−ルターの小教理問答書を手引きとして−

 

目次

序 マルティン・ルター「小教理問答」とは

十 戒

使徒信条

主の祈り

洗礼の礼典

ざ ん げ

聖壇の礼典(聖餐、主の晩餐、ユーカリスト<感謝の祭儀>)

おわりに

付録 神と民の対話としての礼拝

 

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−ルターの小教理問答書を手引きとして−

 

序 マルティン・ルター「小教理問答」とは

 

私たちはこれから、マルティンルターの小教理問答書を手引きにして、キリスト教教理入門を学んでいく。「教理問答」(カテキズム)とは、古くからカトリック教会において小児洗礼を受けた者に対する堅信教育のために、キリスト教信仰の要点を教会教育や家庭教育の中で教えることを目的として用いられてきた問答形式の解説書であり、ルターもその手法を作用した。

 

ルターが「小教理問答」を書いた主な動機は、地方の教会を巡察した際に、信徒たちや教職たちが主の祈りさえも知らず、さらには聖餐が数年も行なわれていなかったという、教会の悲惨な現実を目の当たりにし、再教育の必要性を痛感して書いたものである。教理問答は二つに分けられているが、一つは、キリスト教信仰の要点についての説教としての「大教理問答」、もう一つは、一般の人々に対する入門的名解説としての「小教理問答」である。これらの二つは1529年に著された。

 

小教理問答は、「十戒」、「使徒信条」、「主の祈り」、「洗礼の礼典」、「ざんげ」、「聖壇の礼典」(=聖餐)の六項目からなっており、これから学ぶものは、それらについて聖書をもとにまとめたものである。この小教理問答は、その後、ルーテル教会において堅信教育・洗礼教育のために用いてこられ、またルーテル教会の信条集である「一致信条書」の中にも収められており、私たちの信仰告白の一つとして数えられるものである。ルター自身、自分が生涯にこの小教理問答の学徒であることを喜びとしていたように、私たちも洗礼準備や堅信準備の学びにおいてはもちろん、その後の信仰生活の中にあっても繰り返し小教理問答書より学ぶものでありたい。

 

なお、私たちの学びにおいて、小教理問答の本文は、『小教理問答の解説』(1957改訂、コンコーディア社)、『一致信条書』(1982、聖文舎)に乗せられている翻訳を比較検討した上で筆者が手を加えたものである。

 

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十 戒

 

  あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない

  あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない

  安息日を心に留め、これを聖とせよ

  あなたの父母を敬え

  殺してはならない

  姦淫してはならない

  盗んではならない

  隣人に関して偽証してはならない

  隣人の家を欲してはならない

  隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない

 

マルティン・ルター『小教理問答書』より

第一の戒め

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない(出エジプト20:3)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、何ものよりも、神を畏れ、愛し、信頼しなければなりません。

 

第二の戒め

(あなたは)あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない(出エジプト20:7)

問 これは、どんな意味ですか?

答 私たちは神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、私たちは、神の名を使ってのろったり、誓ったり、魔術を行なったり、嘘をついたり、だましたりしないで、むしろ困ったときには、いつでもみ名を呼び求め、常に祈り、ほめたたえ、感謝するのです。

 

第三の戒め

(あなたは)安息日を心に留め、これを聖とせよ(出エジプト20:8)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、神のみ言葉と説教を軽んじないで、むしろこれを聖よいものとして大切にして、喜んで聞き、学ぶのです。

 

第四の戒め

(あなたは)あなたの父母を敬え(出エジプト20:12)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、両親を軽んじたり、怒らせたりしないで、むしろその人々を尊敬し、その人々に仕え、従い、愛し敬うのです。

 

第五の戒め

(あなたは)殺してはならない(出エジプト20:13)

問 これは、どんな意味ですか?

答 私たちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、隣人のからだを傷つけたり、苦しめたりしないで、むしろあらゆる困難の場合に隣人を助け、励ますのです。

 

第六の戒め

(あなたは)姦淫してはならない(出エジプト20:14)

問 これは、どんな意味ですか。

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、言葉においても、行いにおいてもきよく正しく生き、また夫婦は互いに愛し、敬い合うのです。

 

第七の戒め

(あなたは)盗んではならない(出エジプト20:15)

問 これは、どんな意味ですか?

答 私たちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、隣人のお金や品物を奪ったり、また不正な品物や取引で儲けたりしないで、むしろ隣人の財産や生活を助けて、よりよくし、守るのです。

 

第八の戒め

(あなたは)隣人に関して偽証してはならない(出エジプト20:16)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、隣人をだましたり、裏切ったり、あるいは悪い評判を立てたりしないで、むしろ隣人を弁護し、隣人についてよいことを語り、すべてを善意に考えてゆくのです。

 

第九の戒め

(あなたは)隣人の家を欲してはならない(出エジプト20:17a)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、隣人の遺産や家族を、悪いたくらみをもってねらったり、あるいは法律を口実としてそれを自分のものにしたりなどしないで、むしろ隣人がそれを所有することができるように、促し、仕えるのです。

 

第十の戒め

(あなたは)隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない (出エジプト20:17b)

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、隣人の妻やしもべ、家畜をそそのかしたり、奪ったり、背かせたりしないで、むしろ隣人がとどまってそのつとめを果たすように引き止めるのです。

 

十戒の結び

問 神はこれらすべての戒めについて、何と言われますか?

答 神は次のように言われます。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト20:5b6)

問 これは、どんな意味ですか?

答 神は、これらの戒めに背くすべての人を裁くと警告なさいます。ですから、わたしたちは神の怒りの前に恐れおののいて、これらの戒めに背いてはなりません。しかし、神はこれらの戒めを守るすべての人々に恵みと幸いを約束されます。それゆえわたしたちもまた、神を愛し、信頼し、神の戒めに従って喜んで行動すべきです。

 

解  説

十戒は内容上大きく二つに分けられ、モーセが神より十戒を授かった二枚の石版にちなんで、第一〜第三までの戒めを「第一の石版」、第四〜第十の戒めを「第二の石版」と呼んできた。

 

第一の石版の内容を一言で要約するならば、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ22:37)となり、第二の石版は「隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22:39)となる。

 

ルターにおいて、この第一の石版「神を愛する」ことと、第二の石版「隣人を愛する」ことは互いに区別されるものではなく、一つのセットのこととして語られている。すなわち、それぞれの戒めの説明が、「わたしたちは、神を畏れ、愛さなければなりません。それで、わたしたちは…」と語られているように、私たちは神を畏れ、愛するがゆえに、神の戒めを守り、隣人を愛する生き方をしていくのである。換言するならば、私たちは隣人を愛すると言う具体的な生き方の中でこそ、神を愛することを実践していくのであって、隣人を愛することなしに神を愛するということはあり得ないのである。

 

それでは各項ごとに考えてみよう。

 

第一の戒め 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」

ここでは、ただひとりの主なる神のみを神とすることが語られているが、ルターは大教理問答書で、「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなた方の心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と説明している。つまり、私たちがただ単に他の神々を礼拝しないということをこの戒めから受け止めるのみならず、私たちが何に信頼を置いて生きているのかが問われるのだ。お金や自分の能力、他者の地位、他者の目、これらのものに神以上の信頼を置いていないだろうか。あるいは、それらがないとき、私たちは絶望してはいないだろうか。このことも第一の戒めに違反する偶像礼拝なのである。

 

第二の戒め 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」

ここでは「神のみ名をみだりに唱える」ことが禁じられているが、私たちは直接的に神のみ名を使って他者に対してのろったり、偽りの誓いをしたりはしなくとも、神の名や聖書を引き合いにして自分自身のやり方や考え方を絶対化してはいないだろうか。また神の名を呼び求めなければならないところで、呼び求めることをせず一人で落胆したり、あきらめたり、絶望していることはないだろうか。

 

第三の戒め 「安息日を心に留め、これを聖とせよ」

私たちは一週間に一度、神の前に静まって神に造られたいのちを感謝し、また神の恵みにより罪と死から解放されていることを喜ぶ日が必要である。それは、具体的には神の民の礼拝によって与えられる。私たちはこの日を何にもまして大切にしていくことが、私たち自身の心とからだの再創造のために必要である。礼拝を第一に自分の計画を立てていくことを心がけ、どうしても難しい場合は教会に対して礼拝や集会の日を増やしてもらうよう申し出るようにしたい。

 

第四の戒め 「あなたの父母を敬え」

これについて、私たちがこの世の中で恵みと教えを与えてくれる存在としての自分の親や目上の人を尊敬することが教えられているが、大人たちは子どもに恵みと教えを与える神の雛形としてふさわしい生き方をすることが大切である。そして、そのような生き方をしていない親がいるなら、教会の群れや個々のキリスト者が指導して歩みを正し、また、養育のわざを引き受けていくこともまた必要であろう。

 

第五の戒め 「殺してはならない」

これについて、イエスは次のように言われた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(マタイ5:2122)。すなわち、「人は手でも、心でも、口でも、また合図、態度でも、幇助(ほうじょ)、勧告によってでも殺してはならないと仰せられている」のだ(『大教理問答』)。また、もし隣人のいのちが傷つけられる状態にあるときに、「善いサマリア人」の譬え(ルカ1025)に登場する祭司やレビ人のように、私たちがそれを見て見ぬふりをするならば、私たちはその人を殺しているのと同じなのである。

 

第六の戒め 「姦淫してはならない」

ここでは姦淫の禁止が言われるが、イエスはこれについても性的関係としての姦淫行為そのもののみを禁じるのではなく、「みだらない思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」(マタイ5:28)と、一人の人間を「モノ」として受け止めることを私たちに禁じている。他者は私たちの自分の思い通りに扱ってよいものではなく、神に与えられた独りの尊い人格をもった存在であり、男女、また隣人関係において一人ひとりの人格を大切にして、互いに敬いあっていくことが私たちにとって大切なのである。

また、聖書の中では、神・キリストと私たちとの関係が婚姻関係にたとえられ、私たちが神・キリスト以外のものに頼るならば、これはこの第六の戒めを守っていないことになる。

 

第七の戒め 「盗んではならない」

ここでは、人のものを盗むことが禁じられるのみならず、人のものを守る責任も教えられる。人のものや権利が不当に奪われている事実を見ながらも、もし私たちがそこで何も行動せずに、見て見ぬふりをするならば、それはこの戒めに反している生き方をしているのである。また、社会的な搾取の現実についても同様である。社会的に小さな立場に追いやられている人たちが搾取に苦しめられている現実を私たちは見過ごすことは神の戒めに反することなのである。

 

第八の戒め 「隣人に関して偽証してはならない」

ここでは、私たちが隣人に偽りを語ったり、うそを言うことを禁じているのみならず、もっと積極的に隣人に対して真実を語ることが教えられ、隣人が傷つく言動を慎むこともまたここで教えられている。さらには不利な立場に立たされている隣人を積極的に弁護し、(へつらいやお世辞ではなく)真実に隣人を褒めていくこともまた、この戒めが勧めているところである。

 

第九・第十の戒め 「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」

ここでは、第七の戒めを犯すことにつながるむさぼりを禁止する。私たちはそれぞれ神から必要なものはすべて与えられているのであるから、人のものを欲しがることは神の意志に反することである。また社会の不正や構造悪によって、本来与えられるべきものが与えられていない現実があるときには、私たちは抗議の声を上げていく必要があり、また隣人がその不正や構造悪によって苦しめられているときは、隣人の叫びに連なっていくことが求められる。

神は熱情の神、ねたむ神である。それほどまで深く私たちのことを愛し、私たちとともにいてくださる方であるから、私たちもその愛に感謝して、神を愛し、具体的には隣人を愛することを通してそのことを行なっていくのである。

 

ルターは、十戒をただ「〜してはならない」「〜しなさい」という命令のみが書かれたものとして捉えていない。私たちが神を愛する愛の中で、神の前にどのような生き方を、主体的に、積極的に選び取っていくことが大切なのかということを重視している。それはイエスが教えられた右の頬を打たれたら左の頬を差し向け、上着を取られたら下着も差し出し、一マイルの同行を強いられたら二マイル同行する生き方である(マタイ5:3842)

 

そしてこのような積極的な生き方こそ、キリスト者の自由から生まれてくる愛の決断である。キリストが私たちにすべてを与えてくださり、そのいのちまでも与えてくださった。それゆえに、罪と死から自由にされて生かされているものとして、私たちもキリストに倣い、強制されてではなく、自ら進んで隣人に仕えて神の前を歩んでいくことが大切な決断であることが十戒では教えられているのである。

 

しかしもう一面、私たちは限界あり罪を抱えた者としてなかなかそのようには生き得ない者である。神の深い愛に感謝して十戒を守り、主体的に、そして積極的な生き方をしていこうとしても、そうできない自分の姿、神よりも隣人よりも、自分自身のことで精一杯な歩み方をしている私たちの現実にますます気づかされていく。それゆえ、私たちは絶えずキリストの十字架へと立ち返り、そこで新たにされ、また充電して、再出発することを繰り返していくことが必要である。

 

その信仰を教えてくれるのが使徒信条であり、ルターの小教理問答は十戒から使徒信条の解説へと続いている。

 

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使徒信条

 

天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。

そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに下り、三日目に死人の中から復活し、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とをさばかれます。

聖霊を私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン

 

マルティン・ルター『小教理問答書』より

第一条  創造について

「天地の造り主、全能の父である神を私は信じます。」

問 これはどんな意味ですか?

