ルカ 10:3842

 マルタとマリア、2000年程前に生きていた姉妹のお墓が今もエルサレムの向かいのベタニアに残っています。この実在した二人の女性とイエス様の対話を通して、今回、「奉仕」ということについて考えてみたいと思います。

 この話は、私たちにとって、たいへん身近なテーマです。どんな人でも疲れを覚えます。熱心に働いてる人にとって、手伝ってくれない人たちの存在は、ともすれば、薄情な人たち、自分の労をちっとも分かってくれない、感謝の足らない人間のようにも感じられてしまう。

 主イエスと一行を、家に迎え入れたマルタ。

 自発的に、よろこんで申し出た彼女でした。40節「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働き」――ホストとして、客人たちを迎え、精一杯もてなそうとした姿が浮かびます。なにせ今日は大切なイエス様をお迎えしているわけです。多くのことに気をつかい、客人であるイエス様に喜んでいただけるよう、せわしく立ち働きます。

そんな時、少しも手伝うそぶりのない妹が目に入る。「私がこんなに頑張ってるというのに、客人をもてなすべき妹が座ってイエス様の話を聞いているなんて、」そこで、気の利かない、怠け者の妹を責める思いが生じ、自分ばかり損をしていると感じて、イエス様に対して、不当さを訴えています。「イエス様、マリアに、手伝ってくれるよう言ってください」

こうしたマルタの気持ちはよく分かるし、ある意味、道理に適ってるとさえ感じます。

ところが、イエス様は、マルタ、マルタと二度彼女の名を呼んで諭されます。「あなたは多くのことで気が落ち着かず、心を乱しています。しかしどうしても必要なことは、わずかです。」

マルタの奉仕は、平安・喜びを欠いたものとなってしまっていました。(画竜点睛を欠くといいますが)最も大事なものがかけていたのです。

マリアのほうは、主の足元に座って、みことばに聴き入ることで、イエス様の平安を受け取りました。主の言葉に耳を傾け、自分の心をこの方のもとに預けるマリア。恍惚とも呼べるほど、心が満たされていきました。サマリア人の話でもそうですが、聖書は、私たちに自らの力で隣人を愛せ、などとは教えてないですね。そうではなくて、「行って、同じようにしなさい」――真のサマリア人(私たちの隣人となってくださった)イエス様の愛を受けて、私たちも周りの人々に仕えるのです。「マリアは良いほうを選んだ。」

マリアはイエス様がもっとも喜ばれるもてなしをしたのです。ここから立ち上がったとき、彼女の心には愛が溢れ、神の憐れみに促されて生きる道が示されていたことでしょう。

はじめに申しましたように、この姉妹たちは実在した人物。彼女たちの生活はここで終わりません。マリアだって、身体をもって地上を生きていました。働くことだってあったはずです。

喜び・感謝に溢れて行う奉仕であれば、それはすばらしいものですね。すぐ前の箇所「善きサマリア人」も、それを教えています。37節「行って、あなたも同じようにしなさい。」――ですから、イエス様は決して、愛の奉仕を否定されてるわけではないのです。問われているのは、中身、動機です。

一般に、マルタのような人は活動的で、マリアのような人は内向的といわれます。

しかし、言葉の厳密な意味において、活動には、二種類あるのだと言います。

「能動的活動」と、「受動的活動」のふたつです。

能動的活動というのは、自分から自由な心で、活動することです。

受動的活動は、受動的な感情に支配され、駆り立てられて行動することです。表面的には、活動的ですが、その動機は、つよい不安と孤独感であったり、野心や金銭欲だったりと、情熱の奴隷状態なのです。

たくさん動き回る人が、必ずしも自由な心で活動しているとは限らないということです。

社会の様式、世間体・・見えないプレッシャーに追いたてられて、やたらと頑張ってる人もいます。

「マルタ、マルタ。あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」

積極的に働きもてなすマルタでしたが、他者からの評価を気にしている様子が伺えます。

「こんなに尽くしてるんだから、これくらいは認められて報われなくちゃ・・」

もし私たちの奉仕、愛の業が、人からの礼を期待するものになってしまっていたら、危ういです。根本が違っちゃってるかもしれません。1047節「弟子の派遣」で、教えられているように、期待どおりの反応が得られなかったとしても、へこたれず、平和の心で人々に接し続けるのが「本当の奉仕」なのです。そのためにも、多くの人から、礼や挨拶を受けようとせず、最小限の生活スペースと報酬だけを受けるようにと、教えられています。

 厳しい指摘をすれば、マルタは、与えることが喜びになっていない。言い換えると、与えながら苦痛を感じている。だから不平が出てしまう。

 本当に満たされている人、愛を分かち合える人は、与えることは失うことではなく、それ自体喜びであり豊かになること、互いの生命が満たされることだと知っています。

42節「しかし、必要なことはひとつだけである。マリアは良いほうを選んだ。」

 主イエスの足元に座って、じっとその話に聞き入っていたマリア。静かに物思いにふける姿は、外見的には、何もしていないように見えます。けれども、実際は、ひたすら自分自身の内面に意識を集中し、世界との一体感を味わう瞑想の姿勢こそ、最も高度な活動なのです。内面的な自由と独立がなければ実現できない魂の活動。

祈りや礼拝といった、精神的な活動もそうでしょう。御言葉によって魂が磨がれ、奮い立たされ、聖霊の満たしによって今の自分を受けとめる経験。

主イエスは、何かを得るためにあくせく働く、外面的な活動ではなく、(外界の変化に関わりなく)自分の本来備わっている力を発揮するこの魂の活動を第一に求めておられるのです。

<まとめ>

マルタはイエス様をもてなし熱心に奉仕した。しかし、その心の中心にイエス様を迎えていなかった。自分の力でなす奉仕は、疲労とともに、喜びを欠き、外からの評価を期待したり、周りの人と比較したりする結果、不公平を感じて他者に義務をおしつける。

 それは心から喜んで与える奉仕とは遠くかけ離れている。

主イエスの言葉に傾聴することこそ、最優先にすべき奉仕。

心を注いで礼拝することこそ我々が為すべき最大の奉仕(サービス)であり、

神の憐れみに促されて愛をもって生きることこそ、礼拝である(ローマ12:1−2)。

賛美にしろ、奉仕にしろ、私たちの業は、あくまでも神の恵みに憩うことから始まるのです。