救いの証し

 
 私が初めて教会に行ったのは25歳の時でした。15歳で呉服屋に住込みの店員として就職してから10年目のことです。その頃、私の生活は乱れていました。中学校を卒業して世の中に出た頃に持っていた
「将来は独立商人として成功し、故郷に綿を飾るんだ」
という夢は無残に消え、いつしか覚えた酒とパチンコに逃れ場を求めるような情けない生活に明け暮れていました。心の中に安らぎはなく、接客に苦痛を覚える程でしたから、店員どころか人間失格の状態に陥っていました。色々の啓発書を買って読み、何とか立ち直ろうと努力しましたが、ますます落ち込むばかりでした。
 
 そんなある夜、何気なくラジオを聞いていた時、キリスト教の話が耳に止まったのです。それまでにも何度か聞いたことのある放送で、いい話しだなあくらいに聞き流していたものが、その時はまるで私一人に話しかけているように思えたのです。放送の終わりに案内された宛先を頼りに、自分の心の状態を書いた手紙を送りました。すぐに返事が届きました。中に入っていたパンフレットを読んで自分の今ある状態の原因を知りました。
 
 目的を持って人間を造られた、造り主である神を知らず、25年もの間、全く自分勝手なことをしてきた結果であることが判ったのです。近くの教会が紹介されていたので12月も半ばを過ぎたある夜、生れて初めて教会に行きました。ちょうどその夜は伝道集会と言って初めての人によく判るように聖書のお話がされていました。
 
 目に見える体は生きているように見えるけれども、罪を犯すと人の魂は死んでしまう、そして罪というのは法律に違反することではなく、人を憎むこと、人をねたむこと、情欲を抱いて異性を見ることも含まれると話されていたのです。そうなると思い当たることばかりです。その頃の私は十年間も世話になった店の主人に対して、感謝するどころか憎しみさえ抱いていたのです。又私は人をねたんでいました。同僚に対しては売上成績の競争からいつも嫉妬がありました。異性に対して情欲を抱くことが罪となるとこれはもうお手上げです。夜、布団を敷いて寝る店のカウンターの下には店の主人でも買ったのか実話雑誌と呼ばれる週刊誌がゴロゴロしていました。記事を読むにつれ、心の思いは汚されて、女性を見ると淫らな思いが心を支配していたのです。これを「姦淫の罪」とする聖書の言葉は私の胸に突きささりました。
 
 
「罪を犯した魂は死ぬ」
しかしこの死んだ者を救うためにイエス・キリストが来てくださったこと、十字架上の死は私の犯した罪の身代わりであったこと、それを信じる者は救われるとのメッセージを私は全身全霊をもって受入れたのです。これまでの罪を悔い改め、牧師先生にお祈りの中で、
「あなたの罪は赦された」
との宣言を聞いた時から、私の心の中に言いようのない喜びが広がって行きました。私はこの時新しく生れ代わったのです。
 店に帰った私は、主人にこれまでの不従順を詫び、同僚と和解し、女性に対してはその後聖書から教えられて妹、また母親に対するような接し方が出来るようになりました。
 
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべて新しくなりました。」
 

という言葉がありますが、私はそれを文字通り体験したのです。以来私は今日まで、もういつ死んでも思い残すことは無いという喜びの中で生活しています。
(これから25年後、献身して神学校で学び、牧師となって20年、2005年現在70歳)