答 私は、神がすべてのものとともに、私を造られたことを信じます。また神は私にからだと魂、目と耳、両手両足、理性とすべての感覚を与えられたこと、そして今もなお保っておられることを私は信じます。その上、神は着物と履き物、食べ物と飲み物、家屋や家庭、家族、すべての所有物を、からだと生活のために必要なすべてを毎日豊かに与えてくださり、あらゆる危険から私を保護し、すべての悪からふせぎ守ってくださることを信じます。そしてそのすべては、私の値打ちとか功績とかによるのではなく、純粋に神の恵みと憐れみによるのです。これらのすべてのことのゆえに、私は神に感謝し、神を讃美し、仕え、従うのです。これはたしかに、本当のことです。

 

第二条  救いについて

「そのひとり子、私たちの主イエス・キリストを、私は信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに下り、三日目に死人の中から復活し、天に昇られました。そして全能の父である神の右に座し、そこから来て、生きている人と死んだ人とを裁かれます。」

問 これはどんな意味ですか?

答 私は、父から永遠の中にお生まれになったまことの神であり、おとめマリアから生まれたまことの人であるイエス・キリストが、私の主であると信じます。主が金銀をもってではなく、ご自身のきよい、尊い血と、罪なくして受けた苦しみと死をもって、失われ、罪に定められた人間である私を、すべての罪と、死と、悪魔の力とから救い出し、勝ち取ってくださったことを信じます。こうして、私は主のものとなり、主が死からよみがえり、永遠に生きて支配なさっておられるがゆえに、私も御国において主のもとに生き、永遠の義と純潔と祝福の中で主に仕えるのです。これはたしかに、本当のことです。

 

第三条  聖化について

「聖霊を、私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます。アーメン」

問 これはどんな意味ですか?

答 私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。それは聖霊が、この地上のすべてのキリストの教会を召し集め、照らし、きよめ、そしてイエス・キリストにあるまことの唯一の信仰のうちに支えられるのと同じです。キリストの教会において聖霊は、私とすべての信仰者の日ごとのすべての罪を豊かにゆるし、そして終わりの日に、私とすべての死者をよみがえらせ、キリストを信じるすべての者とともに、私に永遠のいのちを与えてくださいます。これはたしかに、本当のことです。

解 説

礼拝の中の信仰告白において、私たちは「私は・・・と信じます」と告白する。

 

世の多くの人が聖書の神に対して色々なことを言っているし、日本では「八百万の神」と言われるように様々なものが神として信じられている。その中でイエス・キリストは「それではあなたがたはわたしを何者と言うのか」と私たちひとり一人に問いかけておられる(マルコ829)。私たちはこのイエスの問いかけに対して「私は・・・と信じます」と主体的、積極的に答えていくことが大切であり、そのような思いをもって礼拝の中で信仰告白をするものでありたい。

 

かつて使徒信条は、使徒たちが伝道旅行に旅立つ際に、それぞれ信仰箇条を一句ずつ持ち寄って、正しい信仰の要約として形成したものだと考えられていたが、それは伝説に過ぎない。しかし、その内容や用語はきわめて聖書的、使徒的であるゆえに、今日でも『使徒信条』と呼ばれる。これは2世紀の後半頃から用いられてきた『古ローマ信条』が発展し、7世紀には今のかたちに完成したと考えられる。

 

そのように教会形成後かなり早い時期から告白されている信仰告白である。私たちはすでに召された信仰の先輩、そして、これから導かれる信仰の友や、やがて生まれてくる人々とともに、また、世界中のあらゆるところにいる信仰者とともに、一つの共通する信仰を告白していることを覚えたい。

 

小教理問答及び大教理問答でルターは三位一体の神の位格に従って、三つに分けている。<父なる神についての第一条は創造を説き、み子についての第二条は救いを、聖霊についての第三条は聖化を説くことになる。したがって、使徒信条をごく簡単にまとめると次の数言に帰するであろう。「私は、私を造りたまいし父なる神を信じる。私は、私をあがないたまいし子なる神を信じる。私は、私を聖化したもう聖霊を信じる」>(大教理問答)

 

第一条において、ルターは創造主なる神を、天地のあらゆるいっさいのものと共にこの「私」を創造した方であるとの信仰に立っている。天地万物のいっさいを造られた聖書の神は、この私にいと近くあって、私と深く具体的に関わる神である。

この神は、世界の万物を造るとき、そしてこの私を造るとき、いっさいの無から言葉によって創造した。それゆえ、神は無からすべてを生み出すことのできる全能な方である。また神が私を創造したということは、私にいのちを与えられたことはもちろん、私に必要なすべてを与え、そのいのちを保っておられることであり、さらには私をしっかりと守り支えてくださることに他ならない。

このように神が一方的な恵みとしてすべてを与えてくださると私たちが信じるとき、私たちが自力でそれを得たかのような錯覚をして、それを所有していることを誇りにしたり、所有していない人を卑下したり、所有するものをもって他者を利用したり、強制したりすることはできない。なぜなら、それは神が私たちを愛するがゆえに与えてくださったものだからである。また逆に私たちは、不足や欠乏で嘆く必要もない。なぜなら、神がすべてを私たちに与えてくださるからである。

ルターは「大教理問答書」で、十戒の第一戒「あなたはわたしをおいて他に神があってはならない」の解説として、「ひとりの神とは人間がいっさいのよいものを期待すべき方、あらゆる困窮に際して避けどころとすべき方である。…今あなたがたの心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それが本当のあなたの神なのである。」と説明している。私たちが信仰の告白をするとき、私たちが何に信頼を置いているのかが問われるのである。お金や自分の能力、自分の考え、自分の価値観、他者の地位、私たちはそれらのものに信頼を置いていないだろうか、あるいはそれらがないとき、私たちは絶望してしまってはいないであろうか。このことも主なる神以外のものを私たちが礼拝する偶像礼拝に他ならないのだ。すべてのものは、神が私たちの親としての見返りを求めない一方的な無償の愛をもって成してくださるのである。かつて神は私たちから遠く離れた恐ろしい方として考えられていたことに対して、イエスは神を「アッバ」=「パパ」と呼んだ。それほどイエスにとって神はいと近き存在であり、そしてイエスの出来事を通して、私たちにとって神は身近な方となったのである。(神を父と呼ぶが、神はご自分の形に似せて男と女に創造されたと創世記第1章にあるように、神=男性という一方の性ではないことは言うまでもない。)

ルターは使徒信条の各箇条の解説の後に「これはたしかに、本当である」と言っている。これはヘブライ語の「アーメン」の訳語である。「アーメン」はただ祈りの最後にお題目のように唱えるべきものではなく、自分が告白したこと、祈ったこと、それぞれ一つ一つのことに対して、「これはたしかに、本当である」との気持ちを込めて、心から唱えていくべきものである。

 

第二条、イエス・キリストについての告白をルターは「救いについて」という表題で語った。第一条で告白したように、神は私たちを造り、あらゆる必要なものを与え、私たちを保ち支えていてくださっている。しかし、私たちは、それほど恵み深い神を私たちの神とすることなく、自分自身や他のものに頼り、まことの神から離れ、迷い、死へ向かって孤独の内に歩んでいた。そしてそうした私たちの生き方は、罪と死と悪魔の奴隷となって生きていることに他ならない。しかし、神はそのような、自ら離れ去った私たちを見捨て去ることなく、最も大いなる賜物をくださり、救いをお与えくださったのである。それが御子イエス・キリストである。

イエス・キリストは「父と同質」(=「ニケア信条」による。「同質」であるのだから、父なる神とキリストの間には「上下関係」・「優劣関係」はない)の子なるまことの神であったが、「私たち人間のため、また私たちの救いのために」天から私たちの世界へと降りてきて、まことの人間となられたのである。

キリストは、もともと神である方が、仮に人の姿を取られたというのでも、神に近い人間なのでもない。あるいは、死後、神になられた人間なのでもない。キリストは、まことの神であり、まことの人である。すなわち、100%神であられ、同時に100%人なのである。

そして、「聖霊によっておとめマリアから生まれた」と告白されるように、人間の力が介入しない神の一方的な働きによって、それが可能となった。イエスは私たちを救うために、「ポンテオ・ピラトのもとに」=この世の権力のもとに自らの身を委ね、ご自身のいのちを十字架で私たちに与えてくださり、そのイエスの血潮により私たちに罪の赦しが与えられた。キリストは、「わが神、わが神、なぜ私を見捨てられたのか」と叫びながら死なれた。孤独のうちに死なねばならない私たちの死の苦しみを、キリストが私たちに代わって苦しみもがいてくださったのである。そして、その死をもって、イエスの生涯が終わったのではなく、死からの復活によってすべてのものへの勝利が与えられ、私たちにも死への勝利が与えられた。それゆえ、もはや私たちは罪と悪魔と死の奴隷としてではなく、すべてのものの勝利者なるイエスのものとされ、イエスこそわが主となられたのである。もはや私たちは死をも恐れる必要はないのだ。

そして、キリストは、復活後、天に昇り、神の栄光をもって一切をまことの愛と義によって支配しておられ、私たちをそのみ国へ迎え入れるために、再びこの世界にやってきてくださる(使徒111)。イエスが世の終わりに再び私たちの世界にやってくることを「再臨」と呼ぶ。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠のいのちなのです」(ローマ623)とパウロが語るように、神から離れて生きていたがゆえに確実に死に向かって歩んでいた私たちが、イエス・キリストのいのちと引き替えに、永遠のいのちとみ国への道を神からのプレゼントとして無償でいただいたのである。私たちは「これはたしかに、本当である」と信じ、アーメンと唱えるのである。

 

第三条は、「聖化について」というタイトルのもとに聖霊について語られる。ルターは私たちが聖霊の働きなくしては信仰をもつこともできず、さらには、キリストのもとに来ることすらできないと告白している。聖霊が私たちをキリストのもとへと導き、信仰を与えてくださるのである。そして、私たちがキリストのもとへと導かれ救いに生かされることこそが「聖化」なのである。

それは、具体的には聖徒の交わりとしてのキリストの教会の中で起こる。み言葉の説教及び洗礼と聖餐の聖礼典によって、私たちはキリストのもとへと導かれ、信仰が与えられ、保たれるのである。「教会に行かなくても自分で聖書を読み祈っていればそれでよい」という信仰者もいるが、聖霊なる神は教会の交わりの中で福音の説教を通して私たちに語りかけ、聖礼典を通して私たちに働きかけるのである。

