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お祈りのあとや賛美歌の終わりに、「アーメン」と言いますがそれは「本当に、その通りです」という意味です。イエスは「忠実で、真実なお方」ということで、「アーメンである方」と言われています(黙示3:14)。イエスはまた、重要なことを話し始められるときに、「よく言っておく」という言葉を用いられましたが、それにも原語では「アーメン」という言葉が入っています。(マタイ5:18; マルコ9:1; ルカ4:24; ヨハネ1:51)
日本語では「愛」という1語でも、ギリシャ語では3種類の愛が区別されています。
(1)エロース(自己中心的愛)
(2)フィレオ(友愛、兄弟愛)
(3)アガペ(自己犠牲的愛)
聖書で神に関して用いられているのは、アガペです(Iヨハネ4:8、16)。愛の特質はIコリント13章に書かれていますが、アガペはよく親の子に対する愛になぞらえられています。(1コリント13章)
01 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
02 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
03 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
04 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。
05 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
06 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
07 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
08 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
09 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
10 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
11 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
13 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
伝道集会などで「証しをする」といいますが、これはイエス・キリストを通して受けた祝福の体験を話すことです。ですから証しは自分の経歴や過去の業績などの紹介ではなく、主が自分にして下さったことを紹介することです。悪霊につかれていた男を癒した時イエスは言われました「主がどんなに大きな事をして下さったか、またどんなにあわれんで下さったか、それを知らせなさい」(マルコ5:19)。このように、証しは「聖書が言っていることは本当です」と証明・宣言する事です。その意味でクリスチャンは証人なのです。以下に聖書の箇所を挙げておきますので、参考にして下さい。(ヨハネ1:15,32-34; 使徒1:8; 22:20; 1テモテ6:12; ヘブル11:39; 12:1; 黙2:13; 12:11)
これは難しい漢字の言葉ですが、「購う」とも書くことができることから分かるように、買うことに関係している言葉です。ただし単に買うのではなく、聖書の原語であるヘブライ語やギリシャ語では、「買い戻す」という意味の言葉が使われています。つまり、いったん自分の借金のために手渡したものを、もう一度お金を払って「買い戻す」事を意味する言葉なのです。私たちは神の前において全て罪びとですから(ローマ3:23)、本来ただ滅びの中に右往左往しているしかない者でした。しかし、イエス・キリストが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)としてこの地上に来られ「贖いの代価とし、自分の命を与え」(マタイ20:28)てくださったのです。この業を信じ、彼を主として受け入れる人に救いは訪れるのです。
神が定められた休息の日です。神が天地万物を創造され、それをなし終えたときに休息されたことに始まります(創世2:1-3)。 さらに十戒の一つとして、その日を聖く保つように命令されました(出エジプト20:8-11; 31:13-17; 申命5:12-15)。イスラエルの民は、この日を単に休息の日とするだけでなく、神への礼拝の日としました。(レビ23:3)。 イエスはこの日を律法的(=規則づくめ)にとらえないようにと教え(マタイ12:1-12; マルコ2:23-28; ルカ13:10-17; ヨハネ5:16、17)、使徒パウロもそうしました。イエス・キリストの復活後、週の初めの日(=日曜日)を聖日として守るようになったのです。
