「知恵が深まれば悩みも深まり
知識が増せば痛みも増す。」
(コヘレトの言葉一章十八節 新共同訳)
この頃よく言われることですが、私たち日本人は大変な情報化社会の中で生活しています。テレビ、新聞、雑誌、書籍、そして、インターネット。これらどれからでも莫大な量の情報を得ることが可能で、特にテレビやインターネットは世界中で発信される情報をリアルタイムで提供しています。
勿論、すべての情報を手にすることはできません。また、すべての情報が必要なわけではありません。しかし、私たちは「少しでも多くの情報を」とつい考えてしまいます。
ある人は戦後の教育が知識偏重であったこと、知識注入式教育がその原因だと分析しています。私たちが
「いかに多くの知識があるかが、若者の将来をきめる、不幸な状況」(河田悌一)
の中に置かれていると言うことができるでしょう。
作家の高村薫さんがある新聞のコラムで書いているように、過激な暴力や性の情報を子どもたちに与えることは不必要です。また、性教育の基本は家庭がその責任を担うべきだという考えを前提にしていますが、現在学校で行われている性教育が、単に情報や知識として性を教えるだけならば十分ではないでしょう。情報が一方的に与えられているだけであり、それらの情報を埋めただけの心に想像力は育ちません。
パウロはコリントの教会への手紙の中で、「知識は人を高ぶらせる」(第一 八章一節)と注意しています。さらに次の節では
「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです」
と、知識だけでは十分でないことを教えています。
「知識は、自分がこれほどのことを学んだことを誇りに思う。知恵は、自分がこれ以上のことを知らないことを見て謙虚になる」
とW・クーパーは言っていますが、単なる知識の積み重ねに終わらせてはなりません。日常の生活の中で生かしていくことができる知恵を身につけることが必要です。
パウロはさらに「愛は人の徳を建てる」と語りました。情報も知識も愛というコンテキストの中で用いられる時、本当の意味で役立つのです。
知識、情報に関して私たちが考えなければならないことがもう一つあります。それは情報の選択、どの情報を選ぶかということです。
現在、情報公開についての取り組みが進んでいますが、国や地方自治体が所有している知識や情報は国民に属するものだと思います。プライバシーなど配慮しなければなりませんが、できる限りの公開が望まれます。
しかし、すべての情報が必要なのではありません。人ぞれぞれ知りたいことも違うでしょう。
「インターネットは空っぽの洞窟」とはクリフォード・ストールが書いた本の題名ですが、インターネットで手に入れることができる情報の中には中身のないもの、空っぽなものがあります。様々な情報、知識が手に入るし、便利なものですが、その中にはヴァーチャル(仮想)なものとリアル(現実)なものが入り交じっているなど多くの問題があることを忘れてはなりません。
知識だけでは、それがいかに膨大な量であったとしても「痛みを増す」、「悩みを重ねる」(旧約聖書翻訳委員会訳 岩波書店)ことになるでしょう。
私たちは必要な情報を選択しなければなりません。
知識や情報に対して謙虚な姿勢は大切ですが、本物を見分ける力、そして必要なものを自分の中に貯えるだけではなく、その知識を人の徳を建てるために使う愛はもっと大切なのです。