礼拝のとき、説教者は聖霊によって神のみ言葉を語るわけであるが、同時に私たちのうちにあってみ言葉を聞き、理解させてくださるのも聖霊である。聖霊がみ言葉を人々の心に語りかけ、聖霊が私たちの心を照らし、私たちがみ言葉を捉えて、み言葉にすがり、み言葉のもとに留まるように導いてくださるのである。

使徒信条で教会は「聖徒の交わり」と位置づけられている。このように、教会とは「建物」ではない。ともにみ言葉を聞き、洗礼の恵みに導かれ、聖餐に与るものの信仰者たち、及びその共同体こそ教会である。「教会は、聖徒の交わりであって、その中で福音が純粋に教えられ、聖礼典が正しく執行される。」(アウグスブルグ信仰告白第7条)

教会の頭、つまり、リーダーはキリスト、ひとりの主にほかならない。たとえ地上の教会が多くの教派に別れていても、人々が自分と違う伝統にあっても、この同じひとりの主に導かれる、同じ唯一の「聖徒の交わり」の一員なのである。ここで「公同の教会」と訳されている言葉は、もともとラテン語で「エクレシア・カトリカ」、すなわち「カトリック(普遍的な)教会」という言葉である。私たちはもともと、そして、今も一つの普遍的な教会の一員である。

「教会は罪人の集まりである」という言葉を私たちはよく用いる。たしかにこの地上の教会は人間の集団であるためにみなそれぞれ弱さを抱えている一人一人によって形成されているがゆえに、「罪人の集まり」であることは否定できない事実である。しかし、そうであっても、私たちはただ「罪人のま集り」としてのみ教会を捉えるのではなく、同時に、教会がイエス・キリストによって「罪赦された聖徒の交わり」であることをも受け止め、お互いに愛し仕え合うことを大切にしたい。

また聖徒の交わりなる教会において、聖霊は私たちに罪の赦しとからだの復活、永遠のいのちを与えてくださる。それゆえ教会の仲間はキリストにあって、その恵みを分かち合い、互いに宣言し合う者として向かい合っているのである。また罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちが教会の仲間を通して与えられ、また与えていくのであり、それゆえ私たちには、小さなキリストとしての役割が与えられているのである。それがキリストの使者=「使徒」としての私たちの働きである。

第一条と第二条は既に成就した神のわざについて告白しているが、この第三条は教会を通して今も継続し、また世の終わりに至るまで働き続ける信仰告白である。つまり、聖霊なる神によって今も導かれており、これからも導かれることを堅く信じ、アーメン「たしかに本当です」と私たちは告白するのである。

また、この第一条の父なる神と第二条の子なる神キリストと第三条の聖霊なる神がともに働くときにはじめて神の救いの計画が実現するのであって、父・子・聖霊のどの働きも欠けては成り立たないことを、私たちは信じるのである。本章のはじめに、「私は、私を造りたまいし父なる神を信じる。私は、私をあがないたまいし子なる神を信じる。私は、私を聖化したもう聖霊を信じる」とのルターの言葉を引用したが、まさにこの父と子と聖霊なる神の働きはバラバラなものではなく、三つでワンセットなのである。これを信じるのが「三位一体」の信仰である。

 

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主の祈り

天の父よ。

み名があがめられますように。

み国が来ますように。

み心が天で行われるように、地上でも行われますように。

わたしたちに今日もこの日の糧をお与えください。

わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、

わたしたちの犯した罪をおゆるしください。

わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。

み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

 

マルティン・ルター『小教理問答書』より

呼びかけ 天の父よ。

問 これはどんな意味ですか?

答 この言葉によって、神が私たちのまことの父であり、私たちは神のまことの子どもであることを信じ、ちょうど愛する子どもがその父に向かって求めるように、絶対的な信頼と安心をもって神に向かって求めるように、(いえすさまは)勧めています。

 

第一の願い み名があがめられますように。

問 これはどんな意味ですか?

答 神の名は、もちろん私たちが祈らなくてもそれ自身まことに聖なるものですが、私たちのこの祈りによって、神の名が私たちの間でも聖なるものであるようにと祈るのです。

問 これはどのようにしてなされるのですか?

答 神のみ言葉が正しく、純粋に教えられ、そして私たちが神の子として、み言葉に従ってきよく生活するときに実現します。天におられる愛する父よ、このために私たちを助けてください。しかし、神の言葉の教えるところと違うことを教えたり、怒ったりする人は、私たちの間で神のみ名を汚すのです。天の父よ、このことから私たちをお守りください。

 

第二の願い み国が来ますように。

問 これはどんな意味ですか?

答 たしかに神の国は私たちの祈りがなくても自らやってくるものです。しかし、私たちはこの祈りにおいて、み国が私たちのところにも来るようにと祈るのです。

問 それはどのようにしてなされるのですか?

答 それは天の父が私たちに聖霊を与えてくださり、神の恵みによって聖なるみ言葉を信じ、この世においても永遠の世においても信仰深い生活をするときに実現します。これこそ、神のよき恵みなるみ心です。

 

第三の願い み心が天で行われるように、地上でも行われますように。

問 これはどんな意味ですか?

答 神のよき恵み深いみ心は、私たちの祈りがなくても確かに実現します。しかし、私たちはこの祈りにおいて、み心が私たちの間においてもまた実現するようにと祈るのです。

問 これはどのようにしてなされるのですか?

答 それは、悪魔やこの世の思いや私たちの肉の意志があって、私たちにみ国が来ることを妨げようとする、すべての悪いたくらみや意図を神が打ち砕き、防いで、反対にみ言葉と信仰のうちに終わりまで私たちを強め、堅く守られるときに実現します。これこそ、神のよき恵みあるみ心です。

 

第四の願い わたしたちに今日もこの日の糧をお与えください。

問 これはどんな意味ですか?      

答 神は、たしかに私たちの祈りがなくても、すべての悪人にさえも、毎日の食べ物を与えてくださいます。しかし、私たちはこの祈りにおいて、神が私たちにこのことを知らせてくださり、毎日の食べ物を感謝の心で受けるように導かれることを祈るのです。

問 毎日の食べ物とは何ですか?

答 それは肉体の栄養や生活になくてはならないものです。たとえば、食べ物と飲み物、着物と履き物、家と屋敷、畑と家畜、金と財産、信仰深いつれ合い、信仰深い子ども、信仰深い使用人、そしてまた信仰深く信頼できる支配者、よい政府、よい天候、平和、健康、教育、名誉、よき友人、信頼できる隣人などです。

 

第五の願い わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください。

問 これはどんな意味ですか?

答 私たちはこの祈りにおいて、天の父が私たちの罪に目を留められないように、またこの罪において私たちの祈りを拒まれないように祈るのです。というのは、私たち自身は祈ると言ってもそれにふさわしい何の値打ちもなく、その功績もないからです。それどころか、私たちは日々の多くの罪を犯し、ただその罰を受けるにふさわしい者です。ですから、神が恵みによって、すべてのものを与えようとなさったのです。したがって私たちもまた、私たちに罪を犯す者を心からゆるし、喜んで親切を尽くしたいのです。

 

第六の願い わたしたちを誘惑から導き出して、

問 これはどんな意味ですか?

答 神はどんな人をも試みに合わせられません。しかし私たちはこの祈りにおいて、神が私たちを助け守ってくださり、悪魔やこの世や、また私たちの肉欲が私たちを欺いたり、または間違った信仰や絶望、またはその他の大きな咎や罪悪に陥らないように祈るのです。そしてまた、たとえ私たちがそれらのものに責められても、最後には私たちが打ち勝って、勝利を得ることができるように祈るのです。

 

第七の願い 悪からお救いください。

問 これはどんな意味ですか?

答 すべてをひとまとめにして、私たちはこの祈りにおいて、天の父がからだと魂、財産と名誉に関わるすべての悪から私たちを救ってくださり、そしてついには私たちの臨終に際して、祝福された終わりを与え、恵みをもって悲しみ多いこの世から天へ迎え入れてくださるように祈るのです。

 

結び み国も力も栄光も、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。

問 これはどんな意味ですか?

答 これらの願いが天の父に結ばれ、聞き入られることを私たちは確信します。

なぜなら、神ご自身がこのように祈りなさいと私たちに命じられ、その上聞き入れてくださると約束してくださったからです。アーメンと言うことは、まことにそうなるのですという意味です。

 

解 説

主の祈りは、ルカによる福音書1124およびマタイによる福音書6913で、イエスが弟子たちに教えた祈りに、後の教会がその応答として「国と力と栄え…」との頌栄(栄光をたたえ讃美することば)を付け加えたものである。

 

イエスは弟子たちの「私たちにも祈ることを教えてください」との願いに応えて「主の祈り」を教えてくださった(ルカ111)。ここから、私たちは祈りはイエスに教えてもらうことが大切であることを学びたい。そして、私たちがどのように祈ってよいかわからないときや、祈れない日々にも、この「祈りを教えてください」と祈ることが私たちにはできることを心に留めておきたい。

主の祈りは七つの祈願に分けられるが、その内容上、最初の三つの前半部分と残りの四つの後半部分に、大きく二つに分けることができる。前半部分の祈りの内容は、神の「み名」・「み国」・「み心」についてである。「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ633)ことが、この祈りの中でも表されているのである。

 

呼びかけ

主の祈りは、まず「天の父よ」と呼びかけることから始まる。祈りは神との会話・対話でもあるから、その対話の相手に名を呼びかけて語りかけることが大切であるし、神こそ私たちのまことの親として私たちを暖かく配慮し、愛してくださる方であり、正しく私たちのことを収めてくださる方であることを告白するのである。また、「天の」と呼ばれるように、私たちを一つのところで等しく見つめていてくださり、差別なく公平に扱ってくださるお方である。信頼と親しみを込めて「父よ」と神に呼びかけて祈りを始めることが大切であるし、「父よ」と親しみを込めて呼ぶことが私たちにはゆるされているのだ。

 

ルターは、神のみ名が聖とされることも、み国がやってくることも、み心が行なわれることも、食べ物が与えられることも…、すべてはみんな私たちが祈る前から備えられていることであるけれども、それを他でもなく神からこの私のために与えられる恵みとして私たちが受け止めることができるように、それら一つ一つを覚え祈り求めていくことが大切であることをルターは教えている。

 

第一の祈り

「み名があがめられますように」。私たちは私たちの生活を通して神の名が讃美されるような生き方をしていくことができるように祈る。逆に、私たちの生き方によってみ名が汚されることがないように祈るのである。私たちは自分自身の力では神の名が讃美されるような生き方はできず、神の助けを必要とするからである。

 

第二の祈り

「み国が来ますように」。み国とは、神の支配を表す。神の支配が私のもとにも齎されるように祈る。み国は私たちが死んだ後に迎えられる場であるのみならず、今ここで生かされているこの世界でも、私たちのすべてを神の支配にお任せするとき、神の国は私のもとに実現するのである。神の国を生きる喜びを阻むものが私たちの世界にあるのならば、それを取り除いてくださいとの祈りでもある。また、み国がそうであるように、神の愛と平和をもって人々が過ごせるように、また、あらゆる生物が過ごせるような生き方をも、この祈りで願い求める。

 

第三の祈り

「み心が天で行われるように、地上でも行われますように」。ここでは、神の国と私たちの世界が一つの線で結び合わされる。神の尊いみ心が私たちの人生の中で具体的に実現されていくように祈る。また、この世界で神のみ心に反するような現実があるなら、それが一日も早く終わるように祈り、また私たちがそのために働いていくことができるように祈るのである。イエスがゲッセマネの園で祈られたように(マタイ263646、マルコ143242、ルカ223946)、辛いことも嬉しいことも主の御心のままになるように、そして、それを私たちが受け入れることができるようにと願う祈りでもある。

