ルカ 21:1−6 「イエス様の見られるもの」

 

私たちの人生、自分ではどうにもならないということがありますね。

ひとつは、命の問題です。急に自分の健康が損なわれたり、愛する家族と死に別れたり、ということが起こります。

また、経済的な問題というものも、自分ではどうしようもない、ということが多いように思います。

現在など、まさにそうですが、世界的な経済危機や、社会的格差の問題、こういうものに、影響され、巻き込まれるかたちで、持っていた職を失い、住むところを失っていくわけです・・

健康のことも、経済のことも、ある程度は、自分の努力や工夫で、コントロールできるかもしれません。でも、ほとんどの場合、そうではないでしょう。

最初から、貧しい環境に育ち、不安定な暮らしから抜け出しようがないという人たちが多くあることです。

 今日、聖書に登場します、貧しい女性も、そんな一人でした。

当時、ご主人に先立たれた「やもめ」は、孤児と同じくらい、社会的に弱い立場にありました。女性が自分の手で稼ぐなんてできない時代でしたから、たえず誰かに養ってもらう必要がある、そんなわけで経済的にも大変乏しい暮らしを送っていました。

 私は、語学研修で、シアトルで英語学校で知り合ったオマーンからの留学生と一緒に食事をしたことがあります。彼は、イスラム教徒で、もうすぐ二人目のお嫁さんをもらうんだと言っていました。(あちらの文化では、一夫多妻制で4人まで奥さんをもつことができるらしいですね。)それで、「あなたはビッグなファミリーがほしいの?」って聞いてみたんです。きっと、たくさんの子どもに囲まれて、サッカーチーム作りたいみたいなところがあるかと思って聞いてみたのですけど、そうではなかった。
 新しい奥さんになる人は、不妊の方、だっていうんです。・・つまり、養ってあげるっていう意味合いが強くある、そういう社会のようなんですね。

この「やもめ」と紹介されている女性には、おそらく新しいご主人はいなかったのでしょう。だから相当、貧しかった・・。

ここで、語られているメッセージは、唯一つ。

“Do Your  Best!” 心から、精一杯をささげる人が、神様の目に喜ばれる

人の目にどううつるかではなく、神様に対する信頼と、ささげられた最善が、イエス様の目に評価され受け入れられるということ。

前の箇所で言われているような、金持ちの見せ掛けばかりの礼拝や信仰生活に対して、ここには本当の祈りとささげものがある。

それは献金ということに限られません。賛美もそうですね。

私には、忘れられない賛美があります。ある集会で賛美していると、隣のほうから、ちょっと音程をはずした、やさしい歌声が聞こえてくる。見ると、それは聾唖の女の子でした。手話とともに、笑顔で精一杯の歌声をささげていたんです。

大切なのは、神様に喜ばれる献げ物かどうか、ということです。表面的な巧さとかよりも、神様は「ささげる者の心」をご覧になられます。

次で語られている建築物もそうですね。

ヘロデの神殿と宮殿は、当時世界の建造物のうち、もっとも壮大で美しいものでした。

考古学者たちは、こぞって、それを評価します。しかし、聖書はそのことをほとんど書いていない。

イエス様の視点、聖書の価値観がここにあるのです。

人が見るようにではなく、うわべの壮大さ、華やかさではなく、

心から喜んでささげようとする心、それを主は大きく喜んでくださるのです。

私たちは、自分ではどうにもならない色々な制限の中を生きております。

でも、すべてをご存知の神様は、私たちのささげる精一杯のささげものを、いつも喜んで受け入れてくださるのです。