聖書の中の食
  

聖書は、食べ物に関して多くを記しています。特に旧約聖書に多いのですが、福音書(新約聖書)に登場するたとえ話の中にも食べ物が多く出てきます。
 
また、主イエスが教えられた

「主の祈り」
にあるように、
「私たちに必要な糧を今日与えてください」
と、毎日の食事が私たちにとって非常に大切であり、そのために祈ることを求めています。
 
 『食べものからみた聖書』(日本基督教団出版局)を書いた河野友美さん(大阪薫英女子短期大学教授)は『「旧約聖書」がわかる。』(朝日新聞社)の中で、
「旧約聖書に出てくる多くの食べ物は、人間の持つ欲望や、心の中に内在する弱点などを表すのに、判断しやすいものが多い」
と指摘しています。
また、聖書の時代の食べ物や食生活についてもかなり詳細に知ることができると語っています。食べ物を例にとって書かれているということは、食べ物には大きな意味があるということを示しています。
 
 箴言の中にも食べることについて多く書かれていますが、河野さんが
「私たちの今の生活、とくに食における考え方、生き方、食生活とそれに対する指針が身にしみるほどはっきり示されているのを感じる」
と述べておられるように、決して見逃せない知恵をその中に見出すことができます。
 
 
「乾いたパンの一片しかなくとも平安であれば、いけにえの肉で家を満たして争うよりもよい。」(箴言十七章一節 新共同約)
『リビングバイブル』では
「けんかしながら毎日ビフテキをぱくつくより、冷や飯を仲よく食べる方がましです」
と訳されていますが、何を食べるかよりもどのような気持ちで食べるかが問題だと教えています。

 
「憎い相手といっしょにビフテキをぱくつくより、愛する人といっしょにおかゆをすするほうが幸せです」(箴言一五章十七説 リビングバイブル)

も同じことを語っていると思います。
 
 ところで、日本では無視することができないほど、子どもたちが一人で食事をしているという調査結果があります。しかし、家族や他の誰かと食べるのは楽しいと子どもたちが思っていることも同じ調査で明らかになっています。

 
「人間は共食の生き物だ」と言われますが、共に食事をすることは私たちが考えている以上に大切なことです。子どもたちが誰かと一緒に食べて楽しいと思うということは、共食が心を育んでいくためにも欠かすことができないことであることを示しています。
 河野さんは
『食べものから見た聖書』の中で、主イエスがいつも食事を共にされたことを指摘し、さらに次のように述べています。
 
「共に食べるということは、その場所において、心が通じ合うということだ。イエスが、その点を非常に大切にされてきたのは、深い意味があるように思える。そこで食べるものは、ごちそうでなくてもよい。一緒に食べて、一緒に語りあうところに価値があるのだ。」
 

 一緒に食べるために高級レストランなどに行く必要はありません。むしろ簡素なものでも、家族で、または、友人たちと一緒に食べることが大切なのではないでしょうか。
 最期に
「食前の祈り」について。目の前にある食事、それがどんなに貧しいものであったとしても、キリスト教会やクリスチャンの家庭では、食べる前に神への感謝の祈りをします。確かに自分の手で働いて得た食物ですが、
 
「私たちに必要な糧を今日与えてください」
 
と祈った祈りに神が答えてくださり、与えられたと考えるのです。
 
 食べ物は無限にあるわけではありません。事実、この世界には実に多くの人々が飢えのために苦しんでいます。食前の神への感謝の祈りは
「すべての人に糧を与えてください」という祈りへと私たちを導くのです。