「目をさましなさい」ー目覚めて生きるー (ヨハネの黙示録3:1〜6) 聖書はキリスト者が「目を覚ましている」ことの必要性を教えています。「実は死んでいる」と表現されているサルデスの教会に対して主イエスが送られた手紙から、目を覚まして生きる(歩む)とはどのようなことを意味するのか学んでいきましょう。目を覚ましているためには、次の四つの目覚ましをしっかりとかけておくことが必要です。 1.主イエスの再臨をいつも意識して生きる 「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。」 主イエスは、もし眠りこけていたなら、再臨にも気づかないではないかと言われています。 「あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない」 のだから、私たちは目を覚ましておくことが必要なのです。 「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。」(マタイ24:42) 主イエスは確かに再び来られます。その時は誰も知りません。だから、いつも主イエスの再臨のために備えておくことが必要です。 「目を覚ましていたならば、主イエスが来てくださったときにいつでも喜んで迎えることができる。泥棒が入って来たときのように慌てふためくことはない。こんなはずではなかったとうろたえることはない。」(加藤常昭) 「主イエスよ、来てください。」(ヨハネの黙示録22:20) これがキリスト者の願い、望みであり、持つべき信仰の姿勢です。 2.油断しないで生きる(油断大敵!) 「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」(Tペテロ5:8) 「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。」(Tコリント16:13) 「目を覚ましている」ということは油断をしないで生きるということでもあります。油断は禁物。油断大敵(油断は失敗や身をあやまるものと、何よりもこわい敵であるの意)という言葉が示すように、キリスト者にとっても油断はこわい敵なのです。 油断は「油」を「断つ」と書きますが、キリスト者にとっては聖霊の満たし、油注ぎなくてはその歩みを進めていくことができないことを思い起こさせます。いつも聖霊に満たされるよう、神に求めることが大切です。 3.信仰の基本に忠実に! 「だから、あなたがどのように受け、また聞いたかを思い出しなさい。」 エペソの教会に対して語られた 「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し」(ヨハネの黙示録2:5) と同様の意味を持つ言葉が使われています。 「それを堅く守り、また悔い改めなさい。」(「悔い改めて、初めの行ないをしなさい。」) つまり、(信仰の)原点に帰ること、与えられた歩みを貫き通すことが促されています。 それは、神の愛、恵みの中にどのように入れられたかを思い出すことであり、神との交わりである礼拝、キリスト者のまさに呼吸である祈り、心の糧であり、神の生きた言葉である聖書によって歩むこと、神を愛し、隣人を愛することに集中することがここで勧められていると言えます。 信仰の基本に忠実に歩むキリスト者は「死にかけているほかの人たち」を力づけることができます。礼拝、祈り、聖書を読む喜びに満たされているからです。主イエスとしっかりつながり、多くの実を結んでいるからなのです。 4.希望をもって生きる 「眠っている人よ。目をさませ。 死者の中から起き上がれ。 そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」(エペソ5:14) 死んだ者のようであっても、いや、死んだ者であっても(「実は死んでいる」)、キリストにあってよみがえることができます。新しいいのちに生きることができるのです。 これは神が決して私たちを見放されることはない、見捨てられることはないという希望を私たちに与えます。この希望をもって神を信じる者は生きることができるのです。 私たちが神の呼びかけに応じて、再びよみがえりのいのちに生きる者とされる時、もはや自分のためだけに生きるのではなく、 「死にかけているほかの人たち」 を力づけるために用いられます! 「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32) |