仲人

 
 
「お父さん、教会では牧師先生か長老さんが、この人と結婚しなさいと言ったら、その人と結婚しないといけないの?」
 「別にそうと決まってる訳じゃないけど、もしそうすれば、きっとうまくいくと思うけどなー。またどうしてそんな話持ち出したの?」
 「だって、何となくそんなふうに見えたから、・・・・・・・・・・・・・・・・・。」

 
これまで教会で行なわれた結婚を、そのように受け止めていたのは心外であったが、おやおや、娘もそんな年頃になったかと驚きながら、教会員男女の結婚問題には大いに考えさせられる、きょうこのごろである。成人した男女にとって結婚は重大な問題であろうし、特に、クリスチャンの女性にとっては、親のすすめる未信者との結婚話が持ち上がる度にトラブルが発生しかねないからである。
 クリスチャンであれば男女の別なく、相手がクリスチャンであることを望むのは当然であるが、かと云ってクリスチャンであれば誰でもいいというわけには行かない。これ又当然のことである。教会内で青年男女がそれぞれに理想の相手を見つけられれば何も云うことはないが、現実には一つの教会では難しい。聖会などでカップルが誕生することを、ひそかに願っているのだが・・・・・・。
 
 
 それにつけても当の若者の結婚観はどうなっているのだろう?
最近は、見合いと恋愛の中間形態が多いようである。第三者の紹介で見合いをし、交際を続けているうちに恋愛感情が芽生えてゴールインするケースとか、恋愛した男女が、しかるべき第三者を仲人に立てて円満に話をまとめるといったのがそれで、純然たる見合いでも恋愛でもない。
云わば交際結婚とでもいうべきものが受け入れられているようである。
これを見ると結婚について、見合い、でなければ恋愛といった割り切り方は少なくなっているが、それでも恋愛結婚は近代的で、見合い結婚は古くて封建的なものという考え方が強いようである。
 
果たしてそうであろうか。
見合い結婚というのは、近世以降の都市生活の発展にともなって生まれた案外に新しい結婚形態である。

近代以前の日本で、一般庶民、ことに農民の場合には、若者と娘は、村の中で公然と集団的に交際し、自主的に自分の結婚相手を見つけていた。
昭和に入ってからも終戦くらいまで、農民にはこの風習が残っていた。
平素から身分、人柄の良くわかっている者同士が対象となるわけだから、見合いの必要がなかったのである。
 
 ところが交通、経済の発展によって、村の狭い封建制が破られ、農家の次男、三男は都会に流出して、都市生活が大きく発展したため、自分で適当な相手を捜すことは出来なくなった。
そこで本人に代って職業、家柄、性格など、釣り合う相手を探し出して二人を結び合わせる仲人というものが必要となってきた。
これは秀抜な日本人が考えだした知恵で、外国ではあまり見られないものである。このような習慣のないアメリカなどでは、相手を自分で捜さなくてはならず、男性はともかく、気の弱い内向的な女性は、向こうから求婚されない限り、積極的に自分の胸の内を打ち明けようとしないから、どうしても結婚のチャンスを逃しがちになる。ことに結婚に関する限り、日本ほどカウンセラーの発達している国はないのだから、教会間でも、情報を交換し合い、良きカップル誕生に結びつけたい.
 
 
 やたらに仲人になりたがる
「高砂屋」は困りものだが、よきカウンセラーとしての仲人の存在と役割は、今後さらに必要の度を加えるに違いない。