読者からの質問に答えて

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 当ホーム・ページの「創造論か、進化論か」を読んだ読者の方から、創造科学について質問メールをいただきました。いずれも、重要なポイントに関するものですが、もともと科学畑出身ではない私の知識を越える内容を含むものでした。

 そこで創造科学研究会に問い合わせたところ、総主事の宇佐神実氏より以下のような回答をいただきましたので、質問のメールと組合わせた形で以下にご紹介いたします。なお、記事中で青色文字の部分を左クリックすると、用語解説のポップアップ、もしくは回答箇所へのジャンプができます。

《メール − その1》

 HP、楽しく拝見させて頂きました。特に「進化論か、創造論か」のページでは、今まで知らなかった聖書の部分も多数勉強する事が出来ました。科学の目で聖書を考察される皆様方に、敬意を表します。

 しかし、HPや掲示板をロムしておりますと、聖書に幾つかの疑問もわいてきます。どうか、私の疑問を取り払って頂けないでしょうか。

疑問1:聖書では、神が6千年前に宇宙を作られたと説きます。すると、光速は宇宙空間でほぼ一定なので、6千光年以上先の宇宙の光は届かない計算です。ところが、今日の「スバル」や「ハッブル」などの宇宙望遠鏡は、130億光年先のクエーサーの宇宙背景放射を鮮明にとらえています。つまり、130億年前の光を現在観測している訳です。宇宙誕生6千年とつじつまが合わないのはなぜでしょう。

疑問2:生物の化石の出来る行程は理解しました。しかし、三葉虫アンモナイトの層から、生息場所も移動速度も大差ないと思われる海老や貝の化石が出ません。それらの生物は、恐竜よりも上の層から出土します。化石の堆積順番が現在の進化論と一致するのはなぜでしょう。

疑問3:ノアの洪水では、多くの恐竜や人間が犠牲になりました。しかし、恐竜の化石と一緒に人の化石が一つも出ません。人の化石が出るのは遥かに上の層であるのが不思議です。また、その間に魚介類の化石もサンドイッチの状態で採取されています。化石の堆積行程と矛盾しているのはなぜでしょう。

疑問4:地層を見ると、動かないはずの石器や住居跡が動物の上にあります。恐竜と同じ地層に、人間の道具や住居跡が見つかりません。住居跡の上には、更に別の動物の化石が見つかります。動かない物が、なぜ生物の上に出土するのでしょう。また、それらが下の層から出ないのはなぜでしょう。

疑問5:聖書によると、果物の生る木はアダムと共に最初からありました。ところが、下の方から出土するのはシダや実の生らない植物ばかりです。それらは、最初の哺乳類の化石が出た上から出土します。同時に恐竜の化石は出ますが、人が出るのはずっと上層部からです。この様に、植物の化石の出土が聖書と一致しないのはなぜでしょう。

疑問6:宇宙についてもう一つです。観測によると、遠方の恒星ほど光の全波長が赤方偏移しています。こうした観測結果を得るには、二つの理由以外に真実がありません。

 1.地球を中心に、遠くの星ほど昔に出来た。

 2.宇宙はビッグ・バンにより誕生し、現在も膨張している。

 これは、どちらの説も神の6日間創造を否定する材料となります。例えば、神が作って膨張させたとしても、6千光年以上彼方の銀河が観測できる理由を説明できません。どうか、我々が迷わぬような判りやすい回答を頂きたく思います。

《メール − その2》

 その後、私なりに調べ、色々な事が判ってまいりました。しかし、どうしても判らない事が御座います。クリスチャンは、なぜ創世記などを科学的に証明する事を考えたのでしょう?

 私の調べた限りでは、創造科学の歴史は二十年ほど前から始まったようです。進化論の研究を見ると、丁度その時期にシカゴ会議が行われています。
この会議で、進化論は「継続的なゆっくりした進化」と「千年程度の急速な進化」に、議論が二分します。これを機に、「創造科学」が大きく持ち出されたようにも見えます。それとも、他に「創造科学」の必要な原因があったのでしょうか?

