仏教思想と日本人
日本人はよく記念撮影をする。修学旅行、お正月、同窓会、卒業記念といった具合に。これは他の民族と比較する時、やはり特異なものである。各家庭には必ずとiいっていいほどアルバムがありキチンと整理されている。カメラを持っていて写真を撮ることなどは、いわゆる日常茶飯事で、「趣味」の内にも入らない。
このような記念写真を撮る習慣の中にも、仏教的な考え方が働いている。生涯の中で、この日、この時共にあるのも因縁によるもので、ご縁あって先ずは一枚と、まったく知らない人と一緒に写真に収まったりする。同郷、同窓、同じ職場も縁あってということになり親愛の情は大変なものとなる。終身雇用制などもこのような土台の上に成り立っている。これらのことはまだ一事で特に今日仏教徒という者はなくても、その思想、哲学の根底に仏教的なものを否定することはできない。哲学と聞くとアレルギーを起こす向きもあるが、最も基本となる物の考え方のことである。
「バカねぇー。また忘れもの?あまり有頂天になるからよ。玄関を出る前によくたしかめなくちゃ。自分の支度もほんろくにできないんだから、・・・・・・・・」
この無意識に使った愚痴の中の四つ
「バカ(莫迦)、有頂天、玄関、支度」
は仏教用語であり、その上
「無意識」も、
「愚痴」
もと聞けば、仏教用語の日常生活への浸透ぶりが伺えようというものである。
日本が仏教国と言われる所以もここにある。
さて、こうなるとこれまで読んできた世界文学全集の日本語訳など、どこまで原作者の意図が私たちに伝わっているかが気にかかってくる。あながち天国など、彼岸の彼方に移されて、入ることはおろか、渡ることさえ出来なくなっているのではなかろうか。
以前エリザベス女王が来日された際、京都のお寺にご案内した。折から修道僧が習字をしていて、歓迎、平和、無という漢字を書いて見せた。案内役のお坊さんの通訳でウェルカム、ピースまでは良かった。
「無」に至って、
「ム・・・・・、」
とつまったが、さすがはお坊さん、とっさに
「お国でいう神ということになりましょうか。」
とやったものだ。
「無」が神とは!
この意訳には、女王陛下もさぞかし驚かれたことであろう。「無我」の境地に悟りを開こうとする禅寺であったので、そういうことになったのかも知れない。
しかしこういう世界で長年生活していると、知らぬ間にそうした物の考え方が身についてしまって、中年を過ぎて初めて教会に来て説教を聞いてもピンと来ないのが当り前である。だからイエス様はすでに老年になっていたユダヤ人の指導者で律法学者ニコデモに対して
「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない。」
とおっしゃった。少々の意識改革くらいでは、決して救われないということである。
年を取るとこの世の経験も積み、視野も広くなると思うのは錯覚で、その実、多くの挫折感、絶望感を味わうあまり、すべての物事に対して悲観的になり、幼い日に抱いた生き生きとした夢はどこへやら、残り少ない自分の命を思ってオロオロするばかりとなっている。
もし出来ないなら、イエス様はニコデモにあのようなことを言われなかったであろう。仏教の始祖、釈迦の教えに従って大往生をとげ。おだぶつとなることで本当に満足しているのなら、そのままの生活を続けてもよい。しかし、新しく生れ変わることが出来、永遠の命が与えられ、喜びに溢れる毎日を生きることを願うなら、復活されて、今も生きておられるイエス・キリストに出会う必要がある。
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