Tコリント12:22、12:12−26
「弱さから生まれるもの」
神様を信じるようになって、何が変わったの?
立派な人格者になって誰ともいさかいを起こさなくなった・・生活が整って、健康になった・・必ずしも、そのように答えられない私たちではないでしょうか。
私たちが経験させられるとおり、神様信じたからといって、ばら色の生活が約束されているわけではありません。目の前の課題は残されたまま、ということが多いです。
じゃ、なにが変わったか?
心の平安をいただいている、・・たしかに神様につながって生きていれば、いつも平安でいられるはず。
神様に祈ることを知っている私たち、平安を頂いて、安定した心で生活できているかもしれません。
それでも病気を患ったり、大きな困難にあえば、おろおろと不安になるし、人の言葉や態度に、かっとなったり、傷ついて、くよくよしたりと・・そんなあいかわらずの私たちです。
信仰をもつ、神様との関係の中に生きるということは、自分の弱さ、足りなさを、受け入れることだと思います。全能の神さまを信じるということは、不完全な自分を知るということ・・もろい自分、みじめな自分を自覚させられて、御助けを求めていくことに他ならないのです。
それゆえ、信仰的な人というのは、何一つ弱さや欠点のない立派な人ではなく、むしろ自分の弱さをよく知っている人、自分の限界をよく知って、主に依り頼んで生きている人、神様とのつながりに生きている人のことを言うのですね。
今朝は、相模原講壇交換。この「弱さ」ということをテーマに、それぞれの教会でお話をさせていただくことになっております。
困難にぶつかれば、すぐ苛立ったり、落ち込んでしまったりする、私たち。
それぞれに、なかなか癒されない心の傷や、なかなか直らない悪習慣を抱えていることです。一人ひとり様々な環境に育ち、それぞれの課題を負っています。
こうした一人ひとりが集まる教会もまた、弱さや課題を抱えています。
このコリント人への手紙第一は、どのような状況で書かれた手紙だったでしょうか?
すこし、前のところから、確認してみたいと思うのですけれども、
1章のところをご覧いただきますと、コリントの教会が分裂と仲間割れの危機に瀕していたことがわかります、12節、わたしはパウロにつく、わたしはアポロに、わたしはケパに、わたしはキリストに、とめいめいに言い争っているという事態・・
教会がなんたるかを知らないこうした人々に対して、パウロは、「教会の一致」を説いて教えます。
パウロもアポロも、力を合わせて働く神の協力者であって、あなたがたは、神の畑、神の建物(3:9)、互いに労わり、尊びあう一つの体なのです。(12:25・26)
教会には様々な人たちが集められます。育った環境も、生まれた年代も様々です。感じ方、考え方、得意分野もそれぞれ違います。しかし、教会はひとつの体。私たちは頭であるキリストにあって、互いにつながっており、それぞれに役割が与えられているのです。
地上の教会に完成はありませんね。新しい方が加えられれば、新しい課題が加わる、初代教会もそうでありましたように、人数の成長とともに課題も増す、これが教会の姿であります。
私の仕えております教会は、現在、無牧であり、解決できていない課題も抱えております。うちの教会には、地域の子どもさんたちが、よく遊びにくるのですけれども、最近来た小さな男の子は、やけにここが気に入ったらしく、「教会っていいところだね、なんか天国みたい」って言ってくれました。
天国みたいなところ、教会が本当にそういう所だったらすばらしいですね。
そう願いたいですが、神様信じてても、私たちは不完全で弱いもの同士・・傷つけあってしまうこともあります。
欠けだらけでいつも課題を抱えている私たち、失敗ばかり経験すると、ときどき、思ってしまいますね・・
教会の集まりなんて、いっそなくしてしまって、文書伝道だけしていたほうが、理想的な福音が伝わっていくのではないのか・・我々の存在なんて、福音宣教の妨げにしかなっていないようだ・・と
でも、神様は、この欠けだらけの私たちを神の子どもとして招かれ、教会に宣教の御業を託されるのです。
インターネットでも礼拝できる今の時代。
人のこととかで、わずらわされなくて、自分が恵まれる説教に養われて、一番いい信仰生活なんじゃないかなって、思っちゃうところですけれど、そうじゃないんですね。
健康の許す限り、埃や汗の匂いのする教会に行って姉妹兄弟とともに礼拝し、交わりや奉仕を通して、互いの課題を覚え、祈りあう。
教会は互いに諭しあい、教えあうところ。一人では、けっして気づけなかったようなことが、人格的な交わりのなかでこそ示されるわけですね。教会では様々な問題が起こります。それぞれ課題を抱えている私たちですから、当然ですね。ちょっとあの人とは一緒にやっていけない・・ふつうの集団でしたら、居合わせやすい者たち同士だけで、寄り合い、異質な人たちを寄せ付けない。何かいざこざが生じれば、面倒くさい人を追いやったり、関わりを避けたりすることで解決を図る。
しかし、教会は、分裂することのないひとつの体なのです。一つの部分が苦しめば、共に苦しむとあるように、互いに尊びあい労わりあうようにと、私たちは召されているのです。
誠実さと祈りをもって歩むときに教会は成長していく。主の前に弱さを認める者は、主の力を頂く。御言葉に依り頼むときにこそ、神様が御業を成してくださるのです。
私たち教会の生きた交わりを通して、主は宣教の御業を進められるのです。
「ウィークタイ」と「ストロングタイ」という言葉をご存知でしょうか?
わりと有名な言葉ですので、どこかで読んだり聞いたりされた方もおられるかもしれません。
タイというのは、このネクタイのタイ、結び目のことです。
ストロング、お互いが強い結びでつながっている集団か、それともウィーク、弱めの結びでつながっている集団であるか、ということです。
ストロングタイ、世代が近かったり、生活行動や趣味が似通っていたり、また同じ地域で長年一緒に過ごしている。そうしたお互いの共通点が多くて、凝集性の濃いグループは、話題も合いやすいし、行動も機敏です。けれどもその反面、新しい人とか、ちょっとでも異質な人を締め出してしまう排他的な集団になりやすい。
一方、ウィークタイは、年齢も、性別も、趣味・趣向も様々、共通性に欠けるグループです。最近仲間に加わった人もいれば、何十年といる人たちもいる。同じ地域の出身というわけでもなく、外国生まれの人もいる。言語が違ったり、手話で話される方がいたり、そうした多様性のなかで、全体の結びつきは希薄に感じられる。行動性にも欠けるし、なかなか一つにまとまらない。しかし、この多様性に富む集団が、真に互いを受け入れ合うことができたなら、どんな人をも迎えることのできる開かれた交わりとなるはずです。
耳が「自分は見ることができないから」と言って体の一部でなくなるわけではなく、耳が鼻に対して、「お前は聴くことができないから、体の一部ではない」と言うこともできない。
――教会には色々な働きがあります。せっせと立ち働くことはできなくても、ゆっくり話をきいてさしあげ、祈る奉仕ならできるかもしれません――
強い人、能力のある人が活躍するのは、どこの集団にもみられるでしょう。けれども、みんなの居場所であり、弱い人、地味だったり控えめだったりする人も、自分らしく輝ける場所、それが教会なのです。
自分の優れたところをもって、互いを裁きあうのではなく、同じ一つの体として、尊び支え合い、理解しあう。体の器官がすべての部分を必要とするように、私たちも互いを必要としているのです。互いを愛しみ、弱さを補い合い、頭なるキリストにつながって、共に成長していく私たちでありたいと願います。