「こんな私でさえ」6月サラの会メッセージ
こんな自分、受け入れてもらえるはずがない。だから、極力、人との関わりを避け、表面的な付き合いだけにとどめておく、……かといって、まったく一人というのにも耐えられず、自分の気持ちを分かって、愛してくれる人をしきりに求めてもいる……。理解されたいと望みつつも、あまり知られすぎても困る、そうしたところに、私たちの本音があるのではないでしょうか。
海外のTVドラマで、相手の心の声が聞こえるという超能力をもつ人の話をやっていましたけど、……実際にそんな能力があったら、友達をもつことは難しいでしょうね。
ヘンリー・ナーウェンも言っています。「もし人が私の中の最も深いところに隠されている思いや感情を知ったら、それでも私を本当に愛してくれるだろうか」
私たちは、人から完全に知られていないから、お互いの関係がなんとか保たれているのかも知れません。
自分の卑しさ、心の陰の部分を知ったら、人は離れていくに違いない……こうした思いが、互いを遠ざけ、深い関わりを極力避けようとさせるのでしょうね。
引きこもりの要因は、「自己愛を傷つけられることへの恐れ」、にあると言われています。人から駄目出しされたくない、人前で、ぼろを出したくない・・・自己愛を守りたいという思いから、人との関わりは、狭められ限られていくのでしょう。
聖書の時代にも、そんなふうに人との関わりを拒んでいた人がいました。(ヨハネによる福音書4:7−30「サマリアの女」)
もっとも強く日の射す、昼間に、人目を避けるようにして、水を汲みにきた、この女性。井戸というのは、井戸端会議という言葉が示すように、人々の社交の場ですね。でもこの女性は、自分の生活に、後ろめたさがあって、人々との関わりを遠ざけて生きていたのでした。この女性に、イエス様は「水を飲ませてほしい」と、声をかけられ、「あなたは汲むものをお持ちでないですが――」という会話から、「私が与える水を飲む者は、決して渇くことはない」と、イエス様が、心の渇きを、癒す命の水をもっておられるお方(メシア)であると示されていくわけです。
この女性は、驚きます。自分の今の生活や、心の深いところまで、イエス様が言い当ててしまうからです。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」、と彼女は驚きつつも、その場を逃げ出したり、イエス様との会話を拒んだりはしていません。ありのままを包み込んでくださる愛を強く感じたからですね。自分の弱さ、しょうもない部分、すべてを知っても、なお、愛し続けて下さる、捉えつづけていて下さる、それがイエス様の愛、無条件の愛なのです。
さて、このイエス様の愛によって、癒された人、心満たされた人は、命のつながりへと生きるようになる、これは、聖書が教えている法則ですね。イエス様に癒された人は、家族や共同体といった、命のつながりに生きるようにされるのです。 28節、この女性は、水がめを置いたまま、町に行き、人々にイエス様を紹介しています。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この人がメシアかもしれません」と。この女性は、自分を深く受けとめて愛してくださる存在に出会えて、本当に嬉しかったのでしょう。そして、39節以降を読みますと、その町の人々も、この女性の言葉によって、イエス様を信じる信仰へ導かれたことが分かります。心に渇きを覚えていた多くのサマリア人が、イエス様を救い主として信じ、癒しを受けとったのです。
イエス様は、心の深いところにある呻き、醜く、くすんだ部分も、全部をご存じの上で、なお、私たちを愛して、労わってくださいます。
イエス様の愛を受けた者として、いのちのつながりに生きるものでありたいと思います。私たちは、無条件の愛をもてないものですけれども、神様の無条件の愛を注がれている、一人一人であることを覚えて、互いを受け入れ、愛し合い、仕え合う私たちでありたいと思うのです。