 

第四の祈り

「わたしたちに今日もこの日の糧をお与えください」。この祈りは、毎日の食糧が私たちに与えられるように祈ると同時に、ただ食糧のみならず私たちにとって必要な一切のものが与えられるように願い求める祈りである。そして、この世界の中で、もしそれらが与えられない現実があるなら、その現実を少しでも改善していくために、私たちが働くことができるようにとの祈りでもある。

 

第五の祈り

「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」。この祈りは、罪の中を生きる私たちの罪の赦しを神に願い求める祈りである。そして、私たちはその祈りの中で、こんな罪に汚れた私たちが赦された喜びを知らされ、私も私に罪を犯す人たちを赦していく決心へと導かれるのである。私たちがもし他者を赦せないのなら、自分の罪深さと神の赦しの偉大さを私たち自身がわかっていないことの表れである。

 

第六および第七の祈り

 「わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救いください。」。この祈りは、特に私たちが絶えず繰り返し祈っていくべき祈りである。なぜなら、神から私たちを離れさせようとする悪魔的な力は、「決して手を休めず、また疲れもしないという敵で、一つの誘惑がすむと、きまって別の新手の誘惑が現われる」(大教理問答)からである。

 

この力強い誘惑に対して私たちは自分の力で闘っても勝利はできない。かえってそれは私たちを神への信仰から遠ざけることであり、悪魔のおもうつぼである。「けれども祈りは悪魔を防ぎ、これを撃退することができるのである」(大教理問答)

 

 私たちがこれらのことを神に祈るのは、神こそが私たちの願いに応えて、それを与えてくださる力ある方に他ならないからである。私たちはこの神を信頼し、また神に信頼されたものとして、そして、共に祈る仲間と心を合わせて、「アーメン」「まことにほんとうです」「たしかにそうなりますように」と祈りを結ぶのである。

 

また個人で自由に祈る場合は、イエスは「わたしの名によって祈りなさい」と言われた言葉通り祈るのである。それは、イエスが神に直接私のためにお願いをして、執り成しの祈りをささげてくださり、神はそれに応えてくださるからである。それゆえ、私たちは祈りの最後に「イエスの名によって祈る」とか「イエスの名を通して神にささげる」と結ぶのである。

 

 主の祈りは「私たち」と祈る。それゆえ、私一人ではなく、世界の仲間と一緒に心を合わせて主の祈りを祈っているとの思いが大切である。私だけの祈りではなく、私たちの祈り、「世界を包む祈り」(ティーリケ)なのである。それゆえ、私たちが主の祈りを祈るとき、私にとってそのことが与えられ実現されていれば、それでよいというのではなく、もし世界の中でそれが与えられていない人がいるならば、それを他人事としてではなく、主の祈りを祈る「私たち」の課題として受け止め、祈り、主体的・積極的に行動することへと導かれていくことが重要である。

 

 私たちがそれぞれ自由な祈りをする際にも、この主の祈りの精神を大切にしたい。「私のための」祈りから「私たちの」祈りへと拡げられることを、主の祈りは私たちに教えてくれる。日本国内外の様々な争いや飢え、その他多くの課題は、自分から遠い問題なのではなく、他でもなく、日々、主の祈りを祈る「私の課題」なのである。

 

この主の祈りの中には、私たちの祈りにとって大切な内容すべてが含まれている。それゆえ、祈ることができないとき、祈りがわからないとき、私たちは主の祈りを祈るものでありたい。また、この主の祈りを膨らませて祈りに導かれたいのである。たとえば、「み名があがめられますように」と祈りながら、私たちはみ名を汚して生きている自分へのざんげの祈りへと導かれていく。「み国が来ますように」と祈りながら、み国へと召された家族を持つ仲間のことを覚える祈りへと導かれていく。「み心が天で行われるように、地上でも行われますように」と祈りながら、自分の今迷っていることで神のみ心がなされるようにとの祈りへと導かれていく。「わたしたちに今日もこの日の糧をお与えください」と祈りながら、あれもこれもすべてのものが神に与えられている感謝の祈りへと導かれていく。「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるしください」と祈りながら、赦された喜びへと、また憎しみ合っている仲間のための執り成しの祈りへと導かれていく。「わたしたちを誘惑から導き出して」と祈りながら、具体的な困難を覚えることに関する願いへと導かれていく。「悪からお救いください」と祈りつつ、神こそが苦しみから救い出してくださる方であり、喜びの祈りへと導いてくださる方であることを知る。このように私たちが主の祈りを祈り、それを膨らませていくとき、さまざまな祈りができるようになるのである。それゆえ、イエスはいつどんなときも私たちが覚えて祈るべき祈りとして主の祈りを私たちに教えてくださったのである。

 

 「祈りは呼吸である」と言われる。私たちが信仰者として生きていく上で、なくてはならないもの、欠かすことのできないものが祈りである。聖書は「絶えず祈れ」と語り、フォーサイスは「祈らないことは最大の罪である」と言った。また、祈ったけれども聞かれない場合もある。それについてフォーサイスは、それは神が祈りを聞いてくださらなかったのではなく、私たちが途中で祈りを止めたことに起因すると言う。神は必ず私たちの祈りに応えてくださる。神に委ねることができるまで、祈りを途中で止めることなく続けるものでありたい。

 

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洗礼の礼典

 

マルティン・ルター「小教理問答書」より

 

第1 洗礼の本質

問 洗礼とは何ですか。

答 洗礼とは単なる水ではなく、神の命令の中に含まれ、神のみ言葉と結びついた水です。

問 その神のみ言葉とは何ですか。

答 私たちの主イエス・キリストが、マタイによる福音書の終わりに、次のように言っておられます。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け…」(マタイ2819)

 

第2 洗礼の恵み

問 洗礼は何を与え、どんな役に立ちますか?

答 神のみ言葉と約束とが述べているように、それは罪の赦しをもたらし、死と悪魔から救い出し、信じるすべてのものに永遠の救いを与えます。

問 そのみ言葉と約束とは、どれですか?

答 私たちの主イエス・キリストがマルコによる福音書の終わりに、次のように言っておられます。「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。」(マルコ1616)

 

第3 洗礼の力

問 どうして水がそのような偉大な働きをすることができるのですか。

答 言うまでもなく、水がそれをするのではなく、水と結びつき、水とともにある神のみ言葉と、水とともにあるこのみ言葉を信じる信仰がするのです。なぜなら、み言葉なしには水は単なる水に過ぎず、洗礼ではありません。しかし神のみ言葉がともにあるとき、それは洗礼です。すなわち、それは恵み深いいのちの水であって、「聖霊による新しい生まれ変わりの洗い」なのです。聖パウロがテトスへの手紙第357節で言っているとおりです。「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。神は、私たちの救い主イエス・キリストを通してこの聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうして私たちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」

 

第4 水による洗礼の意味

問 このような水の洗礼は、いったい何を意味しますか?

答 私たちのうちにある古いアダム(=人)が、毎日の心の痛みと悔い改めによってすべての罪と悪しき欲望とともに溺れ死んで、また新しい人が日ごとに現れて、よみがえり、義と純潔をもって永遠に生きることを意味します。

問 それはどこに記されていますか?

答 聖パウロがローマの信徒への手紙第6章4節で次のように言っています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」

解 説

 

 洗礼は水を使って行なわれるが、大切なのはその水に神のみ言葉と命令が加えられていることである。神のみ言葉と命令が加えられていなければ、その水はただの「風呂屋のあるじが注いでくれる水」(大教理)にすぎない。しかし、み言葉が加えられるとき、それは「神の水」となり、神の約束が私において実現するのである。

 

 それでは、洗礼の水に加えられるみ言葉とは何か。「あなたがたは行ってすべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け・・・」(マタイ2919)、「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マルコ1616)とのイエスの言葉をルターは挙げている。すなわち、洗礼はイエス・キリストの命令によって、「父と子と聖霊の御名によって」、まことの神の御名によってなされるものである。人間が考え出した儀式ではなく、イエスが命じ、神ご自身が定めた「神の事柄」として教会は洗礼を受け止めてきたし、私たちもそれを信じるのである。洗礼は人間的な外的な事柄で、あってもなくてもよいものという意見が繰り返し出てきたが、しかしながら、それがどんなに外的な事柄であれ、なお、この洗礼を制定し、確立し、保障する神のみ言葉と戒めとは厳然と存在しているのだから、たとえその外観が一本のわらより価値なきものに見えようとも、それでも貴重なものであるに違いない。

 

 そして私たちが神の御名によって洗礼を受けるということは、人間から受けるのではなく、神ご自身から受けるということである。それゆえに、洗礼は人間の手を通して行なわれるのではあるが、真実には神ご自身のわざである。洗礼の執行者はただ神お一人であり、神はキリストのからだなる教会を通してそのわざを遂行される。具体的には、教会にあってその職務に召されている者がそれを担うのだが、そこで私たちは人ではなく、洗礼のまことの執行者なる神を見なければならない。「○○教会の○○先生に洗礼を受けた」ということを記念して、または感謝して語ることはよいことではあるが、もっとも大切なことは、神が私に洗礼を授けてくださったというこの事実にほかならない。

尚、緊急の場合はどの信徒であっても洗礼を授けることができる。

 

 それでは洗礼は何のために行なわれるのか、洗礼の意味は何か。新約聖書において洗礼は多様なイメージで語られている。キリストの死と復活への参与(ローマ6:35、コロサイ212)、罪を洗い清めること(1コリント611)、新たに生まれること(ヨハネ35)、キリストによって明るい光へと導きいれられること(エフェソ514)、古い衣を脱ぎ捨ててキリストによる新しい衣を着ること(ガラテヤ327)、霊による更新(テトス35)、洪水からの救い(1ペトロ32021)、奴隷の縄目からの解放(1コリント10112)、様々な差別などの障壁が乗り越えられる新しい人間性への解放(ガラテヤ327281コリント1213)等。このように多様なイメージで表現されるが、ルターが次のように言っているように、洗礼の現実は一つである。

 

 『これもまた、「信じて洗礼を受ける者は救われる」とのキリストのみ言葉からがいちばん良く理解される。だから、ごく端的に、救うということ、これが洗礼の力であり、わざであり、効用であり、結果また目的であるというふうに理解するが良い…ところで、救われるということは、罪と死と悪魔から解き放たれて、キリストのみ国に入り、キリストとともに永遠に生きるということに他ならない…それを成就するのはみ言葉である。すなわち…神の御名がその中に存在するという事実である。神の御名が存在するところ、そこには必ず命と救いが存在する』。

 

 洗礼が与える賜物を受ける人は、「信じて洗礼を受ける者は救われる」と語られているように、信仰をもってこれを受けるのである。この洗礼の水のもとに、そして水とともにあるみ言葉においてこそ洗礼の賜物が与えられるということを「信じて洗礼を受ける者」となることが大切なのである。それゆえ私たちは救いがただ神とそのみ言葉によってのみ与えられることを信じる信仰が求められる。自分の力だとか、他のものに救いがあると考えることは正しい信仰ではない。

 

 洗礼は、頭から水を三度かけてもらうという、人間的に考えるならたいへん「愚かな」行為だが、しかしそれを神の命令に基づくものであり、神がこのわざを通して私を洗い清めてくださるということを心から信じることが大切なのである。そのために初代教会から洗礼の前には十分な準備期間を持って、神のみ言葉を学び、信仰告白に導かれることを大切にしてきたのであるし、今日の私たちの教会もそうしていくのである。

 

 しかし同時に、私たちが洗礼の意味や聖書の内容が十分に理解できなかったとしても、洗礼は神のみ言葉に結びついて行われるものであるから、その洗礼は正当であり、有効である。何よりも大切なのは、先立つ神のみ言葉とみ恵みである。それを受身として受容していくことが信仰である。それゆえ洗礼を受ける者は、たとえすべてのことがわかってなくとも、救いを願う意思さえあればそれで十分である。(使徒言行録82738)

