『主の祈り』
● 天と地を結ぶ祈り
キリスト教会で礼拝参加者が声をそろえて共に祈る祈りに、『主の祈り』という祈りがあります。これは、イエス・キリストが教えられた祈りを基に作られた祈りです。それは、次の通りです。
「天にまします我らの父よ。
願わくは、御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ。
国と力と栄とは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。」
キリスト教は、祈る信仰です。祈りを聞いてくださる方がおられることを信じています。ですから、「天にまします我らの父よ」と祈ります。
● 天にまします
祈りの呼びかけのことばの中の「天にまします」は、祈りを聞いてくださる神様が天(空中)だけにおられて地上にはおられない、という意味ではありません。神は全世界、全宇宙に満ちておられるお方です。
「天」は、“天と地の開き”の天です。祈りを聞いてくださる神は、私たち人間をはるかに越えて偉大なお方であることを意味しています。始まりもなく終わりもない永遠なるお方です。無限の力を持つ全能者です。道徳的にも何の汚れにも染まらず、正しく聖なるお方です。あらゆる点で私たち人間を越えておられます。それが「天にまします」という句で表現されています。
● 我らの父
このように偉大で全能、聖なる神は、私たちには畏れおおくて近づけないはずです。私たち人間は、警察の前を通る時でも、何となくドキドキしてしまうほど自分が清くないこと、完全でないことを自覚しています。その神様を「我らの父」=私たちのお父さん、と呼ぶことができるようにするために、イエス・キリストが十字架の上で身代わりの死を遂げて私たちの罪を赦してくださった、という事実が、この祈りの言葉の土台として隠れています。聖書は、自分の罪を悲しんで悔い改め、イエス・キリストの十字架上の死と復活を信じるならば、その罪がゆるされて神の子どもとして受け入れていただける、と約束しています。ですから「我らの父よ(くだけて言えば“私たちのお父ちゃん”)」と祈るのです。
● まず神のことを祈る
「主の祈り」は、呼びかけの後で、「御名」「御国」「御こころ」、と神に関することを祈るように私たちに教えます。私たちの心が整えられないと、正しく祈ることができません。
聖書の神は、私たちが神のお心にかなうことを願うならば、聞いてくださいます。これは、私たちにとってとても安全なことです。私たちの願いを無条件に聞き上げてくださる神がおられるとしたら、世の中はもっと恐ろしい社会になるのではないでしょうか。そのためにも、まず“神に関すること”を祈るのです。
● 日ごとの食べ物
後半では、「我らの日用の糧」「我らの罪」「我らの試み」について祈ります。
神は霊なるお方(私たちのような物質的な身体を持たないお方)ですが、私たちの肉体の必要にも関心を持っていてくださるお方です。
私たちが罪を犯すとまともに神に近づくことができません。その罪を赦し、清めるために、神の御子イエス・キリストが十字架の上で私たちの罪の罰を受けてくださいました。そのようにして、私たちの罪を赦してくださるので、私たちも自分たちに罪を犯す人の罪を赦すことができるように、と祈ります。
私たちの毎日の生活には様々な試練が伴います。悪魔が私たちをつまずかせようとして迫っています。自分たちの力では悪魔の誘惑に勝つことはむずかしいので、神様に助けていただくように祈ります。
● アーメン
「アーメン」というのは、ヘブル語で“真実”とか“その通り”という意味です。口先だけで祈るのではなく、心から祈って「アーメン」と閉じます。