復活節とも言い、イエス・キリストが死からよみがえられたことを記念する、教会暦中でも最も古い祝日です。使徒時代にすでに祝われたようです。ギリシア語やフランス語での呼び方(パスハ)が、ヘブライ語の「過越し」を意味する語に基づいていることからも分かるように、初めのころはユダヤの過越しにならって祝われたこともあったようです。しかし、後にニケアの会議によって、春分の次の満月の後の日曜日を復活日とすることになりました。ですから、現代でも復活日はその年によってかわるのです。復活が早朝の出来事であったことから、所によっては早朝や、午前0時の礼拝が持たれたり、また新緑を迎える春の地球を型どったイースター卵を用いて、復活されたキリストを祝う習慣が今も行われています。
天地万物の創造者、神の御子、救い主。ヘブル語では「イエホシュア」つまりヨシュアといい、「救い主」の意味です。「イエス」はこれをギリシャ語で音訳した名前です。イエスの生涯やその活動、教えについては4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に詳しく書かれています。ヘロデ王の時(8B.C.-A.D.4)ユダヤのベツレヘムに生れました。使徒信条にその生涯の全貌が要約されています。一般社会でもイエスの誕生をクリスマス(降誕節)、死からのよみがえりをイースター(復活節)と呼んで記念しています。救い主イエスに対する信仰によって人々の心と生活が変えられ、社会と歴史が変えられてきました。また、B.C.というのは Before Christの、A.D. というのは、Anno Domini「私達の主の年の」という意味です。
本人が知らない他国の言語で話すことです。イエスの昇天後、最初のペンテコステの日(五旬節)に、弟子たちに与えられた賜物です(使徒2:1-4)。キリストに関するあかしがエルサレムに集まっていた外国人に分かるように与えられたあかしのための賜物であり(使徒2:5-11)、 これは預言されていたことの成就でした(使徒2:16-21;ヨエル2:28,29)。
特殊な賜物なので、混乱が起きないようにと、パウロは細かな注意を与えています(1コリント12:10,28,30; 13:1,2,8;14:2,4-28,39)。 現代にあっても、異言を重視する教会がありますが、パウロが言っているように、「全きもの」つまり新約聖書が整えられるまでの、聖霊による導きの方法の「一部分として」(1コリント13:8-10)、初代教会に与えられた賜物と考えられています。
(1Co.14:2) 異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれにもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけである。
(1Co.14:4-28) 異言を語る者は自分だけの徳を高めるが、預言をする者は教会の徳を高める。5 わたしは実際、あなたがたがひとり残らず異言を語ることを望むが、特に預言をしてもらいたい。教会の徳を高めるように異言を解かない限り、異言を語る者よりも、預言をする者の方がまさっている。6 だから、兄弟たちよ。たといわたしがあなたがたの所に行って異言を語るとしても、啓示か知識か預言か教かを語らなければ、あなたがたに、なんの役に立つだろうか。7 また、笛や立琴のような楽器でも、もしその音に変化がなければ、何を吹いているのか、弾いているのか、どうして知ることができようか。8 また、もしラッパがはっきりした音を出さないなら、だれが戦闘の準備をするだろうか。9 それと同様に、もしあなたがたが異言ではっきりしない言葉を語れば、どうしてその語ることがわかるだろうか。それでは、空にむかって語っていることになる。10 世には多種多様の言葉があるだろうが、意味のないものは一つもない。11 もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。12 だから、あなたがたも、霊の賜物を熱心に求めている以上は、教会の徳を高めるために、それを豊かにいただくように励むがよい。13 このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。14 もしわたしが異言をもって祈るなら、わたしの霊は祈るが、知性は実を結ばないからである。15 すると、どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。 16 そうでないと、もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか、彼には通じない。17 感謝するのは結構だが、それで、ほかの人の徳を高めることにはならない。18 わたしは、あなたがたのうちのだれよりも多く異言が語れることを、神に感謝する。19 しかし教会では、一万の言葉を異言で語るよりも、ほかの人たちをも教えるために、むしろ五つの言葉を知性によって語る方が願わしい。20 兄弟たちよ。物の考えかたでは、子供となってはいけない。悪事については幼な子となるのはよいが、考えかたでは、おとなとなりなさい。21 律法にこう書いてある、「わたしは、異国の舌と異国のくちびるとで、この民に語るが、それでも、彼らはわたしに耳を傾けない、と主が仰せになる」。22 このように、異言は信者のためではなく未信者のためのしるしであるが、預言は未信者のためではなく信者のためのしるしである。23 もし全教会が一緒に集まって、会員が異言を語っているところに、初心者か不信者かがはいってきたら、彼らはあなたがたが気が変になったと言うだろう。