 

 自分自身では信仰を持ち得ないこどもの洗礼も有効である。なぜなら、そこでみ言葉が語られ、先立つ神のわざがなされているからである。それに対して、こどもの保護者が、そして教会が、その子がやがて信仰をもつようになることを確信して、またそれを祈りつつ、洗礼の恵みに委ねるのである。それゆえ、洗礼にあずかった子どもが将来自らの口で信仰を告白する日を迎えられるように、保護者と教会は子どもを教育していく務めが果たせられる。

 

 洗礼を意味するギリシア語は、もともと「沈む」に由来する言葉である。私たちは洗礼によってすっかり水の中に沈められ、溺死させられ、そして再び引き上げられる。私たちは洗礼によって古い人を殺し、新しい人間に生き返るのである。このことは洗礼後のキリスト者の生涯の中で、生涯を通して行なわれ続けるべき事柄である。「したがって、キリスト者の生涯とは、ひとたび開始されるや、絶えず続けられていくべき日ごとの洗礼に他ならない。」(95箇条の提題)。古い人に属すること、「短気、憎悪、嫉妬、不貞、貪欲、怠慢、高慢、それに不信仰」がいつも取り除かれ、新しい人に属するものが現れてくるように、絶えず努力していくのである。

 

 しかし、私たちはその努力と歩みを続けていく中で、むしろそのような古い人に属するものが自分のうちに増大していくという現実に悩まされる。それゆえに私たちにはいつも罪の告白と悔い改めが必要なのである。ルターはカトリック教会の「ゆるしの秘蹟」(=「ざんげ・告解」)をこの洗礼の中に含むものとして受け止めた。私たちは懺悔を通して洗礼の恵みに立ち返り、またそこから出発することができるのである。洗礼は一回きりの永続的なことに対し、ざんげは事あるたびに繰り返すべき事柄である。だれでも洗礼を日常の着物のように考え、これを着て生活すべきである。こうして、絶えず自分が信仰とその実の中にいることを明らかにし、古い人を抑え、新しい人において成長するように心かけるのである。

 

 また洗礼を受けることにより、私たちはキリストのからだなる教会の一員とされるため、キリストの体の一部分としての責任を果たし、またキリストの証人として生きていくことも大切なことである。洗礼によって救いを受け取る私たちは、神の国の民としてこの地上の生を歩んでいくものとされるのである(フィリピ320)

 

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ざ ん げ

 

マルティン・ルター「小教理問答書」より

問 ざんげとは何ですか?

答 ざんげは二つの部分から成り立っています。一つは罪の告白であり、もう一つはゆるしの言葉、あるいはゆるしを神ご自身から受けるように、ざんげを聞く牧師から受けるのです。これによって天にいます神のみ前に罪がゆるされていることを疑わないで堅く信じるのです。

問 それならどんな罪をざんげしなければなりませんか?

答 私たちは神の前において、すべての罪を負わなければなりません。「主の祈り」で私たちが祈るように、自分で気づかない罪を負わなければなりません。但し、ざんげを聞く牧師の前では、私たちが知っており、心の中で感じる罪のみを告白しなければなりません。

問 それはどんなものですか?

答 十戒に照らして、あなたの状態を反省してみてください。あなたは父として、母として、息子として、娘として、主人として、主婦として、僕として、不従順、不真実、怠慢、短気、不貞、激情的ではりませんでしたか。また言葉や行いによって苦しみを与えませんでしたか。盗んだり、怠ったり、なげやりになったりして、害を与えませんでしたか。

問 どうか簡単なざんげの方法をわたしに教えてください。

答 あなたはざんげを聞く牧師に次のように言わなければなりません。

 「敬愛する師よ、私は、あなたにお願いします。私のざんげを聞いて、神のゆえに私にゆるしを告げてください。」

 このように言いなさい。

 「哀れな罪人である私は、神のみ前にすべての罪を負い目として告白いたします。ことにあなたの前で、私はしもべ、しもめでありますが、残念なことに、私は私の主人に対して忠実に仕えなかったことを告白します。しばしば命じられたことを実行しないで、主人たちを怒らせ、呪いに駆り立て、怠り、害を被らせました。また、言葉においても、行いにおいても、恥知らずであり、仲間と争い、女主人に対しても不平を言い、恨んだりなどしました。これらすべてのことは、申し訳ないことであり、お許しを願いします。私はよりよくなることを願っています。」

 主人、または女主人は次のように言いなさい。

 「特に私は、あなたの前で、神を敬うように、私の子どもと召使と、連れ合いとを忠実に教育しなかったことを告白します。私は呪ったり、不貞な言葉や行いによって、私の隣人に対して害を与え、悪口を言いふらし、高く売りつけ、悪くて不完全なものを与えました。」と。その他にも主人、あるいは女主人がなお神の戒めと自分の立場に反して行ったことなどについても言いなさい。

 しかしもし誰であっても、このような、もしくはさまざまな大きな罪によって、自ら苦しむことを感じないならば、その人は不安になったり、さらに罪を(無理に)求めたり案出したり、それによってざんげから苦痛をつくり出したりしてはなりません。むしろあなたが、気づいた一つ、二つについて、このように語りなさい。「特に私はかつて呪ったことがあり、その他、言葉に思慮を欠いたことや、これらの数々を怠ったことがあったことを告白します。」これで十分としましょう。

 しかし、あなたがまったく身に覚えがないならば(それはまったく不可能なことであるに違いないが)、特別に何も言うことなく、あなたが神の前でするように、ざんげを聞く牧師に対して、一般のざんげをして、それによってつみのゆるしを受けなさい。

 それに対してざんげを聞く牧師は次のように言わなければなりません。

 「神があなたに恵み深く、あなたの信仰を強めますように。アーメン」

 さらに言いなさい。

 「あなたは、私のゆるしが、神のゆるしであることを信じますか?」

 答 「はい、敬愛する主よ」

 それに対して牧師は次のように言いなさい。

 「あなたの信じたとおりになるように。そして私は、私たちの主イエス・キリストの命令により、父と子と聖霊のみ名によってあなたの罪をゆるします。アーメン。安心して行きなさい。」

 ざんげを聞く牧師は、良心の大きな重荷を持っている者、あるいはそれを悩む者、試みられている者を、さらに多くの聖句を持って慰め、信仰に導くのです。これこそが一般のざんげの通常の方法であります。

解 説

 ここで語られる「ざんげ」とは、信徒が牧師に個人的に罪を告白し、ゆるしの宣言をいただくことを言う(ルーテル教会式文192193ページ参照)。

 

 ルター時代の教会においては、ざんげの正しい意味を教えられず、ざんげが罪の告白とそれに伴うゆるしが語られる場ではなく、無理矢理に具体的な罪を数え上げさせて、罪の告白をする者に対して、具体的な制裁と裁きが宣言される場であったようだ。また逆にそれに対する反発から、一部の急進的勢力からは、個人的なざんげは信仰生活上、無意味で不必要なものであるとの主張もなされていた。

 

 ルターはそのいずれも誤りであるとし、ここで正しいざんげのあり方を教えている。このようにルターはざんげの実施の仕方を批判しているのであって、ざんげの実施そのものを否定しているのではないことに注意したい。それゆえその後のルーテル教会の歴史において、個人的なざんげの習慣がないがしろにされてきてしまったことは残念なことである。ざんげは用いられ方次第で「私たちの良心の慰めや強めとなる」(大教理)のであるから、私たちは今一度その意義を考えることが大切である。

 

 ルターによるざんげは二つの部分から成り立っている。一つは罪の告白をする私のわざと行為であり、もう一つは神のわざであり、「神が人間の口に置かれたみ言葉を通して、私の罪から解放してくださることである」(大教理)。当時それまでは私たちの側のわざばかりが強調・強制され、ざんげにとってもっとも必要な神の解放のわざについては大切にされてこなかった。「まるで自分たちのわざだけが、神に支払うべき唯一のよきわざであるかのように思われていた」(大教理)ため、人は罪を完璧に告白しないといけないとされたため、かえって絶望の思いを与えるだけのものとなってしまっていたことをルターは大教理問答の中で嘆いている。

 

大切なのは、「私たちが罪の告白を神にささげる」ということではなく、「神が私たちにゆるしと解放を与えてくださる」ということなのである。神は最初から私たちの罪深さを知っている。それゆえ、私たちが自分が絶望するほど罪の告白に縛られるのではなく、そこから解放されるためにこそ、絶望するほどに罪深い私がゆるされる喜びが与えられるように、神にその苦しみを訴え、助けを乞うことがざんげにおいて大切なことである。それゆえ、ざんげは、「行って貴重な宝をいただいてきなさい」(大教理)という性質のものなのである。さばきや絶望を得るために罪の告白をするのではなく、み言葉とゆるしを得るためにこそ、私たちは罪の告白をするのである。神のみ言葉とゆるしこそ、私たちが敬意を持って感謝して受け取るべき「貴重な宝」にほかならない。その宝は、私たちに喜びと慰めを与えてくれるのである。「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」(詩編42:2)、この思いで私たちはざんげに赴くものでありたい。

 

 なお、牧師に向かって告白した内容は、本人が教会の交わりの中で祈ってほしいと要請しない限りは、牧師が他の人に語ることはないし、もしそれをしてしまうならば、法的にも罰せられる守秘義務が課せられている事柄であるがゆえに、恐れずに大胆に告白する権利が保障されている。

 

 また、私たちの罪のゆえに隣人が苦しんでいるならば、その隣人に対して悔い改めを表していくことも私たちは忘れてはならないであろう(マタイ5:2324)

 

それでは、そもそもなぜそのように牧師という個人にざんげをしに行くのか。そのことを説明するために、後のルーテル教会では、ルターの小教理のこのざんげの項に「鍵の聖務」という項目を付け加えてきた。

 

鍵の聖務

問 鍵の聖務とは何ですか?

答 それはキリストが地上にあるご自分の教会に与えられた固有の力です。すなわち、悔い改めた罪人の罪をゆるし、悔い改めない者は悔い改めない限りその罪を留めておく力です。

問 それはどこに記されていますか?

答 聖なる福音書記者ヨハネは、ヨハネによる福音書202223節で、次のように記しています。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」

 

牧師の務め

問 「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなた方が赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というみ言葉によって、あなたは何を信じますか。

答 招聘されたキリストの牧師が、神のご命令に従って、私たちを取り扱うとき、特に罪を悔い、さらに、喜んでそれを改める者を赦し、あるいは明白な罪人で、悔い改めない者を、キリスト教会の会員から取り除くときには、あたかも、キリスト自らが、私たちを取り扱われると同じように、天においても有効確実であることを私は信じます。

 

鍵の聖務とは、具体的には神の言葉を宣べ伝え(説教)、聖礼典を行い(洗礼と聖餐)、特に罪をゆるし、これを留めておく力、権威のことである。この力が「鍵の聖務」呼ばれるのは、キリストがペトロら弟子たちに「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)と約束されたように、キリストは使徒的な(使徒の教えを引き継ぎ、また使徒の時代から続いているとの意味)キリストの教会に対してもまた、罪のゆるしによって天国の鍵を開き、また罪を留めて天国の鍵を閉ざす力が与えてくださっているという考えによるものである。

 

 キリストの教会は、この鍵の聖務に仕え、自分の罪を悲しみ、キリストこそその罪から救ってくださる救い主と信じる「悔い改めた罪人」にゆるしを与える。そしてそのことにより、「ゆるされた罪人」は、御霊の実(ガラテヤ5:2223)を実らせる生き方へと導かれていくのである。しかし、教会は自分の罪を悲しむことも悔い改めることもない者に対しては、その人が悔い改めない限り、罪のゆるしを与えることはできないのである。なぜなら、キリストの高価な尊い恵みを安っぽい恵みに貶めてしまうことになるからである。

 

