証:「本物の神様」

私が、イエスキリストに出会ったのは中学生の時でした。すでにクリスチャンだった伯母になかばむりやり教会に連れていかれました。そこは、いわゆる私の知らない世界、はっきり言うと不気味とさえ思っていた場所でした。

それというのも、沖縄ではごく当たり前のようにされている先祖崇拝を、例に漏れず我が家も信仰していたからです。しかもそれは宗教とさえ思っていなかったし、だから特に理由もなくキリスト教に限らず宗教というと偏見や嫌悪感すら抱いてました。

でも、そこに集っていたのはごく普通の人達で、しいていえば少しばかり歌が好きなのかな?!(礼拝の中で賛美歌や聖歌をよく歌う)というような、私が想像していた教会像とは全然違うことがわかりました。そして私は続けて礼拝に通うようになりました。最初は、今まで全く聞いたこともない教会用語に少々戸惑いました。でも、それ以上に私の目から鱗がポロポロと落ちていきました。

最近ではブランド物の洋服やバッグが持てはやされている時代ですが、その商品にも「本物」と「偽物」があるように、神様にも「本物」と「偽物」があるのだということがわかりました。

本物の神は「私たち人間を創造された神様」、偽物の神は「人間が作った神様」、日本には八百万の神々といわれるほど、人間が作った神様と呼ばれているもののなんと多いことでしょう。人間が何でも簡単に神に祭り上げてしまう節操のなさ、そんな作られた神なんて大したものであるはずがありません。それは、中学生の私にでも容易に判断できました。しかし、それが人間の冒した「罪」の始まりなのだと、聖書は教えてくれたのでした。

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(聖書)

「あなたがたが神のようになり」とサタンに誘惑され、人間は神を退けました。神なしでは生きていけるはずもない、ちっぽけな被造物である人間が、「自分を神とした」ここに罪の原点があるのでした。しかし、頭では理解していながらも、このあまりにも当然の事実をすぐに忘れてしまう弱い自分がいます。

聖書でいう「罪」は、自己中心的な思いや嫉み、高ぶり等々、感情面は目に見えないだけに神様に対しての良心が問われます。だから、一生懸命正しい者であろうと努めますが、罪は努力など水の泡にしてしまうほどにあふれ出てきます。

でも、クリスチャンに与えられている特権、「御言葉」(聖書)と「悔い改め」(後悔ではない)、そして「祈り」(神様との交わり)これらを通して、こんな私でも神様は忍耐強く見守っておられ、圧倒的な神様の恵みと深い愛情を注いで下さっていることを体験していきました。

羊飼いの目には一匹一匹の羊の個性の違いがはっきりとわかるように、神様も私のことをよくご存じなのです。「罪」を理解し、「神様の愛」がわかりました。私は、イエス・キリストが本物の神様であるということを確信しました。

本物の神様に出会ってから18年が過ぎました。出会う前もそうでしたが、感謝なことに現在も特にこれといった苦難や悩みもなく極めて平凡な日々(クリスチャンとしては悔い改めの連続ですが)を送っています。

それなら神様など必要ないと思われる人もいるかもしれません。しかし、イエス・キリストは決して人間にとって都合のいい、ご利益の神様ではないこと、そして人間が神なしでは生きてはいけない存在で、私がいま生きているのではなく、「生かされている」この事実に気付かされたときから、「偽物」ではなく「本物」の神様に出会えたことを、ただただ感謝するのです。

「 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前に聖く、傷のない者にしようとされました。神はただみこころのままに、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(聖書)

K.T姉