証:「約束」

もうすぐ、クリスマスがやってきますが、早いもので私がこの教会に来てから2回目のクリスマスを迎えようとしています。

初めて教会に来たときは、丁度礼拝が終わり、キャロリングが始まろうとしているときでした。そのころの自分は、教会のことなどほとんど知りません。

だからキャロリングについても「クリスマスキャロルを聞いていればいいのかな」ぐらいにしか思っていませんでした。だから「高良さんも時間があれば一緒にどうですか」と言われたときも二つ返事でOKしました。

ところが、そこでのキャロリングというものは、自分の想像をはるかに越えたものでした。あちこちの病院に行っては、患者さん達の前で歌い、時には静かなふつうの住宅街の街灯の下で歌い、それをみんなが当たり前のようにやっているのです。

これは、自分にとってカルチャ−ショックでした。というより衝撃的でさえありまた。「この人達はなぜこんなことをするのだろう。なぜ他人のためにわざわざ、こういうふうに歌ったりするんだろう。教会の宣伝になるからだろうか。」そのときの、自分の気持ちを表現すればそういう感じだったかもしれません。

でもそれはクリスチャンではない人からすれば当然のように持つ疑問だったとおもいます。
ただみんなと一緒にあちこちで歌い歩くにつれて、「これが本当のクリスマスというものかもしれない。こういうクリスマスも体験できてかえってよかったかもしれない」と漠然と思うようになっていました。不思議なことに、みんなと一緒に歌い終わったあと、なぜか心がすがすがしさを覚えたことを今でも思い出します。今にして思えば、このときの出来事は、自分にとって神様を信じるための第一歩だったのかもしれません。

そのころの自分は、仕事上では毎日コンピュ−タ−と向き合い数字とにらめっこというような状況でした。また、税理士試験を何回も受けてもなかなか合格できず、ただ時が過ぎて行っているようなむなしさのようなものを感じていました。自分で何かしなければ今の自分の状況は変わらないだろうと思っていました。だから教会に行くことが、何か自分の今の状況を変えるためのきっかけのひとつになればと思ったことも事実です。

こうして私の教会通いが始まりました。それと並行して、私は、友人からもらった「みことばカ−ド」を読み始めました。その中に

「わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)

ということばがあり、そのことばが妙に頭のなかに残りました。「約束って一体なんだろう。神様は本当に私を捨てないでいてくれるのだろうか。」そのことばを読む度にそうした気持ちが頭をよぎりまた。

こうしてしばらく時がたち、あれは7月の聖餐式のときだったと思います。「イエス様を信じる方はそれを告白してください。」ということばを聞いたとき、私の頭の中にあの「約束」ということばがよみがえってきました。そしてそのときにその約束の意味がわかったような気がしました。「神様の約束とは、神様を信じる者は救われるということではないだろうか。信じていれば、神様は、きっと救ってくださるにちがいない。」そう思った瞬間、自分は衝き動かされるように「自分はイエスを信じます。」と思わず言っていました。

そのときから自分の中に神様を信頼していこうという気持ちが芽生えていったのだと思います。そうした気持ちになってからは、教会へも気楽な感じで来れるようになりました。肩の力が抜けたとでもいえばよいのかわかりませんが、心の中が不思議と落ち着いた感じになったような気がします。

何かをきっかけとして、教会の扉を開いたとき、それは神様の導きなのかもしれません。私のように、ふとしたきっかけで神様を信じる方がこれからひとりでも教会に来て、心に平安を感じてほしいと思います。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(ルカ11:9)

みんなの心の中にも教会はあるのです。

M.T兄