「長老ひとりごと」

 
  大阪、茨木の教会で、35歳の時、長老と任命されてから35年。ついに70歳を迎える。”どっこい、まだ生きている。”朝ドラ「わかば」のセリフではないが、
「生きてるだけで丸儲け。」毎日を楽しく生きている。
 しかし最近では、70歳なんて古来、稀どころか、近年多数となったため、
「近多」と呼ぶそうである。金太郎みたいでこの方が元気が出る。
 
 ひと月ほど前、教会のホームページに、月に二つくらいコラムのようなものを書いてみないかとのお誘いがあり、考えていたところ、昔、週報に
「長老ひとりごと」という題で書いたことを思い出し、製本保存されていたのを幸いに、とりあえずそれを提出した。
 1982年から23年ぶりに、今度はなんとコンピューターのホームページに
「ひとりごと」が語れるなんて、想像さえすることはなかった。神の恵みに感謝するばかりである。
 
 しかし、今、これを引き受けた背後には、それだけの理由が、ちゃんとある。
 
 昨年、東北中央教会―永井主任牧師の書いた、ご存知でしたか。
「白髪は栄光の冠」というタイトルの教会の集会案内の文中、老いを前向きに受け止めようという勧めの中で、
「老いの時は、成熟の時でもあります。目に見える身体機能である運動や生理機能は年齢とともに衰えていきますが、目に見えない精神機能、例えば結昌性知能(経験を生かして直面する問題を解決する能力)や、言語性知能(70歳前後でピークに達する)は年齢と共に上昇すると言われています。」
大阪大学教授、柏木哲夫さんの説が引用されていた。
 
 この70歳ピーク説が私の心を揺り動かした。私は25歳でクリスチャンになり、そのときすぐに牧師になりたいと思ったが、あなたは信徒として神のために働くようにとの牧師の勧めで50歳まで、会社員として働き、50歳で献身(仏教なら出家)今日に至った者である。25歳までは、この世で神と無縁の生活をし、25歳からは信仰者として教会生活を守って社会の中で働き、50歳で牧師の奨めで神学校に入って学び、牧師となった。それから20年。25年サイクルの私の人生計画では、後5年が残されている。何が出来るか考えた。
 
 先程の老人にも、いや老人にこそある二つの機能を働かせれば、後5年は現役でやれると考えたらもう体が動く、悲しい性(さが)は止めようがない。昨年より、老人ホームの訪問を始めている。ハーモニカを持って行き(実は私の特技で、知っている歌なら何でも吹ける)注文に応じて歌いたいだけ歌った後で、牧師の感話をして帰る。最近では各地の社会福祉協議会からお呼びがかかってくる程になってきた。
 
 それとテレホンメッセージ 
рO22―345―3239 にかければ、2分間希望の湧いてくる話が聞けることになっている。一方通行だが私の声だけは聞こえる。無理は続かないが、これくらいはまだ出来る。
 
 そこで最後に引受けたのが、この

「長老ひとりごと」

難しい話は書けないし、話せないが、とにかく朝は三時に目が覚める。
 
 先程の結晶性知能に蓄えた40年間の神の恵みを小出しすれば、あと5年は十分持つ筈である。
 
                                       2005.4.17