「安全第一」
ビルの建築現場や、大きい工場には、よく目につく位置に「安全第一」という看板が掲げてある。一目瞭然、読んで字のごとしで、それ以上の意味があるなどとは考えたこともなかった。ある時、労働基準局の監督官が工場に来て講演されたが、お話を聞いて以来、私にはあの「安全第一」の四文字が輝いて見えるようになった。
チャップリンの映画「モダン・タイムス」を見た人なら容易に理解できると思うが、今から一世紀前のアメリカは、ちょうど戦前の日本と同じように生産第一の時代であった。
「生産第一」「品質第二」「安全第三」
の順位で、近代機械による量産の歯車はうなりをあげて回転していた。ある日のこと、たまたま自分の工場に視察に来ていた社長の目前で、死亡事故が発生した。
クリスチャンであった社長は非常に心を痛め、即刻、会社の方針を
「安全」
を第一とすることに切りかえ、安全対策に万全を期したのであった。そのことは、全従業員の士気を鼓舞するところとなり、品質、生産の向上にもつながったことから、以来、
「安全第一」
が全事業所で取り入れられ、今日の日本にも及んだというお話であった。
私は少なからぬ感銘を受けた。
一人の人間の死が、無駄にされなかったことに対してである。その場で即、「安全第一」に踏み切った決断が、
「一人の人間の価値は、全世界より尊い。」
とする聖書の評価を知っているクリスチャン社長の、神に対する恐れから出たことを感じたからである。
北炭夕張炭鉱の火災事故は、死者、行方不明合わせて九十三名という大惨事となった。テレビ画面に映し出される「安全第一」の看板がいかにも空しかった。このような大惨事が起きる度ごとに「事故対策本部」が設けられ、「二度とこのような、・・・・・。」が繰り返されては、又同じような原因の事故が起こる。そして次にくるのが責任者の自殺とは。その後、事故処理の陣頭に立つ社長が自殺を図った。未遂には終わったが、これでは事故を未然に防ぐための「安全対策」など立つはずがない。
いくら経済大国となっても、もしこのような人命軽視を続けるなら、世界の文明国の仲間入りはおろか、企業も国家も滅びを待つほかはない。
以前、日本の経済成長を取材するために来日した外国人記者の目にうつったものは、産業公害(公害とは公認人為災害の略か?)によってもたらされた環境汚染の物凄さであった。長期滞在を覚悟で家族も伴ってきたが、余りに汚染されている日本に恐れをなして、家族を本国へ送り返さざるを得なかったとは、その記事を読む者の心胆を寒からしめる。そして取材活動も、そのペンの鉾先は公害問題に向けられ、日本の公害の実態が世界に紹介されていた。ヨーロッパなら戦争が起こるほどの大問題であると、・・・。
充分な安全処理がなされないまま、川や海に流された工場廃水は都市周辺の海を死海とし、水俣、新潟では一工場から出た水銀を含んだ排水が多くの人命を奪った。魚や鳥の住めなくなった自然環境は、当然人類の生存を脅かすものである。
経済発展への近道が、人間の権利を侵す犯罪的行為であることは、誰の目にも明らかであるにもかかわらず、対策はいつも後手後手に廻っている。真の
「安全対策」
とは事前対策であって、事が起きてからでは遅いのである。どこかで「安全第一」を見つけたら、看板の裏に秘められたこのエピソードのことをどうか思い出してほしい。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(聖書)
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