 私には、創造科学で現代科学と議論する事の意味合いが見えません。宇宙論や地球学など研究の進んだ現代科学を、創造科学で論破する事は相当に難しく思います。理論、観測データ共、冷静に判断して現代科学に分がありそうです。進化論にしても、否定する材料は沢山ありそうですが、創造科学を証明するのはそれ以上に難しく思います。

 一度科学の舞台に出てしまえば、全てを科学で証明する必要があります
神が、どの様な手法で創造したかまで証明する必要が出てきます。その部分だけを聖域と考えるならば、初めから科学の舞台に上がる事が無理だったように思います。
創造科学は人間の作ったものです。

 それは、生命誕生を科学で証明しようとする進化論と同じに思えてなりません。また、進化論を良く読むと、生命発生時に創造主の存在を否定していません。DNAの進化は指示しているものの、進化の根本原因までの説明は難しそうです。その辺りで、進化論と宗教の融合論は無理なのでしょうか。

 いま、人ゲノムの解析がほぼ終了しています。更に数年の内には、ヒト科に属する動物のゲノム解析も終わるでしょう。そうなれば、やがて進化の道筋が明らかになるのは目に見えています。中間種の化石などが発見されれば、それはほぼ決定的になるでしょう。

 量子物理学的に見ても、地球上のほとんどの物質は恒星で作られたようです。その恒星の超新星爆発によりまき散らされたガスから、今の太陽系が出来た説がもっとも有力です。創造科学で、これを理論的に説明することは不可能です。なぜならば、それは神そのものを科学で説明する必要があるからです。科学を名乗ると言うことは、科学のルールに従うことであります。

 結論
聖書は、六日創造を考え直す次期に来ているように思います。
その考えは、直接聖書を否定するものでもないように思います。
それよりも、科学と対立するリスクの方が遥かに大きく感じます。
その為にも、聖書は科学の舞台から降りる事を提案いたします。
聖書は、科学で割り切れるような小さなものではありません。
科学を認めた上で、両立する考えは無いのでしょうか。
二十年前の原点に返っても、科学と対立する必要性が見えてこないのです。
私の理解できない点、千田様の本当の考えを教えて欲しく思います。
今回、ご無礼な発言がありましたらば、ここでお詫び申し上げます。
失礼いたしました。


《創造科学研究会からの回答》


創造科学の歴史について

 日本で創造科学の働きが正式に発足したのは1978年の「聖書と科学社」からです。しかし、その前からこの動きはありました。アメリカで創造調査研究所が発足したのは、1970年、創造科学の働きが急速に受け入れられるきっかけとなった書籍「創世記の洪水」が出版されたのが1961年です。

 20世紀前半はほとんどのクリスチャンが文字どおりの6日間での創造を信じていました。しかし、進化論の台頭により、進化論と聖書を調和させようという動きが出てきました。これに対して起こったのが現在の創造論運動で、従来の信仰を保ち、「聖書は、最初から最後まで神のことばで、人間の考えだした哲学と調和させる必要はない。聖書に書かれていることばは、ありのまま受け入れるべきであって、人の哲学によって解釈すべきではない」という立場です。事実、ニュートンなど歴史上多くの科学者が6日間での創造を信じたクリスチャンでした。創造科学ということばは新しくても、内容は従来の聖書解釈の立場を防衛し堅持しようとするものです。

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創造科学について

 創造科学について多くの人が誤解していること、また、進化論者が誤解させようとしていることは、「創造論者が創造科学を純粋科学として扱おうとしている」ということです。これは、全くの誤りです。純粋科学であれば、目の前で繰り返し観察や実験ができ、同じ結果が導き出せるものです。これが純粋科学の定義の一つです。

 しかし、創造科学はこれまで起こってきた歴史に対する科学的状況証拠を提出しているのであって、純粋科学ではありません。

 なぜ科学ということばをつけるかということについて言えば、仮に進化が事実起こったとしても、それは歴史であり現在同じことを繰り返し観察することも実験することもできません。したがって、これは純粋科学の定義からはずれ、歴史を扱う学問です。それにもかかわらず、純粋科学の枠の中で進化論が議論されているために、少なくとも創造科学も進化論と同等には科学的であるということを示すために創造科学ということばを用いています。

