証し「尊い存在」

 「もし障害児が生まれてきたら殺そう。」小学5年生の時、固く決意した。
 私は沖縄で生まれ育ったが、小学3年生の時、大阪の同和推進校に転校した。部落、朝鮮、障害者等への様々な差別に取り組む学校だ。

 クラスにS君という知的障害児がいた。ポチャッとした体格で虫や花の好きな心の優しい子供だった。普段S君は仲良し学級に出席し、体育や図画工作の時は普通クラスに合流した。「このクラスはS君を温かく受け入れる良いクラス」と評価されていた。

 事実は違った。S君はいじめを受けていた。S君が鼻くそをほじっていると僕らは面白がってそれを食べるように強要した。何か腹の立つことがあるとS君を殴った。殴られたS君は男子の僕らに刃向かう事が出来ないので女子に殴りかかった。騒ぎになり先生が駆けつけると、みな口を揃えて言った。「S君が急に暴れ出したんです。」もちろん、S君は弁解できない。先生はS君を叱った。

 ある日、図画工作の時間に僕らはS君のお腹をピンセットでつねった。S君は大声を出しながら怒った。そしてバケツに水を入れ、僕らにかけようとした。でも、みんなでS君をにらみつけた。怯えたS君はそのバケツを頭の上に持ち上げ、水をかぶった。頭の上からつま先まで水浸しになった。そんな騒ぎになってようやく先生が来る。事情を聞く。悪いのはS君だとみな口を揃える。S君が怒られる。この繰り返しだった。その学校は同和推進校。差別を知らないわけではなく、むしろ他の学校より遙かに真摯に捉え、それに向き合い、根絶しようと取り組んでいる所である。だがそこにあったのは弱者による、より弱者へのいじめだった。この学校でこのような状況なら他はどんなに悲惨か、社会はどんなに過酷か。こうして冒頭の決意をした。

 そんな私が変わったのは二つの出会いによる。一つはあるクリスチャンで、その方のお子さんはイスから落ちて頭を強打した。そのため目が見えなくなり、医者から一生話すことも出来ないだろうと宣告された。

 私ならば「こんな世である。生きていくことは辛いに違いない。この子を殺して自分も死のう」そう考えたと思う。否、そうしたであろう。ところがその方はこう言った。「私はこれから、この子の目となり、口となって歩んでいきます。」まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。こんな生き方が、こんな考え方が、こんな選択があるのかと思わされた。障害を持ったその子を一生かけて愛し、守っていこうというのだ。その親の愛は、氷のように冷たい私の心を溶かした。もう一つの出会いは一つの詩。次のようにあった。

「天国の特別な子ども
 Edna Massimilla/大江裕子訳

会議が開かれました 。地球からはるか遠くで。
『次の赤ちゃん誕生の時間ですよ』
天においでになる神様に向かって、天使たちはいいました。
『この子は特別の赤ちゃんで、たくさんの愛情が必要でしょう。
この子の成長はとてもゆっくりに見えるかもしれません。
もしかして一人前になれないかもしれません。
だからこの子は下界で出会う人々に、
とくに気をつけてもらわなければならないのです。
もしかしてこの子の思うことはなかなかわかってもらえないかもしれません。
何をやってもうまくいかないかもしれません。
ですから私たちは、この子がどこに生まれるか、
注意深く選ばなければならないのです。
この子の生涯が、しあわせなものとなるように。
どうぞ神様、この子のためにすばらしい両親をさがしてあげて下さい。
神様のために特別な任務をひきうけてくれるような両親を…
その二人は、すぐには気がつかないかもしれません。
彼ら二人が自分たちに求められている特別な役割を…
けれども天から授けられたこの子によって、ますます強い信仰と
豊かな愛をいだくようになることでしょう。
やがてニ人は、自分たちに与えられた特別の
神の思召しをさとるようになるでしよう。
神からおくられたこの子を育てることによって、柔和でおだやかな
この尊い授かりものこそ、天から授かった特別な子どもなのです』」

 胸が震え、涙が止まらなかった。いかに汚い心を持っていたか痛感した。彼らは邪魔者でも迷惑な存在でもない。尊い存在なのだ。
そして思うようになった。「もし障害児がうまれてきても、その子とともに歩もう。その子を愛そう。」
 昨年、長女が障害児と判定された。ショックを受けなかったと言えば嘘になる。しかし安らぎがあった。聖書に次の言葉がある「体の中で比較的に弱いと見られる器官がかえってなくてはならない」弱い存在こそ尊いというのだ。ある牧師がこの聖書の言葉をこう解説した。「家庭の中に弱い存在がいると、その家庭は健全になります。本当に大切な事を考え、大事なものを見め、人と比較してではなく、その子をその子として見つめます。競争社会の今日においてナンバー1ではなくオンリー1としての価値を見出すようになります。弱さの尊さを聖書は語っています。」

 家庭に病気や障害の子がいると、何かのタタリとかバチにあたったとか言われることがある。そこには心の奥底にその子を否定している思いがないだろうか。その子は悪しき存在なのだろうか?タタリやバチの結果なのだろうか?確かに療育は重い。だが弱さを持ったその子も、かけがえのない大切な存在であるはずだ。その存在こそ尊いという聖書の言葉に私は惹かれる。

 私達は障害と関わる事によって本当に大事なものを教えられ、心が豊かにされるのだと思う。障害を持った人々をただ受け入れるだけでなく、彼らという尊い存在から大切なことを学んでいく、そんな社会になればと心から思う。

牧師