Tサムエル1:13−18,2:1−10
私は、ハンナの祈りの箇所に励ましを受けます。(1:18)まだ、叶えられてもいないのに、祈っただけで、晴れ晴れとした表情に変わった、とあります。その秘訣はいったい、どこにあるのでしょうか?
ハンナには子がありませんでした。夫には、特別に愛されていましたが、かえって、それが、いじめをひどくしていたかもしれません。一夫多妻制というものは、奥さん、子ども全員を平等に扱わなくてはいけないので、現実難しいものだと聞いています。
(6節)ペニンナは、相手の気にしているデリケートな部分につけこんで、言葉や態度で、苦しめたようです。(7節)ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
この毎年、いけにえを奉げるために訪れていたシロの主の宮には、祭司エリと二人の息子が仕えていました。
ハンナは誓願を立てて、祈ります。
「万軍の主よ。どうか、私を心に留め、はしための悩みをかえりみてください。もし、男の子を授けてくださいますならば、その子の一生を(ナジル人として)主にお献げします。」
ハンナは心の内で、長く祈り、唇だけ動かしていたもので、これを見ていた祭司エリは、酒に酔っているふしだらな女だと思って、注意します。
ここで、面白い言葉あそびがみられますね。(15節)
「いいえ、祭司様、私はぶどう酒もお酒も飲んではおりません。私は主の前に、心を注ぎだしていたのです。」
心を注ぎだす祈り・・
整った言葉で祈れなくとも、心を注いで祈るなら、主は聞きあげてくださいます
(16節、新改訳)
「このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私はつのる憂いといらだちのため、今まで祈っていたのです。」
なんと素直な言葉でしょうか。私は、鬱憤がたまって、イラだってしまっているんです。悩みの多い、人間なんです。だから心を注いで祈る・・・神様に!
私たちは、しばしば、人にそしられたら、自分自身で、反論したり、弁解したりしてしまいがちですね。でも、復讐は、相手の自尊心を傷つけ、よけい陰湿な復讐を浴びるだけですね。
私たちの、本当の慰め、救いは、主にあります。主があなたの正しさ、あなたの頑張り、あなたの悩み、すべてをご存知であられます。私たちの悩みを取り去り、頭を高く上げてくださるのは、主なる神様おひとりです。(詩編3:4)
ハンナが、祈り終えたとき、その顔はもはや以前のようではなかった、とあります。
その秘訣はどこにあったのでしょう。3つのポイントでまとめてみました。
1.<主への絶対的信頼>胎を開いてくださるのは主である、命の源である神、全てをご存知であられ、悩みを顧みてくださる正義の神に依り頼む姿勢。
2.<祈りの仲間の存在>自分と祈りを合わせるように、祭司エリが「安心して行きなさい」と「そのとおりになるように(アーメン)」と言葉をくれた。
3.<問題よりも神様の大きさに目を向ける>2:1−10の祈りに明らかなように、個人の祈り(証し)が、個人的な(ペニンナに対する)復讐とか個人的な(癒しの)感謝に留まるものでなく、神様の偉大さを誉め称える賛美になっている。
私たちは、心を注いで主に祈っているでしょうか?祈りが、本当に平安をいただき、勇気を与えられる場となっているでしょうか。
心からの祈りは、神様との交わりの場となり、深められていきます・・そのなかで祈りの内容や自分自身も変えられていくのです。
本当に神様の祝福を信じきることができるなら、もう恵みを受けたかのように歩むことだってできるはず。目の前の問題は未解決なままでも、全てをご存知の神様が必ず正しい報いを与えてくださると信頼して歩むことができるのです。