 このことをわかりやすくするために、一つの例を示したいと思います。日本の警察は犯行があれば、それを調査し、犯人を割り出し、検挙します。警察は科学機関ですか。いえ、起こった歴史を検証している機関です。それでは、警察は科学的な捜査をしませんか。いえ、DNA鑑定、車の塗料の鑑定、タイヤに付着していた土の鑑定などによって、さまざまな科学的証拠を集めます。これらはすべて状況証拠ですが、もう一つ警察は証言という証拠を集めます。特に本人の自白は有力な証拠とされます。しかし、どんなに状況証拠がそろっていても証言がえられない場合、裁判で無罪となることが良くあります。それはなぜでしょうか。状況証拠はあくまでも「こういう犯行がおこりうる」ということを示しただけに過ぎないからです。

 創造論と進化論も全く同じと言えます。創造と進化という二つの歴史観に立って過去に起こったこと(あるいは起こり得なかったこと)の状況証拠を集めるのです。ですから、創造論も進化論もそれだけでは事実と信じる決定力はありません(もしこれを信じるなら信仰です)。しかし、創造論には、進化論にないものがあります。それは、創造者の証言である聖書です。証言に従って、科学的方法で調査していき、それに従った状況証拠が出てくれば、この証言が正しいことが証明されます。

 警察も証言を得て証言に従って、実地検証をします。実地検証と状況証拠が食い違う場合、証言に対する信憑性が疑われます。しかし、証言と状況証拠が一致すれば、その証言が正しい事が分かります。そのように、創造科学は歴史の実地検証をしているのです。

 進化論は一般に事実だと信じられていますが、それは、そういう教育がなされてきた結果であって、大学院レベルでは進化に反する多くの証拠が取り上げられ、それを進化論で説明できないかを研究しています。

 
「創造科学で現代科学と議論する」について

 創造科学は現代科学と議論していません。むしろ、現在よく証明されている科学法則、公理等を受け入れ、それを用いて創造の正しさを検証しています。ただし、進化論は、現代科学の背景にあるパラダイムであり、多くの科学者は、「進化論が事実だとしたら」という前提に基づいて結論を導きだします。したがって、多くの研究データが進化論の証拠として用いられます。しかし、同じデータから「創造が事実だとしたら」という前提に基づいて結論を導き出すことができます。そして、それを創造の状況証拠として用いることができます。

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「一度科学の舞台に出てしまえば、すべてを科学で証明する必要があります」について

 科学についてよく誤解されているのは、一般の人々が「科学でいわれていること」=「事実」と考えていることです。しかし、科学にはむしろ事実だと判別のつかない中立の事が非常にたくさんあります。それは、仮説として述べられていることで、証明されていないことです。しかもその仮説には、現実をよく説明しているものと現実からかけ離れて「机上の空論」として述べられているものがあります。進化論が後者に入ることは多くの誠実な科学者が認めています。ですから多くの場合、科学=事実ではなく、科学=データ解釈だと言えます。

 創造科学はすべてを証明しようとしているのではなく、また、する必要もありません。創造科学は聖書の証言を検証しているだけなのです。歴史を状況証拠だけで証明することは先程も述べたように不可能なことだからです。もしそれを証明しようとすれば、いわゆる冤罪を引き起こす可能性があります。

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「創造科学は人間の作ったものです」について

 創造科学は純粋科学ではないことをお話しました。たとえ純粋科学であってもデータについての解釈が入ってくる時、それは人間の考え、人間の作ったものとなります。すべての哲学(科学も哲学に含まれる)は人間の作ったものです。しかし、聖書のことばは創造主によって与えられたものであって、人が作ったものではありません。

 日本の大学院でゲノムを研究している科学者の中には、DNAと進化は全く関係がないと言っている博士たちもいます。DNAが進化を指示していると考えることは、その人の状況証拠に対する信仰に過ぎません。ゲノムの解析と進化論とは全く関係ありません。ゲノムの中に進化の道筋を見い出すことを目的に研究するならば、与えられたデータをそのように解釈することができるというだけに過ぎません。

