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唯一神論預言・預言者予定説予型・予型論よみがえり律法リバイバル霊感霊的礼拝レビ人レント


《唯一神論(ゆいいつしんろん) [monotheism] 》



《預言・預言者(よげん・よげんしゃ) [prophesy, prophet]》

 ノストラダムスなどにより、近頃「予言」という言葉がたくさん聞かれるようになりました。この予言というのは“未来に関する予告”という意味ですが、聖書の「預言」はこれとは異なります。聖書では預言は推奨されていますが、予言は占いとして厳しく禁じられています(申命18:9-14; レビ19:26; エレミヤ27:9)。それというのも、占いは偶像礼拝に深く結びついたものであり、汚れた霊と深く関わっているからです。これに対して、「預言」とは神からのメッセージを預かって、人々に伝えるもので、未来に関する事も含みますが、過去を反省させ、現在に関して正しい決断をするように迫るものです。イエスも預言者としての働きをされ(マタイ13:57)、パウロも預言者でした(使徒16:6)。また、聖霊の賜物の一つでもあり(1コリ11:4)、預言の賜物を求めるよう奨めています。

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《予定説(よていせつ) [predestination]》

 神が信じる者を救い、信じない者は滅びに、と予定しておられることをいいます。16世紀の神学者カルビンによれば、神は全てのものの創造に先立ち、誰が天国に行き誰が地獄に行くかを決めてしまったといいます。あらゆるものが事前に無条件に決定されたというこの見解は「予定説」と呼ばれています。しかし神は全ての人が救われることをお望みで(1テモ2:4)、全ての人のためにキリストは十字架で身代わりの死を成し遂げて下さいました。神は特定の罪びとを選んで信仰者とするべく予定するのではありません。むしろ神はあらかじめ知っておられるすべての信仰者を選んで、天に住むべく予定して下さるのです。罪びとの誰が信じる者となるかということは神がお決めになることではありません。決定権は罪びとの方にあるのです。

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《予型・予型論(よけい・よけいろん) [type, typology]》

 聖書解釈の仕方として古くから用いられてきた方法の一つです。旧約聖書と新約聖書との内的な関連性を予想して、旧約聖書の中に新約聖書のキリストと十字架の雛形としての予型を見つけだして理解しようとする解釈方法です。たとえば、イエス御自身が言われたように、モーセによって荒野で杖に掛けられた青銅の蛇や、三日間大魚の腹の中にいたヨナは、御自身の贖罪と復活の予型とされました(ヨハネ3:14,マタイ12:40)。初期キリスト教の教父たちはこの方法によって、イエスがキリストであることを旧約聖書をもとに論証しました。しかし、この方法では解釈に当たって比喩的解釈が多用され、恣意的になりがちなので、歴史的・実証的な研究が盛んになるにつれて用いられなくなりました。

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《よみがえり [resurrection]》

 主イエス・キリストが十字架で死んだ後復活されたこと。これは蘇生とは異なります。「蘇生」というのは呼吸の止まった仮死状態の人が息を吹き返すことや、気を失っていた人が意識を取り戻すことを指す言葉です。これに対して「復活」というのは、完全に死んだ人が再び生き返ることをいいます。仮死状態から蘇生してきた人は、通常、衰弱しきっています。また、蘇生者はやがてはまた必ず死ぬべき元の体に生き返ったに過ぎません。この2点において、イエスのそれは蘇生ではなく復活だったと聖書は証言しています(1コリント15:12-58)。キリストは死ぬことのない、朽ちないみたまに属するからだに甦られたのです。主イエスの甦りは、主イエスの神性の保証(ロマ1:4)、罪の赦しの保証(1コリ15:17)、クリスチャンの復活の保証です(1コリ15:20)です。

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《律法(りっぽう) [law; νομοs(ノモス); トーラー(H)]》

 ギリシャ語やヘブル語ではこれは「法律」という意味の単語ですが、日本語では一般の法律と区別するために語順を逆にした訳語が当てられました。ただ、ヘブル語では、一般的な意味での法律に加えて、モーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記民数記、申命記)をさしたり、時には旧約聖書全体をさして用いられることがあります。そういう意味で聖書、特に旧約聖書には膨大な数の律法が書かれていますが、律法を守ることによって救われ天国に行けるのではありません(ロマ3:20)。律法は私達に罪を知らせてくれ(ロマ7:7)、救いはキリストによって与えられるのです(ロマ8:3)。律法を重んじるあまり、律法を行わなければ救われない、とする主張を律法主義と言います。この立場は外側の行為にのみ関心がいって、内面的・霊的な事をおろそかにしていると、主イエスは戒められました。

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《リバイバル [revival] 》

 信仰復興とか霊的覚醒と訳されています。クリスチャンや教会の霊的状態がマンネリ化し、形だけのものとなって活力が失われた状態を、もう一度原点に立ち戻って、新しい命の躍動するものに造り変えられることを意味しています。この意味で旧新約聖書時代から今日に至るまでの教会史全体を通じて、リバイバルは様々な形で起こってきました。しかし、リバイバルは明らかに神のなされる御業であって、人間の側の単なる熱心さや努力、プログラムや集会参加だけによってもたらされるものではありません(エゼキエル36:22-27)。また何か目を奪うようなことが起きるかどうかによって決まるのでもありません。初代教会のクリスチャンたちの信仰生活は、迫害の中にありながら互いのために祈り合い、互いに罪を言い表し、励まし合いながら愛をもって共生の生活を歩んでいました。

