「心配無用」
何事も思い煩ってはならない。明日のための心配は無用です。と聖書は記しています。
空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。今日は野にあって明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はあのように装ってくださるなら、人間にそれ以上のことをしてくださらない筈はない。と言うのです。たしかに思い煩って自分の身長や寿命を伸ばすことや、髪の毛一本白くも黒くもすることが出来ないのです。人間に必要なものはすべて神様が与えて下さっているのです。宮城県で米が不作のとき、秋田では平年並みでした。南半球が不作の時は北半球で補うことができる筈ですのに、それが出来ないのは人間の罪です。
決して神様が不公平なのではありません。私の家で次々に子供が生れるので兄が心配してくれて、どのようにして育てるのかというものですから、大丈夫、神様が育てて下さると答えていました。七人の子供はそれぞれに育ち、家庭を持ち、孫も生れています。
聖書は言葉を続けて言います。明日がくれば明日の心配がある。労苦はその日その日十分にあるからだと。私達夫婦はこの言葉によって、その日その日を精一杯に生きてきましたので、思い煩うひまがなかったのです。もしこの言葉を知らなかったら、育児ノイローゼにかかっていたに違いありません。家内はどんな時にも賛美歌を歌っていました。
私の子供達はそれを見て育ちましたので、自分が親になった今では、子育てで悲鳴を上げることはありません。聖書の言葉というのは、何でもないようで、行なう時に、考えられないほどの力が出るということを、しみじみと感じています。
|