生涯一番頭

 
 もう名前も忘れてしまったが、数十年前、他教会の信徒で、大変威勢のいい若者が教会来るようになった。集会日にも来たがふつうの日は、夜になってからよく尋ねてきた。お隣りの市にある市場で働いていて路傍案内から導かれてきたと記憶している。
 当時私は、京阪神一円で、市場、スーパー、デパートなどを回り、店頭で宣伝販売をしていた。時々彼のいる市場にも行ったことから話し合う機会も多くなり、心おきなく何でも打ち明けてくれるようになった。
ある夜、彼は二人の友達を教会に連れてきた。
そして持前の大阪弁で、私を彼等に紹介した。
「あのな、この人は牧師さんやないさかい、そう固うならんかてええ。長老さんゆうてな、そやなー、長老さんゆうてもおまえらにはわからんやろ、まあはよゆうたら、この教会の番頭さんみたいなもんや」
恐れ入った。教会で番頭さん呼ばわりされたのは、この時が始めての最後である。
 でも正直言ってうれしかった。市場の入口に立って、大道商人よろしく物売りをしている私の姿を見て、きっと若者は親近感をおぼえ、友達を気さくに教会まで連れてくる気にもなったのであろう。現に、通常では絶対に尋ねてはこないと思われる二人が教会に来た。
 
 日本人が、キリスト教とか、教会に対して抱いている偏見に近い考え方は、今でもいっこうに改まってはいない。
 毎年、教会のバザーがある。婦人会員が一年がかりで作成した手芸品などを中心に、日用品、衣類などが販売されるが当日教会まで足を運んでいただくために、教会周辺の人や、知人に食券の前売りがなされる。その中でちらしずしは、今や欠かせないものとなっている。折詰めにして量産がきく。
 昨年のバザーに、教会のS姉の同じ職場の方が数名こられた。
翌日、会社でS姉に、
「ちょっと―、キリスト教会にもおすしやぜんざいがあるのねー。わたしはまた教会ならサンドイッチと紅茶かと思った」
ですって。これでは外人宣教師でも出てこないと、もうキリスト教会ではないみたいな感じにとれる。
 
 私が救われたのは、呉服店の番頭をしていた時で、25歳の時であった。日曜日の夕方になると教会から路傍案内が商店街にやってきた。外商に出たふりをして私もそれに加わり、自分の救いの体験を証しした。ある日、ついに主人の知るところとなり、
「路傍案内は専門の牧師にまかせて、おまえはキモノを売れ、第一、おまえが人を教える柄か」
と叱られた。これまた偏見である。
 説教でもしていたと勘違いしたのであろうが、私はただ自分の体験を話していたにすぎない。これならクリスチャンなら誰にでも出来る。キリストを信じた時に私の内に起ったことを、得意先でも、仕立屋でも、どこででも話した。その結果、少なくとも20名ばかりの人が教会に導かれた。救われて1年も経っていない時である。
 
 思うに、牧師先生とは羊を飼う牧者であり羊を産み出すのは羊、(信徒)の仕事である。
 プロ野球元監督、野村克也氏の有名な言葉に

「生涯一捕手」
というのがある。自分のなすべき分を知り、生涯かけてそれに徹した人の言葉だ。私の一信徒として神の教会の
「生涯一番頭」
を勤め上げたい。