24 しかし、全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいってきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、25 その心の秘密があばかれ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白するに至るであろう。26 すると、兄弟たちよ。どうしたらよいのか。あなたがたが一緒に集まる時、各自はさんびを歌い、教をなし、啓示を告げ、異言を語り、それを解くのであるが、すべては徳を高めるためにすべきである。 27 もし異言を語る者があれば、ふたりか、多くて三人の者が、順々に語り、そして、ひとりがそれを解くべきである。28 もし解く者がいない時には、教会では黙っていて、自分に対しまた神に対して語っているべきである。
(1Co.14:39) わたしの兄弟たちよ。このようなわけだから預言することを熱心に求めなさい。また、異言を語ることを妨げてはならない。
聖書の真理と異なる教えのことです。既に、使徒の時代にも異端の活動はあり、人々を間違いに導き分裂、分派を引き起こしました(2ペテロ2:1; ガラテヤ5:20)。彼らの特徴は、キリストが神であることを否定し(1ヨハネ2:22)、その受肉や復活を否定する事です(1ヨハネ4:2; 1コリント15:15)。
イエスは早くから、偽キリストの出現を予告しています。「その時、・・・・偽キリスト達や、偽預言者達が起って、しるしと奇跡とを行いできれば、選民も惑わそうとするであろう。だから気をつけていなさい。」(マルコ13:21-23)。また申命18:22には「もし預言者があって主の名によって語ってもその言葉が成就せず、またその事が起こらない時は、それは主が語られた言葉ではない。その預言者を恐れるに及ばない」とあります。
祈りというのは、家庭生活を考えあわせると、よくわかります。もし私たちにとって家庭が単に寝起きし、食事をする所であるに過ぎないならば、家は何と空しい所であることでしょうか。「家族の団らん」は暖かい語らいを切り離しては考えられません。聖書のみことばはよく日毎の糧に譬えられますが、ちょうど私たちが、毎日養って下さる親との語らいを大切にするように、日々私たちを愛し導いて下さる神との語らいの時が祈りなのです。ですから祈りには嘆願だけではなく、感謝・賛美・告白・傾聴などの要素があります。私はよく祈りを通してイエス様に相談します。人間の親が子供の望むものすべてを叶えてあげるものではないように、神が私たちの嘆願すべてを叶えて下さるとは限りません(2コリント12:8-9)。むしろ「御旨に従って願い求める」(1ヨハネ5:14)ことが重要なのです。
神の選民であるユダヤ人以外の国々の人のことをさします。ですから、私たち日本人も異邦人なのです。旧約聖書では神が異邦人との結婚を禁じたり、その習慣に習わないようにと度々警告しています(例:エレミヤ10:2など)。それは異邦人達の偶像崇拝を神が嫌われたからです。しかし、イエス・キリストが来られたのは異邦人をも含む、全人類の救いのためでした。しかもこのことは既に旧約に預言されていたのです。「私の支持するわが僕、私の喜ぶわが選び人を見よ。私はわが霊を彼に与えた。彼は諸々の国びとに道を示す」(イザヤ42:1)。パウロは唯一神信仰と厳格な律法主義をもってクリスチャンを迫害した人でしたが、キリストに出会い、福音が異邦人にも向けられている事を知らされ、全世界への壮大な伝道にその生涯を捧げたのでした(使徒26章)。
霊感によって将来の運命や出来事を予言することです。さまざまな道具を使ったり、自然現象の現われかた、夢などで判断しようとするのです。聖書は厳しく禁じています(例:申命18:9-14; レビ19:26; エレミヤ27:9)。 それというのも、占いは貪りから出てくる偶像礼拝に深く結びついたものだからです。使徒行伝16:16-18には、ピリピの町でパウロが「占いの霊に憑かれた若い女奴隷」に会い、その汚れた霊を追い出した事が記されています。ここからわかるのは、占いの行為が汚れた霊と深く関わっている事です。最近では血液型やコンピューターを使った、運命決定的な性格判断が形を変えた新種の占いとして行なわれていますが、生けるまことの神から離れて真の平安はありません。私たちを愛してやまない主は人間の歴史を貫いて、聖書のみことばを通して私たちに語りかけておられます。
イエスを救い主と信じる人に与えられる賜物です。聖書にはこう書かれています、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。それは時を超越した、神との交わり、霊的いのち、天的資産です。
ではなぜクリスチャンでも死ぬのでしょうか?それは、罪からの救いはイエスを信じた時に始まり、私たちがこの世の生を終える時に完成するからです。死は罪への罰としての意味を持っていますが、クリスチャンにとっては、死はこの肉体の世界から神の世界に、また滅びつつあるこの世から天のパラダイスに行く門口という意味に変わったのです。ですから、クリスチャンにとって死はもはや恐れの対象ではなくなったのです。(ルカ18:30; ヨハネ4:14; 6:40; 17:2,3; ローマ2:7; 1ヨハネ5:13 など参照)
