『転ばぬ先の杖』
(ヨハネによる福音書3章16節)

 ●悩みがなければ宗教はいらない?

 信仰のお話をすると、時々「自分には、神仏を頼りとしなければならないような悩みがないから、信仰のことは“間に合っています”と言われる方がいます。

 私は、そのような方に、「転ばぬ先の杖」、悩みがないかもしれない時にこそ、自分の信仰のことを考えておくことが大切である、と申し上げます。

  子どもの頃、川で泳いでいて溺れそうになったことがありました。無我夢中で、バチャバチャと手当たり次第、自分を助けてくれそうなものを捜していたのだと思います。

 幸いなことに、近くに年の離れた大きなお兄さんがいて、助けに来てくれて、ことなきを得ました。あの時に、お兄さんがそばにいなかったら、それこそ、「溺れる者、わらにもすがる」のことわざ通り、わらにすがって水の底に沈んだのかと思うと、ドキッとします。

 ●わらにすがって沈まないために

 多くの人が、信仰とか宗教は悩みがある人とか高齢者がすること、と考えて、真剣に取り組もうとしません。その結果、人生の大問題に急に直面して、すがる者を求めた結果、霊感商法のようなニセモノ宗教やカルトの餌食になったりします。

 また、宗教的な判断基準を持たないので、巧みな勧誘に誘われてそのようなものに取り込まれます。ですから、「転ばぬ先の杖」で、もし現在は特別な悩みがないならば、落ちついて冷静に信仰・宗教を検討するために、宗教を検討することをお勧めします。

 ●キリスト教の神は・・・

 私としては、まずキリスト教を検討してみて下さい、と申し上げます。

 キリスト教の経典である聖書は、神の霊感を受けて書かれた神からの啓示の書です。ご自分で読んで見られれば、聖書が神中心の書物であることが分かると思います。

 キリスト教の神は、(聖書の第一部とも言える)旧約聖書の最初に、「初めに、神が天と地を創造した。」とある通りに、天と地を創造した神です。神は「わたしは初めであり、終わりである」と言われます。すなわち、永遠であるということです。ですから、その神は、造られることも、生まれることもないお方です。

 また、聖なるお方です。他の被造物とは違います。道徳的に完全です。しかし、被造物と、特に理性的被造物である人間と関係を持つことを望んで下さる、愛なるお方です。罪を犯して神に背を向けた人間たちを救うために、神の御子を人間の姿で送られるほどに、愛なるお方です。

 ここまで、お読みになって下さったら、きっと、いくつかの疑問があることでしょう。ここでは、すべてを尽くすことはできませんので、よろしければ、教会にお出かけ下さり、お尋ね下さい。お待ちしています。

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ福音書3章16節)

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