中にあらわれつつある。あることにおいて神の義はあらわれてゐる。すなわちある方法をもつて神はその義を提供したもうたのである。「その義を、神はすべての信者に賜うて区別(へだて)なし」（三章二二節）である。すなわち人はみずから努めて義人となりて救わるるにあらず、神はその義をもつて人に臨みて必罰の鞭を下さんとするにあらず、あることにおいて神の義はあらわれ、そして信ずる者は神の提供する義を信仰をもつてわが有(もの)とするのである。「いま、律法のほかに、神の人を義としたもうことはあらわれて、律法と豫言者はその證しをなせり。すなわちイエス・キリストを信ずるによりて、その義を、神はすべての信者に賜うて区別(へだて)なし」とある。

　英の評論家かつ詩人たるマシュウ・アーノルドは、人間生活のすくなくとも四分の三（あるいは五分の四か六分の五か）は conduct（道德的行状）であるとなし、そして conduct は、宗敎的に言えばすなわち righteousness（正義）であると言うた（アーノルド著『文學と敎義』第一章を見よ）。アーノルドの正義觀はロマ書のごとく徹底したものではないが、彼が人生の四分の三以上を正義と見たるはさすがに卓見であると言わねばならぬ。義なきところに高貴はない。義なきところに眞も善も美もない。我らは義の範圍を脱して、そこに赦免と恩惠と救濟とにあずかろうとは願わない。ただ赦免、ただ恩惠、ただ救濟とのみ願うは、不健全なる魂の叫びである。義の範圍において罪の赦免にあずかりたし、義の範圍において恩惠を受けたし、義の範圍において救濟を得たし。これ吾人の心靈が健全なるときにおいてはかならず抱くところの願いである。

　かの、義なくして、徹頭徹尾赦免と恩惠のみに終始する宗敎が、そこに信仰的潤味の美わしきものあるにもかかわらず、凛然たる高氣を缺きて、ややもすれば生命の沈滞を惹起するは、これその健全において缺くるところある證左である。義はぜひともなくてはならぬ、義はぜひとも備わらねばならぬ。義の上に愛あり、愛の中にまた義あるは、人生本具の要求として缺くべからざるものである。義なき愛は我らの願わざるところである。

　ただし義は人の義でない、「神の義」である。神の義がこの福音においてあらわれたのである。いかにして神の義が福音においてあらわれしかは後の問題として、我らは神が義をあらわしたという一事を今は注意せねばならぬ。神はまず義を發揚し、樹立し、確保し、その上において人を義とするの道を取りたもうたのである。そして人は、神が義を發揚、樹立、確保し、その上に赦免と救濟とを得んと願うのである。ただ罪をゆるされんと願うのではない。ただ救いを得んと焦るのではない。赦免の與えらるる理由を充分に知り、救いに浴し得る資格が、ある道において成立したるを示されたる上において、赦免と救濟とにあずかりたいのである。これ人の内心の要求である。健全なる心靈はかく願い、そしてこの願いの充たされてのち初めて滿足するのである。

　そして神は人のこの要求に應ずる道を拓きたもうたのである。すなわち義のあらわれて同時に愛のあらわれんことを望む要求は、義をあらわして同時に愛をあらわさんとの聖意と合致したのである。神は愛の神であるとともにまた義の神である。彼は愛のみをもつて人に對して、すこしも義を示さぬことはできない。人の要求において然るがゆえにこれに應ずるというのみではない、神はその本質上、この兩者をもつて人に臨まねばならぬのである。そして人においては到底不可能なるこのことを、神はなしたもうたのである。彼はある道をとつて、その義をあらわすとともにその愛をあらわしたのである。すなわち人の罪を處罰するとともにその罪をゆるしたのである。ただ處罰をもつてのみとどむることはできない。またただ赦免をのみ與うることはできぬ。すなわちある道をもつて兩者を同時にあらわしたのである。