「『もう笑うしかない』時には…」
昨年から今年にかけて、例えばマンションの耐震構造や株や輸入牛肉にまつわる虚偽に、怒りをこえてあきれてしまう、そんな心境になった人も多いのではと思います。そんな気持ちを吹き飛ばそうと思って読んだ本が、漫談家の綾小路きみまろの近著『こんな夫婦に誰がした?』(PHP研究所)です。彼独特の毒舌には閉口するところもありますが、読みながら何度も笑い、かなりのストレス解消になったのではないかと感じています。
綾小路きみまろのそれは基本的には「もう笑うしかない」の笑いだと思います。タイトルもそうですが、各章も「こんな人生に誰がした?」や「こんな日本に誰がした?」などと「もう笑うしかない」ところから生まれたことが書かれていると思います。そんな気がするのです(ちょっと「きみまろ風」?)。
旧約聖書にアブラハムとサラという夫妻が登場します。神は彼らに子どもが生まれると告げられました。
「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻サラには、男の子ができている。」(創世記18章10節)子どものいない二人にとってこのお告げは本当にうれしいものであったはずなのですが、二人とも笑ってしまうのです。
「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。」(創世記17章17節)
「それでサラは心の中で笑ってこう言った。」(創世記18章12節)
「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」(創世記17章17節)これが彼らの現実でした。到底子どもなど生まれるはずがないのです。二人の笑いは神に対する嘲笑ではなく、「もう笑うしかない」ところから生まれた笑いです。ある牧師はこのことを次のように解説しています。
「『もうとっくに諦めていますよ。現実は現実でしょう。お戯れにならないでください』というような、そんな笑いでしょう。これは不信仰の笑いというよりも、現実に生きる人間がそれをはるかに超えた大きなことを突きつけられて、それをとても受け止めきれずにいる、そういう状況を示しています。」(遠藤嘉信『さあ、天を見上げなさい』いのちのことば社)
日本笑い学会の会長で関西大学名誉教授の井上宏さんはその著書『笑い学のすすめ』の中で、大阪の地下鉄日本橋駅にある広告、「笑って見送れ終電車」を紹介しています。そして次のような落ちを書いています。
「どこの広告かとよく見ると、カプセルホテルの広告だ。なかなか上手い表現だなと、思わずニコッとしてしまう。乗り遅れたら、もう笑うしかないわけである。」
「もう笑うしかない」状況で人は笑うとは限りません。特に最近は笑うことのできない人が増えているのではないかと思います。そういう時にすぐにむかついたり、怒ったり、キレたりする。いきなり手を出すなどの暴力に訴える、どうもそんな人が増えているように感じている人は多いのではないかと思います。
勿論、現代社会には笑い事ですますことができない問題が山積みです。しかし、むかついたり、キレたりしても解決にはならないことも明らかです。
アリストテレスは「動物のなかで笑うものはヒトだけである」と語っていますが、人間は「笑う存在」であると言えるでしょう。また、井上さんやノーマン・カズンズ(『笑いと治癒力』岩波書店)、アレン・クライン(『笑いの治癒力』創元社)らの笑いに関する研究によって、笑いが人の身体(例えば免疫力の向上)や人間関係に与える影響について明らかになってきています。それらから「人は笑いなくして生きていくことができない」(井上)も言うことができると思います。
122歳まで生きたフランスのカルマン夫人は、元気で長生きするためには「退屈しないことと笑うこと」という言葉を遺しています。最近出会った「一日健康法」(一日に一読、十笑、百呼、千字、万歩)にも笑うことが勧められています。人生で、そして、毎日の生活の中で、失敗などの「もう笑うしかない」状況に置かれたら、まず笑うことを忘れないでいたいと思います。笑いで元気を(ちょっとだけでも)取り戻し、落ち着いて問題の解決に取り組んでいきたいものです。