 この世界にキリストによって建てられた地域教会はこの鍵の聖務を具体的に次のようなかたちで行う。それぞれの地域教会は祈りの中で示される御心に従って、牧師を招聘する。そして、招聘された牧師がキリストの名において、また地域教会の会員を代表して、鍵の聖務を行うのである。具体的には神の言葉を説教し、聖礼典を執行し、これらの恵みの手段によって、私たちに罪のゆるしを差し伸べ、手渡すのだ。

 

悔い改めて洗礼を受けて地域教会の会員として教会生活を送っている者が、もし明らかに罪を犯しながらも、それを悔い改めないならば、教会は鍵の聖務に忠実に仕えるため、その者に対して繰り返し忠告し、悔い改めを促した上で、それでもそれに応えない場合は、教会から除外するという措置をとることがある(除籍、破門)。それは各地域教会の会員総会の決議に従って行われる。そしてその措置を執られた者に対して、招聘された牧師はキリスト者としての権利と特権とを取り去らなければならない。具体的には陪餐の停止、および教会行政への関与停止ということになろう。私たちはこの措置を人間的なものとして受け止めるのではなく、神が教会に与えた鍵の聖務として行われていると受け止めることが大切である。そしてそれがゆえに、安易にこの措置が執行されてはならない。マタイ福音書181518節で語られているように、繰り返し、繰り返し忠告をした上で、最終的な措置としてそれをなすべきである。

 

具体的には、「行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)とあるように牧師が繰り返し訪問し、その人と語り合って、悔い改めを勧めた上で、「聞き入れなければ、他に一人か二人、一緒に連れて行きなさい」(16)とあるように、地域教会の役員会が牧師とともにその人に何度も会い、語り合う。そしてそれでも相手が悔い改めない場合、「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」(17)とあるように、地域教会の会員総会で語り合い、そこにおいても悔い改めを勧め、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17)とあるように、十分努力した上での最終手段としてその人を破門する措置をとるのである。

 

この破門は、その人を切り捨てる処罰のための措置であってはならない。その人の魂を救うことが目的である。その人が破門を通して、自分の罪の大きさを悟って、悔い改めることを願って、地域教会はその措置をとるのである。破門は破門された人のみならず、それを宣告する教会全体の痛みである。なぜなら、破門に至る罪を犯した兄弟姉妹のために、私たちはそれまで祈ってきただろうか、その兄弟姉妹の心の叫びを聞き、配慮してきただろうか、どれだけその兄弟姉妹にかかわってきたであろうか、そのことを考えるとき、一人の教会員が破門になるということは私たち自身の罪の現実を突きつけられることに他ならないのである。それゆえ、教会全体が自らの罪として悔い改め、その破門になった兄弟姉妹のために祈り、その兄弟姉妹が悔い改め、また教会の交わりに帰ってくることができるように祈り待ち望むことが大切である。

 

 そして、破門されたその教会員が罪を会衆に告白し、これを改めることを約束するならば、地域教会とその会員はその人のことを再び兄弟姉妹として受け入れなければならないのである。

 

今、私たちはざんげ及び「鍵の聖務」について学んできたが、ここで、「罪を告白し合う」(ヤコブ5:16)と聖書が語るように、私たちキリスト者の共同体は互いに罪を告白しあう共同体であるように努めていきたい。以下は、ディートリヒ・ボンヘッファーの言葉である。

 

 「キリストは、われわれに教会を与え、教会において、兄弟をわれわれにとって恵みとされた。兄弟は、今、キリストに代わってわれわれの前にいる。兄弟の前で、われわれはもはやいつわる必要なない。全世界の中で、ただ主にあるその兄弟の前においてのみ、われわれはありのままの罪人であることを許される。なぜなら、ここでは、イエス・キリストの真理と憐れみが支配しているからである。キリストは、われわれを助けるために、われわれの兄弟となられた。今やそのキリストを通して、われわれの兄弟は、キリストから与えられたその委託の権威において、われわれにとってのキリストとなった。兄弟は、神の真理と恵みのしるしとして、われわれの前に立っている。彼は助けるものとしてわれわれに与えられているのである。彼は、キリストに代わって、われわれの罪の告白を聞き、キリストに代わって、われわれの罪を赦す。彼は、神が秘密を守られるようにわれわれの罪の告白の秘密を守る。もしわたしが、罪の告白をするために兄弟のもとに行くなら、わたしは神に告白しに行くことになるのである。だから、キリスト者の交わりにおいては、兄弟としての罪の告白と赦しへの招きは、教会における神の大きな恵みへの招きとして、差し出されているのである。」<ボンヘッファー『共に生きる生活』森野 善衛門訳、111112ページ>

 

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聖壇の礼典(聖餐、主の晩餐、ユーカリスト<感謝の祭儀>)

 

マルティン・ルター「小教理問答書」より

第1 聖餐の本質

 問 聖壇の礼典とは何ですか。

 答 それは、わたしたちの主イエス・キリストのまことの肉であり、まことの血であって、わたしたちキリスト者がパンとぶどう酒とともに食べて飲むようにキリストご自身が定めたものです。

問 それは、どこにしるしてありますか?

答 それは聖なる福音書記者マタイ、マルコ、ルカ、及び使徒聖パウロが次のように記しています。

<わたしたちの主イエス・キリストは引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれをさき、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはあなた方のために与えるわたしの体である。わたしの記念として、これを行いなさい。」また食事の後、杯も同じようにして言われた。「みなこの杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるために、多くの人々のために流すわたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念としてこれを行いなさい。>(1コリント112325、マタイ262628、マルコ142225、ルカ221620)

 

第2 聖餐の効用

 問 このような飲食が、どんな役に立ちますか?

 答 これは「罪の赦しを得させるためにあなた方に与え、また流す」(ルカ221920、マタイ2628)とのみことばに示されています。すなわち、この聖礼典において、罪の赦しと生命と祝福とがこのみことばを通して与えられるのです。なぜなら、罪があるところに生命と祝福があるからです。

 

第3 聖餐の力

 問 どうして肉体的な飲食がそんな大きな働きができるのですか?

 答 言うまでもなく、それを行うのは飲食の行為ではなく、ここで語られている「あなた方のために与えられ」「罪の赦しを得させるために」とのみことばです。このみことばは、肉体的な飲食と共に、聖礼典の大切な部分です。そしえこのみことばを信じるものは、このみことばが語り、宣言すること、すなわち「罪の赦し」を得るのです。

 

第4 聖餐の正しい用い方

 問 どのような人が、この礼典にふさわしいですか?

 答 断食や肉体的準備をするのは、たしかに外面的にはよい訓練です。しかし、「これは罪の赦しを得させるためにあなたがたに与え、また流す」とのみことばを信じる人こそ、まさしくふさわしく準備のできた人です。しかし、このみことばを信ぜず、疑う人は、ふさわしくなく準備のできていない人です。それは「あなたがたのために」とのみことばは純粋に信じることを要求するからです。

解 説

 ルター及びルーテル教会の聖餐理解にとって最も重要なことは、洗礼の場合同様に、そこで神のみことばが語られているという事実である。

 

キリストが「これを行え」と言われたのだから私たちは聖餐式を行うのである。これもまた、キリストが「洗礼を授けよ」と命じているから教会は洗礼を行うのと同様である。それゆえルーテル教会において、本来はこのキリストのみ言葉に従い、「みことば+聖餐」この二つがワンセットとなってはじめて本当の礼拝であることを私たちは忘れないでいたい。ともするとプロテスタント教会は一般的に「外的しるし」としての聖餐を軽視し、ルーテル教会の中でも説教偏重の傾向がある。しかし、ルターも(またカルヴァンも)主の日ごとにみことばが語られ、聖餐が行われることを強調したのだから、わたしたちの礼拝もその方向で受け止めていく必要がある。

初代教会の信仰者は迫害者によって捕らえられ、いのち奪われる殉教の危機をおかしてまでも、聖餐に集った。当時の殉教者の一人は「なぜ危機をおかしてまで聖餐に集まるのか?」と尋ねられて、「私たちはこれがなくては生きていけません」と答えたという。また、すばらしい働きをしたマザー・テレサは彼女の働きの原動力を尋ねられ、日々ミサ(聖餐)にあずかることと答えたという。これほどに聖餐は重要なものなのだから、ルーテル教会も初代教会からの伝統を大切にして「みことば+聖餐」のセットでまことの礼拝が成り立つと受け止めてきたのである。

それゆえ地域教会の慣例や教職者不在などの諸般の事情により、聖餐が行われない礼拝であっても、それは「聖餐を目指した礼拝」「聖餐に向けた礼拝」としての性格を有していることを覚えながら礼拝するものでありたい。

 

また聖餐で用いられるパンとぶどう酒という「もの」は、そのままでは普通のパンとぶどう酒のままであるが、キリストの聖餐のみことばが添えられるとき、それは文字通りキリストの体であり、キリストの血であると信じて受け取ることが大切である。洗礼の時に学んだように、洗礼の水がそのままでは風呂屋のあるじの水と変わらないけれども、キリストのみことばを添えられるときにそれはただの水ではなく「神の水」としての働きをするのと、聖餐のパンとぶどう酒も同様である。

 

 この聖餐の出来事を、ある教会はパンとぶどう酒が実質的にキリストの体と血に変化する(化体説)と受け止め、また他のある教会はパンとぶどう酒はキリストの体と血をあらわすシンボルである(象徴説)と理解している。しかし、ルターとルーテル教会はそのいずれの立場も取らない。聖餐において語られるみことばによって、パンとぶどう酒の中に、パンとぶどう酒とともに、パンとぶどう酒のもとにキリストが今ここにいます(現在)のであり、それゆえまさにパンとぶどう酒はみことばのとおりキリストの体と血で「ある」と信じるのが、私たちルーテル教会の理解である。私たちはあれやこれや考えながら(すなわち、「みことばが語られるときキリストの体と血に変化する」とか、「いや、ただのシンボルにすぎない」とか…)理解しようとするのではなく、キリストが「これは私の体である」「これはわたしの血である」とみことばを語られたのだから、それをそのまま単純に受け止め、聖餐の出来事の中に今みことばを語ってくださるキリストが、たしかにいてくださり、それゆえにパンとぶどう酒がまことのキリストの体であり、血であると信じることが大切なのである。

 

 「キリスト者は、神をほめたたえ、神は言われることをなしたもうことを信じなければなりません。いかにしてパンが体であり、ぶどう酒が血であり得るかを知ろうとして骨折っている極端な人々のようであってはなりません。彼らは神を理解しようと求めます。しかしなぜ人はあらゆることを理性と合致させるために、死ぬほど悩まなければならないのでしょうか。もしそれが神のことばであるならば、神は全能であり、真実であります。そこで、我々は信仰において、単純に子どものように受け入れるべきです。…これは、キリストの真の肉であり、血であります。人のことばではなく、神のことばがそういうからです。」(ルターの1534年の説教より)

 

 「どのようにしてキリストのからだ全体が、そんな薄っぺらなパン切れやひとすすりのぶどう酒の中に現在することができるのかというようなことに、困惑している人々があります。あなたは、そのようなことに、かかわる必要はありません。これは神のしるしであり、キリストの肉と血が本当にここにあると知っていればそれで十分です。それがどのようにして、まことに現在するのかということは、キリストにまかせておけばよろしいのです」(1529年の説教より)

 

 聖餐の意味は、キリストのみことばも、ルターもともに強調しているように、「罪の赦し」である。私たちは聖餐にあずかるとき、罪の赦しをいただくのである。ただ一度限りの洗礼によって罪が赦され、キリスト者としての歩みを始めた私たちは、その後も繰り返し罪を犯す弱いものである。それゆえ私たちは週の度ごとに繰り返し聖餐を受け、繰り返し罪の赦しをいただくのである。

 