 進化論者は、創造論が純粋科学を扱っていると決めつけて純粋科学ではない事を証明して創造論は間違っていると主張しますが、それは、歴史科学が純粋科学であると決めつけて歴史科学が純粋科学でない事を証明して、歴史科学が間違っていると主張するのと同じ事です。(実際には、歴史科学を非科学的という人はいません。また、創造科学=歴史科学ではありません)。

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「進化論と聖書の融合」について

 多くの人が進化論と聖書を融合させようと努力し、またそのような考えを広めています。ただし、そうするときに、聖書の教えがゆがめられてしまうことは避けられないことです。

 例えば、聖書では、死はアダムの罪によって入ったと述べています。しかし、進化が正しければ、進化は死と絶滅と病気と苦痛の歴史です。進化を是とするならば、死はアダムの罪によって入ったのではなく、その前からあったという信仰を受け入れることになります。(これは、アダムの罪によって入った死に打ち勝つためにキリストが十字架にかかる必要性があったとする聖書の教えを根底から破壊します。)したがって、聖書の教えはすべて事実として受け入れる必要がなくなります。そして何を事実とし何を事実としないかは個々人の判断に委ねられることになります。また、進化論と聖書両方を受け入れるなら、創造主が絶対存在しなければならない必要性が失われます。したがって、それを信じると多くのクリスチャンが、また、その子供達が聖書の教えに対する信頼を失っていきます。事実、この考えにより、創造主抜きでもすべての事が説明できると信じることにつながり、多くのクリスチャンホームの子供達が聖書を信じなくなっています。

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「量子物理学的に」について

 かつてニュートン力学が100%正しいと信じられていた時期がありました。それと同じ信仰をもって現在多くの人が量子力学が100%正しいと信じています。ニュートン力学は量子力学にとって代わりました。しかし、真実に忠実であろうとする大学院で勉強するなら、量子力学に対する疑問の声もあがっていることを学ぶでしょう。そして、別な力学が登場する可能性がいくらでもあります。それが「ない」と断定するならそれは信仰です。もし「科学哲学」を学ぶなら、このことはよく理解できるでしょう。

 物質が恒星によって作られたとするのは、創造者の存在を認めない進化論に基づいたデータ解釈に過ぎません。創造者を認めなければ他の方法で物質の存在理由を説明しなければならないからです。特に宇宙物理学は、実地見聞できる範囲が地球とその周辺に限られているので、多くの仮説の元に成り立っています。金星や火星や月などに探査機を飛ばした結果、仮説と実際が全く違っていた事がたくさんあります。実際に見聞できず、与えられたわずかなデータの解釈(宇宙論については進化を前提とした解釈)によって成り立っている現在の宇宙物理学を事実として全幅の信頼を寄せることは常識的に判断して非常に危険だと言えるでしょう。

 創造科学では物質の存在を進化によって説明する必要はありません。現在起こっている自然法則に従って説明する必要もありません。造り主がなされた創造のみわざは、超自然的な業だからです。創造主は超自然的な方法によって万物を創造した後、定めていた自然法則に従って万物が機能するようにしたからです。

 ヨブ記38章33節で「あなたは天の法則を知っているか。そのおきてを地に施すことができるか。」と主はヨブに尋ねています。そして、その他多くの主の問いかけに対してヨブは最後にこう答えます。「私は知ります。あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。」

 この態度が人間に求められているのではないでしょうか。万物に関するすべての知識を100とするなら、人間はどれだけ知っているでしょうか。現在、科学が急速な発展をしているために、多くの人は自分たちがすべてを把握しつつあると過信しています。しかし、ノーベル賞を受賞した科学者たちが「人間はすべての事についてどれだけ知っていると思うか」という問いに対して10%台が1人、他は1桁かあるいは1%もゆかないと考えていました。創造主の英知と比べるなら、私たちは何を「自分は知っている」と言えるでしょう。聖書の告げていることに対してそのまま受け入れず、「人間のこの世界の解釈と違うから聖書のことばを別な意味に解釈しよう」とするなら、その人は「もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の言葉を取り除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、取り除かれる。」(黙示録22:18-19)に該当する事になるでしょう。