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《霊(れい) [spirit; πνευμα(プネウマ); ルアハ(H)]》

 霊を意味するヘブル語の“ルアハ”にはいくつかの意味があります: (1)風、気、息の意味では、特に人に吹き入れられたいのちの息がアダムの創造の時に使われています(創世1:2)。ここから魂や心と同じく、(2)人間の知的な意志的な働きを表します(ヨブ20:3)。さらに霊は(3)悪い霊、見えない精霊の場合にも使われています(士師9:23)。しかし、霊が聖書や神学で特別に重要なのは、(4)聖霊としてです。聖霊は預言や宣教において働き、私たちの告白と祈りと讃美・礼拝を導き、またクリスチャンと教会との内に働くキリストの霊、神の霊として私たちにバプテスマの時にその賜物が与えられます(使徒2:38;コロサイ2:12)。このように私たちは物質的存在に神の霊を吹き込まれたのであり、神は霊の方ですから(ヨハ4:24)、神と人は交わりを持てるのです。

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《霊感(れいかん) [inspiration]》

 統一協会の霊感商法や、流行の占い師の売り物になっているイメージが強いことばですが、キリスト教では“聖書を書かせるために、神が著者たちに与えた特別な力”を意味しています。次のように書かれています:「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(2テモテ3:16)。聖書の著述に直接用いられた人は約35名ですが、このように神はある特定の人々に聖霊を注ぎ、あやまちのないように、ご自分の思いを啓示されそれを書物として書かせました。つまり、聖書の著者やそのすべての言葉に神が直接に関与されたのです。聖書には次のように書かれています:「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」(1ペテロ1:21)。

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《霊的(れいてき) [spiritual] 》

 「肉的」あるいは「世的」に対する言葉で、精神的、聖書的、クリスチャン的といったことをさしています。一般に、霊的なことを奨励し、肉的なことは避けるべきだと考えるのが聖書的であるように思いがちですが、興味深いことに、C・S・ルイスというアメリカの有名なクリスチャン作家はその作品「悪魔の手紙」の中で、キリスト者に成り立ての青年を担当する小悪魔への伯父悪魔の助言として、こう言わせています:「必ず(青年の)祈りが非常に“霊的”であるようにし、いつも母親の魂の状態を心配して、リューマチのことは一向心配しないようにさせなさい。」これは私たちが陥りやすい誤ちを的確に表していると思います。私たちは肉的なものと無関係に生きていくことはできません。大切なことは肉の「支配下」に生きるのでなく、霊に従って歩む事なのです(ロマ8:5-11)。

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《礼拝(れいはい)[worship; λατρεια(ラトリア); アボダ(H)]》

 旧約では元々“労働する、仕える”という意味の言葉で、犠牲と供物を神に捧げることをさしていました。しかしダニエル書の預言通り(9:27)、犠牲と供物を廃するメシヤが到来した新約では、“全生活を持ってする神への奉仕”を意味する言葉です。幾つもの奉仕があり得ますが、このように礼拝出席は最高の奉仕なのです。なぜなら、礼拝において私たちはキリストとお会いし、兄弟愛の交わりのうちに讃美と祈りを捧げるからです。聖書には次のように書かれています:“しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである”(ヨハネ4:23)。

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《レビ人 [Levites, Λευιτηs(レヴィティス); レヴィ(H)]》

 イスラエルという名前を神様から戴いたヤコブには12人の息子たちがいて、レビはその内の一人でした。12部族が出エジプトの後、荒野で約束の地カナンへの旅をしている時、何度か不信仰の危機に陥りましたが、レビ族だけが神様に忠実であったため(出エジプト32:26-29)、特に祝福を受け礼拝にかかわる務めは、レビ族出身の者だけに限られることとされました(申命記18:1)。そして、政務に忠実であるようにと、特定の町と放牧地の他には財産の所有は認められず、そのかわりイスラエルの民の収める十分の一の献金によってその生活が支えられるべきこととされました。彼らは初め幕屋で仕え、神殿が建てられた後は神殿の各種任務に就き、ある者は門を守り、神殿の付属物を管理し、あるいは楽隊・合唱隊として奉仕し、またある者は律法を民に教えました(申命記33:10)。

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《レント》

 日本語では四旬節、大斎節、または受難節と訳されています。この内で大斎節は聖公会(イギリス国教会)の用語です。復活日の前の6主日を除いた40日のことで、断食や悔い改めをして復活節を迎えるキリスト教の習慣です。1995年の復活節は4月16日ですから、3月1日にレントが始まっています。起源は2世紀に見られ、復活日前夜に洗礼を受ける志願者が、その前に教育を受け断食・祈祷して準備をしたことに由来しています。40日という期間はキリストの荒野の誘惑に先立つ40日の断食に基づいています。この間、主日にも祝祭頌歌を用いず、普通は結婚式を行わない習わしでしたが、復活日前夜に洗礼を行う習慣がすたれると共に、次第に復活日への準備としてよりも、克己・修養・悔い改めの特別期間となりました。

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