 しかしなぜ聖餐によって罪の赦しが与えられるのか。この答も単純明快である。イエスご自身「あなたがたの罪が赦されるために」と聖餐のみことばの中で語っておられるからである。神のみことばは必ず実現する。それゆえ聖餐において私たちは罪の赦しをいただくことができるのである。また具体的に考えるなら、キリストの体と血は、十字架によって与えられたイエスのいのちそのものである。そのキリストのいのちは私たちの罪を赦すためにささげられたいのちであった。それゆえに私たちはその十字架のいのちにあずかるとき、すなわち聖餐において、キリストの体と血にあずかるとき、罪の赦しを得るのである。それを私たちは「あなたのために与えられたキリストのからだ」「あなたのために流されたキリストの血」とのみことばを通し、まぎれもなくこの私のためであることを受け止め、「アーメン」「まことにそのとおりです」と答えながら受領するのである。

 

 聖餐にはこの中心的な目的をもとにして、他のいくつかの意味を考えることができる。リマ文書を参考にして聖餐の意味をもう少し詳しく見ていこう。

 

神への感謝としての聖餐

私たちは神のすべての告知とすべてのみわざ(創造、贖罪、聖化、教会、み国の約束)への感謝を聖餐において表し、讃美のささげものをしていくのである。

 

キリストの記念、想起としての聖餐

聖餐のみことばの中でキリストは「わたしを記念してこれを行え」と命じた。この「記念して」とはただの「思い出」だとか「追悼」を意味するのではない。かつて一度きりのキリストの地上での生涯を今このわたしとこの世界のために起こることとしてリアルに思い起こし、この世界に宣言していくことである。ちょうどイスラエルの民がかつての出エジプトの解放を子々孫々にまで語り伝えていったときに、それをただの過去の出来事としてではなく、今ここで生きるわたしに起こった事柄として語り伝え、思い起こしていったのと同じように、私たちはキリストの生涯が今ここに生きる私たちのためのものであることを聖餐において思い起こすとき、その想起・記念の中にキリストがいますことを信じるのである。

 

聖霊を求める祈りとしての聖餐

聖餐において私たちは神の告知とみわざを讃美し、キリストの生涯を想起・記念することは今述べたとおりであるが、それを私たちに具体的に可能にしてくださるのが聖霊なる神である。また聖霊は聖餐のみことばを信じる信仰を私たちに与えてくださる。それゆえ私たちは聖餐において聖霊が私たちに与えられるように祈るのである。

 

信徒の交わりとしての聖餐

聖餐は食事であるのだから、キリストとの交わりのみならず、一緒にその食卓に集う仲間との交わり、教会の内側の交わりをも意味する。私たちが聖餐にあずかる際に、具体的には深川エマヌエルルーテルルーテル教会においてその仲間たちと一緒に食卓に集い、交わりを持つことを意味する。また同時にそれは全世界に散らされているすべてのキリスト教会の仲間たちと一緒に食卓に集っている全教会的行事である。それゆえ他の教会、及びその会衆たちの課題は、一緒に食卓に着く深川エマヌエルルーテル教会の私の課題である。「主の平和がともにあるように」「またあなたとともに」と聖餐のときに交わされる挨拶は世界の仲間たちと交わす挨拶でもある。それゆえ主の平和にふさわしくない現実が世界の仲間たちを苦しめているのなら、ともに食卓に集う私たちはそのために働く歩みへと派遣されるのである。また教派の分裂ゆえに同じ一つの食卓に集えない現実を取り除くために私たちが働くことも大切なのである。

 

神の国の食事としての聖餐

聖餐を祝うことは私たちが神の国(天国)における喜ばしき祝宴の先取りである。またそれゆえに聖餐はすでに召された方々と一緒に集う祝宴のときでもある。

 

 以上のように聖餐は私たちがそこにおいて罪の赦しをいただき、神の告知とみわざに感謝し、キリストの生涯を今ここで私のためのこととして思い起こし、聖餐の導きを祈り、世界の仲間たちと一緒に集い、すでに神の国の祝宴を先取りしつつ行う、喜びの祝いのまつりである。それゆえカトリック教会では聖餐を「感謝の祭儀」と呼んでいる。私たちももちろん聖餐を厳粛なときとして覚えることも大事なことだが、もう一面、この「まつり」「祝い」としての側面を大事にしたい。

 

 最後に「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、パンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(1コリント11:2729)とのパウロを通して語られた聖書のみことばについて考えたい。

 

 自分が罪を犯した咎めから、聖餐に与るのを辞退すると言う信仰者がいる。しかし、聖餐は罪の赦しがキリストの体と血によってこのわたしに与えられる場である。それゆえ自分の罪を自覚し、それに苦しめば苦しむほど、私たちは聖餐の恵みへと招かれているのである。どんなに重い罪を犯して、自分がいたって御前に「ふさわしくない」存在だと思っていたとしても、私たちはそれゆえに聖餐にあずかることを辞退する必要はない。その「ふさわしくない」という思いを主の前に正直に差し出し、主こそ私の罪を赦してくださる方であると、信仰と希望をもって、聖餐にあずかるものこそが、罪の赦しを受ける聖餐に実に「ふさわしい」ものなのである。また私たちが十分に聖餐の意味が理解できなかったり、自分の信仰の弱さに悩んだりする場合も、だからこそ私たちは積極的に聖餐にあずかり、信仰を強めていただくことが大切である。

 

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おわりに

 

ルターは「小教理問答書」の中で、このように「朝夕の祈り」、「食事前後の祈り」を教え、「家訓」としていくつかの聖書のみことばを引用している。また、結婚式文を掲載し、最後に洗礼式文を掲載して、「小教理問答書」を終えている。

 

 それらの内容についてはここで解説しないが、この構成は、とても大切な姿勢を私たちに示している。つまり、ルターにとってキリスト教教理の学びは、ただ教会の中での机の上の学びに留まるものではなかったのである。ルターは、聖書の教えをわかりやすくまとめたものとしてのキリスト教教理を学び、そこに生かされる者たちが、日常の生活の中で、祈りとみことばに導かれた生活をしていくことへと繋がっていくことを願っていたのである。そうして、さらには、祈りと聖書のみことばに導かれる者同士が出会い、そのふたりが結ばれて、新しい家庭が築かれ、その家庭で与えられる新しいいのちが洗礼へと導かれ、信仰が継承されていくことこそが、ルターが「小教理問答書」をこのような構成にした意図ではなかろうか。

 

 私たちも聖書の教えやキリスト教教理をただ頭の中で理解すればそれでよいというのではない。私たちはそれぞれの生活の場に、その信仰の教えを持ち帰り、生活の場で、その信仰を具現化していくこと、つまり祈りとみことばに導かれる生活を日々送ることこそが大切なのである。そして私たちは与えられている信仰を自分だけで独り占めするのではなく、家庭や職場などそれぞれ生かされている場で出会う人々に分かち合い、その信仰を継承していく使命が与えられているのである。

 

 私たちが「小教理問答の学徒」として、繰り返しこれを学んでいくことも、まさにそのためであると言えよう。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:1618)

 

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付録 神と民の対話としての礼拝

−礼拝式文と教会暦について学ぶ−

 

礼拝は共同体の出来事ですから、司式者の気分によって左右されたり、自己流の礼拝にならないように形式が整った礼拝が必要です。ルターは私たちが自己流にキリストを礼拝しようとすることこそ偶像崇拝であると指摘しています。共同体として神に対する感謝と応答を表すために式文があります。

 

礼拝は神と民の対話です(式文の内容のところに矢印でそのことを表してみました)。式文にもこの対話の要素が大事にされています。また、礼拝は見るものではなく、参加するものです。ギリシア語で礼拝を表す言葉「レイトォルギア」は、「民」を表すラオス+「仕事」を表すエルゴンの合成語であります。

 

式文の内容と礼拝への心構え

ルーテル教会の式文は、聖書のみことばに基づいて作られています。式文のそれぞれの言葉の背景になっている聖書のみことばを思い起こしながら礼拝をすると式文を用いた礼拝がより豊かなものになることでしょう。

 

<開会の部> 礼拝へ向けて準備をします。

前  奏 前奏が始まったら私語はやめ、今日の礼拝のために心の中で祈ります。

 

はじめの歌(神←民) 

大きな声で元気よく讃美します。「開会」「讃美」「礼拝」「朝」などのカテゴリー、教会暦に添った讃美歌が選ばれます。

 

み名による祝福(神→民)

三位一体の神の名によって礼拝がはじめられます。新しい式文ではみ名を呼び求めるのではなく、み名によって祝福が宣言されるという理解です。

  

罪の告白(神←民、民→←民) 

神さまの御前に、また会衆の前で一週間の自分の歩みを振り返り、罪の告白をします。1ヨハネ1:8〜9参照。

 ゆるしの祈願祝福(神→民)

     ゆるしを与えられたものとして礼拝に臨みます。

 

キリエ(神←民)

キリエはキリエ・エレイソンの略で「主よ憐れんでください」との意味です。主に憐れみを祈ります。(ルカ17:13,18:38〜39、詩編123:2〜3)

「ダビデの子、イエスよ、わたしを憐れんでください」とイエスに訴えた者に対して、イエスは「何をしてほしいのか」と尋ねられた問いが私たちにも向けられます。私たちが与えてほしいのはゆるしであり、神との平和、民との平和にほかなりません。

 

グロリア(神←民、神→民)

私たちを憐れみ、罪をゆるしてくださる神さまに栄光を帰し、また私たちの間の平和を祈ります。これはルカ2:14でクリスマスの宵に天使が讃美した歌声です。

そしてそのゆるしと平和はイエスさまによって与えられたことを覚え讃美します。

    待降節、四旬節にはグロリアは用いません。

 

<みことばの部> 礼拝の一つめの山です。

祝福の挨拶(民→←民)

今みことばの部に入るにあたり、ともに主の祝福を祈り合います。

司式者が「主がともにおられるように」と言いながら会釈をしますので、みなさんも「またあなたとともに」と会釈をもってこたえてください。お互いに「あなたとともに主がおられるように」と心から祈りあうひとときでありたいですね。

 

特別の祈り(神←民)

 かつてはここで会衆によるそれぞれ一言の願いが祈られました。そしてそんなみんなの祈りを総括して最後に司祭が祈りました。それゆえ、この「特別の祈り」を、教派によっては「集会祈願」、「集祷」と呼びます。

今日ではその日の福音のみことばに添った祈りがなされます。

 

聖書日課の朗読(神→民)

  第一日課 主に旧約聖書です。ただし復活節には使徒言行録が選ばれます。

  第二日課 使徒たちとその後の時代の書物です(使徒言行録、書簡、黙示録)。待降節、四旬節、祝日以外は一つの書を数週間にわたり連続して読みますので、必ずしも内容的に第一日課、福音とリンクしていません。

 

ハレルヤ唱(神←民)

  福音の朗読に備えて主を讃美します。ただし四旬節はハレルヤの代わりに詠唱フィリピ2:8の「キリスト賛歌」が歌われます。ここで詩編唱が朗読(交唱)されても構いません。

 

福音の朗読(神→民)

  その日の福音書の日課のみ言葉を聞きます。教会暦に従い、通常、その日の福音書が説教のテキストとなります。

 

みことばの歌(神←民)

 その日のみことばに添った讃美歌が選ばれます。または「神の言葉」「聖書」などのカテゴリーから選ばれてもよいでしょう。

 

説 教(神→民、民→←民)

 書かれた神の言葉である聖書が説教において今ここに生ける神の声となります。神の言葉を聞く姿勢で耳を傾けます。また説教者の説教が毎週あまりにも神の言葉から外れていると思うときは、会衆(教会役員会)は説教者に忠告する責任があります。しかしそれが自分の好き嫌いからというレベルで行われないように注意しましょう。会衆は説教者を日々祈りをもって支える務めを大切にしましょう。

 

感謝の歌(神←民)

 みことばへの感謝をもって讃美します。説教の主題にあった讃美歌が選ばれます。

 

信仰の告白(神←民、民→←民、神→民)