 聖書は、まず科学があって造り主がいると教えているのではなく、造り主がいて科学法則があると教えています。科学は創造主の存在原因も存在理由も説明する必要はないし、説明することもできません。それは、科学によって造り主が造られたのではないからです。現代科学の背景にある哲学は、人間をこえる知能を認めません。したがって、科学にはおのずと限界があるのです。創世記の最初に「はじめに神は天と地とを創造された。」と書かれています。これは、創造主がおられる事の宣言であって、科学的説明を必要とするものではありません。

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疑問1について

聖書では、神が6千年前に宇宙を作られたと説きます。すると、光速は宇宙空間でほぼ一定なので、6千光年以上先の宇宙の光は届かない計算です。ところが、今日の「スバル」や「ハッブル」などの宇宙望遠鏡は、130億光年先のクエーサーの宇宙背景放射を鮮明にとらえています。つまり、130億年前の光を現在観測している訳です。宇宙誕生6千年とつじつまが合わないのはなぜでしょう。

 かつて、光速は一定だと考えられていました。しかし、現在の物理学の最先端ではこの考えに疑問を投げかける声があがっており、さらなる研究が必要だとしています。星の距離を測る方法で仮説を必要としない方法は、1つだけで、それは、近距離の恒星しか測れません。それ以外の方法は仮説に基づいていて、その仮説が間違えば距離も全く違ったものとなってしまいます。また、仮に、130億光年が事実だとしても、物理学で物質の飛行速度と時間に相関関係がある事が分かっています。ラッセル・ハンフリーズ博士(創造論科学者)の仮説では地球上では数千年しか過ぎていなくても、遠い星ほど時間が過ぎている可能性を説明できます。

 クエーサーについて言えば、130億光年離れていると考えている天文学者もいれば、そんなに離れてはいないと考える天文学者もいます。離れていないとする理由は、もし130億光年も離れていたなら、星の光度が非常に弱いはずです。しかし、実際に発見されるクエーサーを見る時、余りにも明るすぎるのです。130億年と考えるのは、ビッグバン宇宙論を正しいと仮定した上で一つの可能性として出された結論であって、誰ひとり実際にその距離を測る事はできません。それを事実とするのは信仰です。科学書を見る時、ほとんどの場合、「〜と思われる。」「〜であろう。」という推測の表現になっているはずです。しかし、人はその表現を「である。」と100%のことだと勘違いして読んでしまう科学信仰があります。

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疑問2について

生物の化石の出来る行程は理解しました。しかし、三葉虫やアンモナイトの層から、生息場所も移動速度も大差ないと思われる海老や貝の化石が出ません。それらの生物は、恐竜よりも上の層から出土します。化石の堆積順番が現在の進化論と一致するのはなぜでしょう。

 生物には「すみわけ」ということがあります。同じ環境に見えるところでも必ずしもそこに生息していなければならないと言う理由はありません。また、三葉虫が発見される地層から、貝の化石も発見されています(一例を挙げるとインディアナ州マディソン近郊の丘陵地の進化論ではオルドビス紀とされる地層)。化石が必ずしも地質柱状図の通りに出てこない事は、化石の発掘に携わっている人ならよく知っています。しかし、多くの場合、進化論者は進化論に関係のない化石が出てきても研究に関係がないので、ただ無視します。そして、それらの化石が発見された事は発表しないため、一般の人は無視された化石は発掘されなかったと解釈してしまうのです。しかし、大学院レベルでは(良心的な大学院では)これらの事を学ぶ事ができます。

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疑問3について

ノアの洪水では、多くの恐竜や人間が犠牲になりました。しかし、恐竜の化石と一緒に人の化石が一つも出ません。人の化石が出るのは遥かに上の層であるのが不思議です。また、その間に魚介類の化石もサンドイッチの状態で採取されています。化石の堆積行程と矛盾しているのはなぜでしょう。

 人間は恐竜と同じ時代には生きていましたが、同じ場所で生きていたと考えるのは難しいでしょう。特に大型恐竜と人間が一緒に生活していたなら、人間はわけもなく踏みつぶされてしまうでしょうから。ふつう人間は人間同士で集まって生活をします。その中にいる動物は家畜やペットだけで、ライオンや狼などの猛獣が何百匹もいる中で生活はしないでしょう。それができると考えるならば、恐竜の化石と一緒に人間の化石もたくさん見つかると考えられるでしょう。

