「『弱さ』への憧れ」
 
 自由化や構造改革が進む中、社会のさまざまな分野で競争が激化しているようで、昨年ぐらいからでしょうか、「勝ち組」という言葉がよくメディアに登場するようになりました。「勝ち組」があれば、勿論「負け組」もあるわけで、多くの人は何とか「勝ち組」でありたい、そこに残りたいと願っているようです。
 その願いを示すかのように、「力」がそのタイトルに含まれている書籍が実に多く出版されています。あの『声に出して読みたい日本語』の著者で明治大学の斎藤孝教授によるものがその代表的なものではないかと思います。
『段取り力』、『質問力』、『コメント力』、『恋愛力』、『コミュニケーション力』、『教え力』、『原稿用紙10枚を書く力』
などで、その多くは斎藤氏の造語です。
 
 他にも、久恒啓一他編『伝える力』、影山貴彦著『おっさん力』、岩永嘉弘著『一行力』、平野秀典著『感動力』、眞邊明人著『タレント力』などがあります。とにかく実用的ですぐに役立つ、「勝ち組」に残るための力をつけたいと願う人が確実に増えていると考えられます。国や社会には頼ることはできない、だから自分が力をつけて強くならなくてはと感じているのでしょうか、現代人の中にあるこの「力への憧れ」、「強さへの憧れ」が、これらいわゆる「力」本の売り上げを伸ばすことに貢献しているのではないかと思います。
しかし、そのような流れに対して疑問を呈するものも登場しています。その一つが「ぞうのエルマー」シリーズでもよく知られているデビッド・マッキーの最近の絵本に『せかいでいちばんつよい国』(光村教育図書)です。登場するのは、世界中の人々をしあわせにするために、世界にあるすべての国を征服した「大きな国」の大統領です。
「大きな国」の強力な軍隊は戦争をしてはどんどん他の国を征服するのですが、ただ一つ「小さな国」が残ります。その国には軍隊もなく、「大きな国」から遣わされてきた軍隊はまるでお客さんのように迎えられます。そして兵隊たちは「小さな国」の住民と食事をしたり、話をしたり、遊んだり、歌を歌ったり、住民の仕事を手伝ったりして過ごしはじめます。大統領はこのままではと思い、もっとしゃきっとした兵隊たちと交代させますが、同じように彼らもすぐに「小さな国」の住民と楽しく過ごしてしまいます。結局、数人の見張りを残して「大きな国」の軍隊は帰っていきます。
その後「大きな国」では「小さな国」の服や食べ物、遊びが大流行、子どもに「子守歌を歌って」と頼まれた大統領も「小さな国」の歌を歌うというところで物語は終わっています。本当の「強さ」とは何かを考えさせる、大人にも読んでもらいたい絵本です。
 
 カナダのデイブレイクにある知的障がい者がともに生活する「ラルシュ共同体」で晩年を過ごしたヘンリ・ナウエンの『わが家への道』(あめんどう)も、私たちが求めるべき「力」「強さ」について多くを語る本です。
 ナウエンは「まことへの道」の章で、「強さを介した力から、弱さを介した力へと向かって行く方向にこそ、わたしたちのたどるべき道があります」と断言します。そのためにも「平安に満ちた、実を結ぶ生き方は、弱さ、無力の中にある」ことを認め、「あえて弱さというものを、実を結ぶ絶好の機会と見よう」ではないかと説いています。
 
 聖書の中でもパウロという人物が次のように述べています。
「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(新約聖書コリント人への手紙第二12章9,10節)
 
パウロも当時の社会の「勝ち組」の中にいたのですが、キリストと出会い、自らの弱さに気づかされ、その弱さの中にこそ、神が働いてくださる(直接的、また、まわりの人を通して)という確信に持つようになったのです。
 マッキーやナウエンの本、そして、パウロの言葉を読んで強く思わされるのは、一人(もしくは一国)で強く生きるのではなく、「勝ち組」であることにこだわるのではなく、欠けたところ、弱さは誰にでもあるのですから、それをまわりにいる人たちに補ってもらいながら、助け合い、支え合って、ともに生きていくことを選ぶことが必要だということです。そして、こういう時代、社会だからこそ、ナウエンが説く「弱さというものを、実を結ぶ絶好の機会」としていく生き方を目指してみたいと願います。