 みことばへの応答として、私たちの信仰の告白を世界の教会の仲間と共に、そしてすでに天に召された信仰の先輩と共に告白します。今も迫害の中にあって立派に信仰の告白をしている友を思い浮かべながら告白することも大切です。三位一体の神への信仰告白です。使徒信条もしくはニケア信条(場合によってはアタナシウス信条)を告白します。

 

<奉献の部> 自分自身をささげます。

祝福の挨拶(民→←民)

今、奉献の部に入るにあたり、ともに司式者と会衆で主の祝福を祈り合います。互いに会釈を交わしてください。

 

奉 献(神←民)

 献金は神さまに自分自身をささげる献身と感謝のしるしです。まごころをもってささげましょう。また献金は神さまへのささげものであり、ささげたものはもはやそれは「私がささげたもの」ではなく、神さまのものです。献金するお金自体、神さまからいただいたものです。

 

奉献唱(神←民)

 詩編51編を歌い、献身の決意を表します。

 

奉献の祈り(神←民)

 神さまからいただいたものを神さまにお返しすることを祈ります。自分自身が神に用いられることも祈ります。

 

<聖餐の部> 礼拝のもう一つの大きな山です。

聖餐の歌(神←民)

 聖餐に備えて讃美します。「聖餐」のカテゴリーから選ばれます。

 

序 詞(神←民、民→←民) これは3世紀頃にはすでにできていました。

 「主がともにおられるように」「またあなたとともに」司式者と会衆で互いに挨拶と会釈を交わします。

 「心をこめて主を仰ぎましょう」「主を仰ぎます」聖餐に招いてくださる主を心から讃美し、あがめます。

 「主に感謝しましょう」「感謝はふさわしいことです」心からの感謝をもって聖餐に臨みます。

 

その日の序詞(神←民、神→民)

 その日の教会暦にあったことばが聖餐に向けての祈りの言葉としてここで語られます。

 

サンクツゥス(神←民、神→民)

 ここで聖なる偉大な主が私たちの食卓にまでやってきてくださることにおそれと感謝をもって迎えます。(イザヤ6:2参照)

 ホサナと叫びつつエルサレムにイエスを迎えた人々のように私たちも喜びをもって聖餐の主イエスを迎えます。(マルコ11:9、及び並行記事)

 

聖餐の設定(神→民)

 キリストが最後の晩餐で語られた言葉がここで語られます。この言葉が語られるとき、私たちはパンとぶどう酒をキリストの体であり、血であることを信仰をもって受け止めることが大切です。ルーテル教会における聖餐理解で大切なのはここでキリストが「わたしのからだであり、血である」と言っておられるのですから、それ以上詮索せずにそれをそのままキリストのみことば通りにキリストの体であり、血であると信じることです。(マルコ14:22〜、マタイ26:26〜、ルカ22:19〜、1コリント11:23〜参照)

 

主の祈り(神←民、神→民)

 主の食卓に集う一つの家族として主イエスが教えてくださった祈りを祈ります。「われらの」と祈っている以上、それは私だけがそうなればよいのではなく、もしそうでない人が私たちの周りにいるのならそのために私が働く決意を表す祈りでもあります。「日ごとの糧を与えたまえ」と聖餐の恵みが与えられるようにとも祈ります。(マタイ6:9〜、ルカ11:2〜)

 

平和の挨拶(民→←民)

 司式者と会衆が平和の挨拶を互いに交わします。会釈を交わしてください。また日本のルーテル教会ではあまりやりませんが、本来はここで会衆同士も実際に手を取り合ったり、抱き合ったり、お辞儀し合ったりして、主の平和を確認しあいます。マタイ5:23〜24、ローマ16:16、ヨハネ20:21参照。

 

アグヌス・デイ(神→民)

 主にまことの平和を与えてくださるように祈り、また主キリストが世の罪を取り除く方であることを告白します。ヨハネ1:29、14:27参照。

 

聖 餐(神→民、民→←民)

 キリストがご自身を与えてくださる聖餐に集います。これはキリストともなる食事、そしてまたともに与る会衆同士の食事、さらには全世界のキリスト者との食事、すでに召された信仰の先輩たちとの食事です。迫害でこの食卓に集えない仲間を覚えて祈り、また食事が与えられていない人々を覚えて祈り、さらにはまだ洗礼を受けていないため一緒に聖餐に与れない人のことを覚えて祈り、そしてそれらの人々のために働く歩みへと、この食卓に集うときに私たちは促されます。「キリストの体」「キリストの血」の配餐者の言葉に「アーメン」と答えましょう。

 

聖餐の祝福(神→民)

 主の祝福をいただいてそれぞれの席へと戻ります。

 

聖餐の感謝(神←民)

 聖餐の恵みを神に感謝します。

 

<派遣の部> 今週もそれぞれの生活の場に送り出され散らされます。

祝福の挨拶(民→←民)

今、派遣の部に入るにあたり、ともに主の祝福を祈り合います。司式者と会衆で互いに会釈を交わしてください。

  

ヌンク・ディミティス(神←民、神→民)

 これはルカ2:29〜32のシメオンの歌った賛歌です。シメオンは長い間メシアの到来を待ち望んでおり、神殿につれてこられた幼児イエスをみて、この賛歌を歌いました。私たちも主の救いをこの礼拝で体験したものとして、礼拝堂からこの世へと去っていきます。また主の救いを体験したものとしていつ死を迎えてもよい心の準備をするのです。

 

教会の祈り(神←民、民→←民)

 会衆を代表して一人(場合によっては複数)が祈り、それにみんなが心を合わせます。担当者は教会を代表して、教会のこと、隣人のこと、世界のことを祈ります。教会の祈りの担当の方は礼拝全体のバランスがありますのであまり長くならないように気をつけましょう。

 

祝 福(神→民)

 神さまから祝福をいただいてそれぞれ与えられた持ち場へと喜び勇んで帰っていきます。礼拝で神さまからの奉仕をたくさん受けたものとしてこの一週間隣人への奉仕と証を通して神さまに仕えるのです。祝福の言葉は民数記6章24〜26節。

そしてはじめ同様三位一体の神の名をもって礼拝を終えるのです。私たちは喜びと感謝をもって声高らかにアーメン三唱をもって応えます。

 

終わりの歌(神←民)

 神さまに讃美の歌を歌って栄光を帰して礼拝を終わります。

 

後 奏 心静かに沈黙のうちに祈ります。

 

☆朝、教会に来て、席についたらその日の日課を読んでおきましょう。

☆讃美歌は大きな声で歌いましょう。上手下手はあまり問題ではありません。

☆式文は一言一言意味をかみ締めて唱えましょう。お題目ではありません。

☆会衆は空白の時間があっても司式者・奏楽者が音を出すまで待ってください。

 

ルーテル教会員として礼拝を考える時にどうしても覚えておきたいことがあります。それはマルティン・ルターのたいへん特徴的な礼拝理解です。ドイツ語で「礼拝」はGottesdienst=「神奉仕」であります。これを従来は人間の側の「神への奉仕」として理解していました(ミサを「捧げる」)。しかしマルティン・ルターはこれを人間に対して「神が奉仕する」出来事として理解し直したのです(礼拝に「与る」)。ですから私たちは礼拝において神の奉仕を受けて、一週間の生活の中で隣人に奉仕することによって神に奉仕することができるように整えられるのであります。礼拝で行為し所作する主人は私たちではなく、神であり、私たちはその神の奉仕に応答していくという礼拝理解がルーテル教会員として大切です。そしてそのことが十分に表現できるような礼拝式文が用意されているのです。

 

 式文を用いる礼拝を形式主義だと批判する人たちがいます。たしかに私たちの側で気をつけなければそうなってしまう危険性もないわけではありません。しかし、もし私たちが礼拝の度ごとに式文の中で語られ歌われることば一つひとつを真剣に味わっていくならば、礼拝がより豊かになることがあっても、形式主義に陥るようなことはありません。またもしそのような姿勢自体が失われるならば、式文に限らず主の祈りも、聖餐も、それゆえ礼拝自体も形式主義に陥ってしまいます。式文で語られる言葉一つ一つの意味をかみ締めて礼拝に与りたいものです。

 

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教会暦と典礼色

 

待降節=アドベント 教会暦の一年の始まり クリスマス前の4回前の日曜日(11月30日に最も近い日曜日)より。クリスマスと主の再臨を待ち望む季節。青(紫) 青・紫は悔い改めを表す色であり、この季節は悔い改めをもって過ごす

 

降誕祭=クリスマス 12月25日。もともとはローマの冬至・太陽神のお祭り(昼の長さの逆転)であったが、キリスト者はこの日、自分たちにとってキリストこそ義の太陽、光の光と受け止めてこの日をキリストの誕生を祝う日とした。よってキリストが12月25日この日に生まれたのではない。なお日没から一日が始まるため12月24日にイヴ礼拝を行う。白

 

主の命名日=降誕から8日目、イエスが名づけられたことと割礼を記念する日。元旦にあたる。白

 

顕現日=1月6日 東の国から占星術の学者たちが幼児イエスを礼拝しに来たことを祝う日。この日、異邦人に初めて救い主が示されたことになり、顕現日は異邦人のクリスマスといわれる。日本では平日に教会にあまり集まる習慣がないため1月6日に近い主日が顕現主日として守られる。白

 

主の洗礼日=顕現節第2主日 イエスが洗礼を受けられたことを記念する日。白

 

顕現節=第3主日より 緑 緑の季節はイエスの教えとわざを覚える季節。

 

変容主日=顕現節最終主日 山上でイエスの姿が変わったことを記念する日 白

 

灰の水曜日=変容主日の週の水曜日 この日から四旬節に入る。イースターまでの日曜日を除く40日間(日曜日を入れると46日)が四旬節。 灰の水曜日に伝統的に悔い改めの礼拝を行う。紫

 

四旬節=受難節 イエスの苦しみと十字架に向けての歩みを覚える。最後の一週間は聖週と呼ばれる。紫

 

枝の主日=四旬節最終主日 イエスが十字架にかかるためエルサレムに入られた際、人々が枝を持って迎えたことを記念する。礼拝でも枝を用いる。 紫または赤(キリストの血) この日は受難主日でもある。

 

聖 週=受難週=四旬節最終主日の週 イエスの最後の一週間を追う

 

聖木曜日=最後の晩餐と弟子たちの足を表れたことを覚え、聖餐・洗足の礼拝を行うところも多い。

 

聖金曜日=受苦日 イエスの十字架を覚えて礼拝する。 典礼色;黒、もしくはなし

 

復活祭=イースター イエスの復活を祝う 前日土曜の夜に徹夜礼拝を行う場合もある。イースターの日は、春分の日の後にやってくる満月の直後の日曜日。白

 

昇天祝日=復活祭から40日後=木曜日 イエスの昇天を祝う 日本ではその次の日曜日に振り替えて昇天主日として守る。白

 

聖霊降臨祭=ペンテコステ イースターから50日目、昇天祝日から10日後、弟子たちに聖霊がくだって教会の群れが誕生したことを祝う。赤

 

三位一体祝日=聖霊降臨後第1主日 三位一体の神を覚える。白

 

聖霊降臨後節=王であるキリストの日まで続く。(聖霊降臨後第二主日より)緑

 

宗教改革記念日=10月31日 1517年のこの日にルターが95か条の提題を発表したといわれている。日本では10月31日の直前の日曜日に振り替えて宗教改革主日として守る場合が多い。赤

 

全聖徒の日=11月1日 すでに召された信仰の先輩たちを記念する日。召天者記念の祈りが行われる。日本では11月第一日曜日もしくはお盆の季節に振り替えて全聖徒主日として守る場合が多い。白または赤

 

王なるキリストの日=聖霊降臨後最終主日 教会暦の一年の終わり キリストの再臨と世の終わりについてのみ言葉を聞きます。緑

 

☆典礼色に礼拝堂の布の色やストールの色が変わります。ちなみにストールは牧師按手を受けた教職のしるしです。

 

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