 近年、化石化していない恐竜の骨が発見され、その骨の中に、恐竜の赤血球がありました。この事実から一つ言える事は、もし恐竜が進化論の言うように、6500万年前に絶滅していたのなら、赤血球が破壊されずに残されている事はあり得ないと言う事です。現在、恐竜が最近まで生きていた可能性を示す仮説を模索している進化論者もいます。

 化石ができたのはすべてノアの洪水によると考える必要はありません。事実、洞窟で発見されたと発表されたヒトの化石で実際にはただの洞窟ではなく鉱山だったという事があります。これは、鉱物を掘っている時に何らかの形で生き埋めになり、化石となってしまったという事も考えられます。人間は泳いだりそこらに流れている丸太につかまったりして洪水からできるだけ生き残ろうとしたでしょう。この場合、化石になる可能性は非常に低くなります。

 また、化石は非常に長い期間ないとできないと考えるのも間違いです。世界各地から時計の化石、ハムの化石、帽子の化石といったものも見つかっています。

 地層の中に地質柱状図の通りにカンブリア紀から現代までのすべての層がならんでいるところはどこにもありません。これは机の上だけでその通りに並んでいます。進化論者自身も地層が柱状図どおりでない事を認めています。また、そこに含まれている化石が柱状図の通りでない事を認めています。柱状図では化石が入っていなくても、実際には発掘されている事はいくらでもあります。ただそれが発表されていないだけです。また、進化論者は単にそこに含まれている化石を照合してこの地域のこの層はこの時代とします。それは進化が事実であれば有効な方法と言えるでしょうが、事実でなければ全く無意味な事をしている事になります。

 地層が長い年月をかけてできているという仮説は実証できない仮説です。また、それに対する反証もたくさんあります。例えば、植物でも動物でも長い間地表においておけばどうなりますか。風化したり腐ったりしてなくなってしまうでしょう。しかし、見つかる化石の多くは、葉脈がある、肉がついたまま、まだ消化されていない魚がお腹に入ったままの魚などです。また、現在地層ができる方法も、河口で運ばれてくる土砂が堆積してできたり、火山の噴火で降ってきた物が短期間で層になるなどです。地層が長い年月をかけてできる様子を観察した人はだれもいません。

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疑問4について

地層を見ると、動かないはずの石器や住居跡が動物の上にあります。恐竜と同じ地層に、人間の道具や住居跡が見つかりません。住居跡の上には、更に別の動物の化石が見つかります。動かない物が、なぜ生物の上に出土するのでしょう。また、それらが下の層から出ないのはなぜでしょう。

 地層が長い年月をかけてできたと考えるなら、下の層から住居跡が発見されてもおかしくないでしょう。しかし、聖書は「おおいなる淵の源がことごとく破れ」と言っています。これは、おそらく地面が割れて地下水が噴出した事を物語っています。世界中を飲み込んだ大洪水で、しかも、大地殻変動が起こったのにも関わらず、その住居跡が発見できるという可能性はあまりないように思えます。

 また、創世記は、人間が最初は原始的だったとは教えていません。アダムの息子のカインは農業を営み、アベルは家畜を飼っていました。また、その数世代後には、鍛冶屋や音楽家が生まれました。これは、まだアダムが生きている間だと聖書は言っています。聖書の中には、原始的と言われる石器を何千年にもわたって使っていたような事を教えていません。仮に使ったとしてもごく短期間だったでしょう。しかし、洪水後の世界では、人々が世界中に散らされた後、それぞれの地で生き残っていくためにその場で一番得やすい石器などを用いて生活するようになったのでしょう。だから、日本でもたくさんの石器が発見されます。それらは、洪水後の人間が作った物と考えられます。ですから、このような物が地中深くから発見される事はあまりないでしょう。

 様々な進化論の仮定に基づいて聖書を見る時、聖書と矛盾するように見える事はたくさん出てきます。ですから、聖書は進化論の仮定とは全く切り離して、聖書の示している言葉を事実として理解しなければなりません。石器時代という考えはあくまでも進化論に基づいた仮定です。進化論の仮定を前提に考えるなら、聖書に対する多くの疑問点が沸き上がります。そういう意味でも進化論と聖書とを融合すると言う事は危険な考えです。