一般的には名声、威勢、優越性、栄華などの意味で用いられていますが、聖書では神の完全性、卓越性、聖性、慈愛、大能、臨在などの現われとして用いられています。「栄光」をあらわすヘブル語が「カボード(重い)」であることからもわかるように、もともと荘重とか威厳を意味する言葉です。たとえば、神殿に当たる神の幕屋を荒野で建造したとき、「雲は会見の天幕を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の幕屋に、入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである」(出エジプト40:34、35)。このように、旧約では近づき難い神を表わす言葉でした。しかし、イエスは「父のみもとから来られたひとり子としての栄光」(ヨハネ1:14)であり、「神の栄光の輝き」(ヘブル1:3)でした。栄光の神が私たちの真只中に来て下さったというのが聖書の宣言です。
聖書の神の固有の名前で、「主」と訳されています。主ご自身が「私は有って有る者」(出エジプト3:14)とその意味を説明しておられます。ヘブライ語には母音に相当する文字がなく、全て子音字です。読む時はもちろん母音に相当する音をつけて発音するのですが、「主の名をみだりに唱えてはならない」(申命記5:11)の戒めに従って、この主を表わす神聖四文字(テトラグラマトン)を、ユダヤ人は決して発音しないことを伝統としました。そのため、今日に至るまでその本来の読み方は伝わっていません。そのかわり、ユダヤ人はこの四文字を「私達の主」を意味する母音をつけて、「アドナイ」と読むことを慣例にしています。「エホバ」と発音するのは、中世の頃から広く流布するようになった誤読です。正しくは「ヤハウェ」に近い発音だっただろうと推測されています。私たちも、たとえ本名であっても父親を名前で呼ぶことは畏れますが、父なる神であればなおさらですね。
イスラエル人はアブラハムの選びと出エジプトを土台として、自分達が主なる神の恵みにより選ばれた、聖なる民である(申命7:6)という信仰を持ちました。しかし、それはこの民が強大なためではなく、むしろ弱小であったためである(申命7:7)と言われていることからも分かるように、選びは人間の選ばれる資格を問題にせず、まったく神の「愛」と「真実」とによるのです。しかし「あなた方は応じようとしなかった」(マタイ23:37)とイエスが言われたように、この選びは拒み得るものです。選びへの招きはすべての人に向けられていますが、すべての人が招きを受け入れるとは限りません。 私達にはなお自由意志があって、神が引き寄せて下さることに従うことも拒むこともできるのです。使徒7:51; 2:41; ヨハネ1:12参照。
マタイ7:12とルカ6:31にある、主イエスのことばをさしています:「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である」。
18世紀頃から「黄金律」という名で呼ばれるようになりましたが、キリスト教倫理の根本原理を最も的確に表現したものと考えられています。「法律は何をしてはいけないかを示すが、何を為すべきかを示さない」とある法律学者が書いていました。これに対して、イエスが何をなすべきかを明示された事は、画期的なことでした。ジェームズ・マロリーという心理学者によれば、人間関係において私達が発する言葉は、建設的か破壊的かのどちらかだそうです。そうであるとすれば、どのようにして建設的になれるかという事ひとつにも、この黄金律は的確に答えています。
奥義とか secret(シークレット)とか聞くと、何か秘密めいていて、常人にはとうてい理解できない事柄をさすように思われるかもしれません。しかし辞書に「学問・技芸などを究めるために会得しなければならない、本質に関わる事柄」(大辞林)とあるように、この言葉はキリスト教にあっては神の啓示によってはじめて明らかにされた、救いの福音をさしています。パウロはエペソ人への手紙の中で、つぎのように明確に述べています:「この奥義は今は御霊によって彼の聖なる使徒達と預言者達とに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。それは、異邦人が福音によりキリスト・イエスにあって、私達と共に神の国をつぐ者となり、共に一つの体となり、共に約束にあずかる者となることである」(エペソ3:5、6)
「恵み」とも「恩恵」とも言われます。これらの言葉は私達の日本語では、「おなさけ」とか「お陰」といった意味合いで使われるため、聖書の意味するところがなかなか伝わらないのですが、イエス・キリストの生涯、特に死と復活を通して示された神の愛を言い表わす言葉なのです。エペソ書2:8、9にはこう書かれています:「あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行ないによるのではない。それは、誰も誇ることがないためなのである。」
ギリシア語で恵みという言葉は、喜びとか与える事と結びついています。プレゼントは拒絶することもできますが、喜びは受けることから始まります。救いという高価なプレゼントに代価はつけられません。それは恵みです。