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疑問5について

聖書によると、果物の生る木はアダムと共に最初からありました。ところが、下の方から出土するのはシダや実の生らない植物ばかりです。それらは、最初の哺乳類の化石が出た上から出土します。同時に恐竜の化石は出ますが、人が出るのはずっと上層部からです。この様に、植物の化石の出土が聖書と一致しないのはなぜでしょう。

 これも地層が長い年月をかけてできたことを想定した質問です。
グランド・キャニオンのハカタイ・シェールの先カンブリア紀とされる地層からシダ植物やコケ類だけでなく、種子植物の花粉の化石も発見されています。進化論の仮定ではいずれも先カンブリア紀から発見されるはずがありません。進化論では、多くの事が事実として流布していますが、このような事実を一つあげるだけでそれが事実でない事が分かります。

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疑問6について

宇宙についてもう一つです。観測によると、遠方の恒星ほど光の全波長が赤方偏移しています。こうした観測結果を得るには、二つの理由以外に真実がありません。
  1.地球を中心に、遠くの星ほど昔に出来た。
  2.宇宙はビッグ・バンにより誕生し、現在も膨張している。
これは、どちらの説も神の6日間創造を否定する材料となります。例えば、神が作って膨張させたとしても、6千光年以上彼方の銀河が観測できる理由を説明できません。

 これは循環論法です。現在、最も遠い恒星の距離を測る方法とされるのが赤方偏移によるものです。簡単に言えば、「赤方偏移が大きいものほど遠い星」と定めています。それを既成事実として「遠方の星ほど赤方偏移している」というのは論理的な考えではありません。例えば、仮に「近い星ほど赤方偏移しているという」と仮定して、近い星の表を作ります。そうすると、近い星ほど赤方偏移している事になります。これを事実と信じて「近い星ほど赤方偏移しているのはなぜか」と言っているのと同じ事です。

 2つの理由以外に真実がないという断定は勇み足と言えるでしょう。疑問1のラッセル・ハンフリーズ博士の仮説は、地球上では数千年しか経っていなくても遠距離では何十億年も経っているということが説明できます。

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結論

 私たちは、知らず知らずのうちに聖書以外から得た情報で聖書を解釈しようとします。それは、学校教育などにより、「学校で学んだ事はみな正しい」という思いを植え付けられているからです。また、「現在の科学は真理である」という信仰も植え付けられているのです。しかし、実際には、科学には証拠によってよく証明されている仮説から全く証拠のない仮説まであります。そして、それを全部ひっくるめて真理だと信じている傾向があります。そして、もし誤った情報を真理として真理を調べるなら、真理が誤りであるという結論に達します。ちょうど進化の仮定に基づいて聖書を調べ、聖書が進化と食い違っているから聖書は誤りであるとするのと同じです。

 真理は真理によって解釈しなければなりません。すなわち、聖書は聖書によって解釈されるべきです。これは、考古学についても言えます。ノアの洪水と似た話は世界中に残されています。しかし、多くのリベラルな神学者や進化論者は荒廃したニネベの町の大図書館から発掘されたギルガメシュ叙事詩に出てくる洪水の記事が先にあったと主張し、聖書がそれを真似たのだと結論をくだしました。そして、多くのクリスチャンもそれを真に受けて聖書の歴史性を疑うようになりました。どちらが正しいでしょうか。造り主であり、すべての歴史をご覧になった方の証言を信じるべきでしょうか。それとも人間が過去を振り返って推測した仮説を信じるべきでしょうか。

 このことは、私たちの信仰に深く関わる絶対に譲れない一線なのです。もし譲るなら、みことばに対する絶対的な信頼を失う事になるのです。現在、火を見るよりも明らかな事は、聖書が疑似科学である進化論によって攻撃されているという事です。ですから、それに対して弁明しなければ、多くの人は進化論のことばを一方的に信じ込み、聖書を疑うようになります。聖書は「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(1ペテロ3:15)と命じています。ですから、クリスチャンは、自分の信仰の防衛のためだけでなく、人々が全幅の信頼をもって聖書を信じる事ができるように弁明する事が大切なのです。

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